la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
美酒礼賛(長文)
「こんな人が働いているメーカーにまずいワインはない」
(『ヨーロッパ ワイン夢紀行』宇田川悟)


故・麻井宇介氏の名著『ワインづくりの思想』を読んでからというもの、日本のワインづくりの現場を見に行きたい、とずっと思っていた。もちろんただの観光客としてだけれど、ここはと思うワイナリーを見学に行って、そこで働いている人と話をしてみたい、と。そう思いはじめて一年足らずで実行に移したのは、思いつきが常に思いつきで終わる私としては奇跡的な行動力と言えるかもしれない。半ば笑顔、半ば呆れ顔の友人いわく、「よっぽど好きなんやなぁ」。

というわけで、勝沼ワイナリー訪問記です。


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左から丸藤葡萄酒「シャリオ・ドール'87」、ルミエール「石蔵和飲'06」、勝沼醸造「アルガーノ・ボシケ'06」。
今回、絶対に行くと決めていたのは次の三ヵ所。

まず、エキゾチックなラベルと独特のネーミングであやしい磁力を放つ「アルガ」の勝沼醸造。それから、海外での評価をいち早く勝ち得ていた老舗ワイナリー、シャトー・ルミエール。そして、これはまったく趣味的な話で、ワインに「ルバイヤート」の名を冠している丸藤葡萄酒工業(ルバイヤートについては前述しているので詳細は省く)。

まずは「勝沼ぶどう郷」駅でJRを降り、棚作りの葡萄畑(小さな黄緑色の房は開花直前の気配。華奢な蔓が何本も空に向かって伸びているのが何だか愛おしい)を見ながら、歩きに歩いて「ぶどうの丘」なる勝沼町営施設へ。勝沼中のワインが勢揃いするショップ、甲府盆地を一望できる展望レストラン・・・というガイドブックの言葉を鵜呑みにし、勝沼の概略を知るには良いだろうし気楽に昼食が取れるだろう、と思ったのが大きな間違い。がらんとした館内には閑古鳥すら鳴くのを憚るような死んだ空気が漂い、田舎のお役所に常駐しているタイプの無愛想でやる気のないスタッフが冷めた目で虚空を眺め、趣味の悪い土産物と賞味期限の近い菓子類と何故か「キウイ」だけ何十個と並んでいる瓶入りジャム。駄目だ、これは。展望レストランへ上がる階段には「営業中」の看板があったけど、テーブルにビニールクロスがかかっていそうだったので早々にタクシーを呼んで貰って退散。

さて、気を取り直して一路「丸藤葡萄酒工業」へ。住宅地の中に「庭」感覚で葡萄畑が点在している、そんなロケーションのワイナリー。「ルバイヤート」の「R」をあしらったセンスの良い看板、フランスのプチ・シャトーを思わせる白壁の小ぢんまりした建物。左側に木造の民家が隣接していて、その軒下に野良着の老夫婦が座っている。傍に生野菜の並んだバットが見える。バーベキュー? 焼きソバ?

見学の予約をと思って勝沼醸造に電話したとき「12時から1時までは外してください」と言われていたので、ちょうど12時過ぎという時間が気になっていた。老夫婦と目が合ったので軽く会釈をしてみると、お爺さんが気さくに立ち上がって「ワイン?」と訊いてくる。「あ、はい、そうです」と返事をして、「すいません、お昼どきに」と言ってみるが、また重ねて「ワイン?」と訊かれる。こちらが外国語でも喋っているかのような奇妙なちぐはぐさ。たぶん関西弁のイントネーションが耳慣れないのだろう。

お爺さんは「わしら農業部のモンだから」とにこにこしながら言って(言外に、ワインのことは良く知らないのだ、といったニュアンス)、にこにこしながら建物の中まで連れて行ってくれ、二階に向かって珍しい発見を報告するかのように「おーい。お客さん来てるよ、お客さん」と言い、それに答えて降りてきた青年(といっても三十代だとは思うのだけど)に身振りで私を引き合わせるとやっぱりにこにこしながら戻っていった。

貯蔵庫とギャラリーは自由見学、フラッシュ使用の写真撮影も自由。見学者への心地良い信頼と無頓着が嬉しい。見学を終えて戻ると、入り口のカウンターで数種類のワインをテイスティングさせてくれる。どのワインも、素直で飾り気のない、それでいてバランス良く垢抜けた味わい。驚いたのは最後に注がれた「シャリオ・ドール(黄金の馬車、の意。これも日夏耿之介が「ルバイヤート」と併せて提案した銘を採用したもの)」というデザートワイン。87年というヴィンテージと濃いめの色合いから極甘口を想像して身構えたのだけれど、どうしてどうして。甘みよりも芯の通った酸が印象的な、落ち着いてきっちりまとまった味わいだ。私の感覚では「甘口」というより「中口」といった印象で、でも中口と表記されるワインにありがちな輪郭のぼけた曖昧さは全くない。

いいワインだ。
感嘆して、恐る恐る、これは普通に販売されているのか、と訊いてみる。「もちろんです」という返事にさらに恐る恐る値段を訊ねると、フルボトルで三千円ちょっと、という俄かには信じ難い答え。ほんとですか、と念を押してから、即断で買う。自分でテイスティングして「美味しい」と感じたのだから、たとえ何か「ワケあり」なワインであっても別に構わないと、実に失礼なことを考える。

このヴィンテージなら一万円近くつけるところもあるでしょうけど、と、何だか勿体なさそうに青年は言い、さらに「もしまだ他に回られるんでしたら、途中で買ったワインを最後の一軒でまとめて発送してもらうこともできますよ。その方が送料が安く済みますし」と教えてくれた。

一見したところひと昔前の文学青年のような、痩せて神経質そうな人だったけれど、物腰が柔らかで良い感じ。ワインの説明も教科書通りの解説ではなくて、ちゃんとこちらの反応を見ながら「対話」してくれる。真面目で誠実な印象。うーん、ワインにたとえるならマスカット・ベリーAだな。

お礼を言って、87年の「シャリオ・ドール」を手に、ワイナリーを出る。
1987年に、日本で既にこんなワインが仕込まれていたなんて。
凄い。

丸藤葡萄酒から歩いてほんの数分くらいで、シャトー・ルミエールに着く。途中で道に迷いかけたのだけど、棚づくりの畑の向こうに不意に垣根づくりの葡萄が見えたので、「ああ、ルミエールの畑に違いない」と思った。そのうち倉庫とおぼしき建物の裏に山と詰まれた黄色いP箱が目に入って、良く見ると「LUMIERE」のロゴが入っている。また少し行くと水色の1トントラックが止まっていて、その荷台のサイドにも「CHATEAU LUMIERE」の文字。視線をめぐらせて、ようやく自分がワイナリーの真正面に立っていることに気づいた。

ショップの引き戸を開けて中に入ると、奥から出てきたのは三十歳前後の、ひょっとすると私より若いのかな、と思わせる男性。とても安定した陽性の気配がする。ワインにたとえるならちょっぴり樽をかけたシャルドネ、といったところ。

ここでは一通り、中をぐるっと案内してくれる。他にお客さんもいないのでプライベート・ツアー状態。地下の石室は天井が高く、静かで荘厳な空気が満ちている。石の壁で区切られたそれぞれの区画に樽が積んであり、品種と収穫年が記されている。「この壁は、もともとは正面も石の壁でふさがれていて、つまり一部屋一部屋が醗酵槽だったんです」。ということは、かつてここに圧搾された果汁が満たされ、ふつふつと醗酵していたのだ。

不意に、石の壁がキラキラしていることに気づく。酒石酸の名残。触ってみたい誘惑を堪えて通り過ぎる。地上へ出るとそこは醸造施設で、巨大なステンレスタンクが並んでいる。と、足元に鉄格子でふさがれた四角い穴。「これが石の醗酵槽です。一応、国の有形文化財なんですけど・・・」。何と、二年前から再びその石室でワインを造っているのだという。「醗酵中は蓋をしないで開けっ放しにしてるので、この辺り全体にすごーくいい匂いが漂うんです」と、嬉しそうに話してくれる。その「すごーくいい匂い」が今にも漂ってきそう。「醗酵が終わるとここから汲み上げて圧搾するんですけど、機械が入らないので全部、人力でやります。バケツ持って来て、ここから圧搾機のとこまで四人くらい並んで・・・」「え・・・バケツリレーですか?」「ええ、そうです。これがけっこう大変なんですよ」。それは確かに大変だろう。でも明らかに、この人は楽しそうだ。

ショップに戻ってカウンターで試飲。明るいのでワインの色が良く見えるのが嬉しい。惜しむらくはグラスでなくプラスチックカップでの試飲だということ。珍しいブラッククイーン100%のワインは青みの強い濃い紫で、口に含むとぎゅっとした酸味を感じる。くだんの石蔵ワインも試したけど、私には先にテイスティングしたステンレスタンクのベリーAとの違いが全然解らなかった。
「この石蔵ワイン、タンクのと比べて明らかに違うところってありますか?」
不躾にそう聞いてみると、笑いを堪えるような顔をして、「えーと、実は・・・、僕らの間でも微妙です。ひっじょーに、微妙です」と打ち明けてくれる。「まあ、つまりはほとんど同じに思えるんですけど、でもお客さんの中にはこの石蔵ワインが気に入って、いつもこればっかり買って行かれる方もいらっしゃいますから、きっと、何かは違うんでしょうね」。そう言って石蔵ワインのボトルにしばし目をやり、「とりあえず、07年はこれよりもっと美味しいものができますよ!」と笑顔で言い切る。

海外での高い評価、マルゴーの樽、数々の受賞歴。そんな看板からもっと堅苦しいワイナリーを想像していたのだけど、実に明るく生き生きした印象のワイナリーだった。ショップには地元消費向けの一升瓶ワインもたくさん並んでいる(キャップも清酒と同じ形式なのだそうだ)。記念に石蔵ワインを一本と、ワインビネガーを使った「シトラスシャワー」という清涼飲料水のよく冷えた小瓶を買って、「えっ、歩いて回られるんですか?」という驚きの声に送られてルミエールを後にした。

最後は勝沼醸造だ。
正直に言って、ここに関しては少し不安があった。ここのワインが、そのラベルとネーミングに強烈な個性を持っていることは確かだ。けれど、以前に最安値の「アルガーノ」を飲んだときにあまり美味しいと思わなかったこともあって、何となく「見たい」というよりは「見ておかなければならない」というような、欲求よりは義務のような、そんな心境だった。歩道のない細いアスファルト道路を歩いていると、等間隔の街灯に取り付けられた案内看板が「すぐ先」から「すぐ手前」に変わって、ワイナリーの前を気づかずに通り過ぎたことを悟る。引き返して、仔細に辺りを眺めてようやく、「勝沼醸造」の看板を見つけた。

ワイナリーというよりは造り酒屋さんのような間口。でも、一歩中に入ると、正面奥にテラスがあって、その向こうに葡萄畑が広がっているのが見える。中にはやっぱり誰もいなくて、テラスに出て畑を眺めていると、不意に後ろから「こんにちは」と女性の声。四十代くらいの、細くて化粧っけがなくてジーンズをはいた、サバサバした感じの人。下町の姐御的な(何だそりゃ)苦労人の風情もちらりと見え隠れしていて。ワインにたとえるなら・・・うん、辛口の甲州だ。

醸造施設はここにはないんだけど、と言われてがっかりしたけど(じゃあどこでワインを造ってるのだろう?)、貯蔵庫も畑も自由見学だから見て行って、と早口に勧められて、ざっと見て回る。二階のリーデルグラスのギャラリーには小型のセラーがあって、中にぎっしり、シガーの箱が詰まっている。

やっぱりこのワイナリー、変だ。すごく資産家の匂いがする。
直営レストランで一万円のディナーコースを用意し、唯我独尊の美学で甲州を樽に詰め、「甲州らしくない」という批判を浴びながらも「ライバルはモンラッシェ」(!)と公言してしまう勝沼醸造のメンタリティ。どうしてこんな強気でいられるのだろう? もちろんワイン造りにかける情熱の故、とも言えるのだけど、どうしても、「お金があるから・・・?」という思いが消えない。

自社栽培の葡萄は下草を刈らずに育て、収量をぐっと落として凝縮させる(同じ面積の畑から、普通のワイナリーは三倍の量のワインを造るそうだ)。契約農家には「高くてもいいからちゃんとした葡萄を下さい」と言い、キロ10円の葡萄より400円の葡萄を選ぶ。「10キロ単位で買うんだから、100円と4000円の差よ? たっかいでしょ、でもうちは、ちゃんとした葡萄が欲しいから。昔は農家の人も、生食用にならないくず葡萄はワイナリーに安く売り払えばいいっていう感覚だったけど、もう、農協でそんな葡萄を買う時代じゃない」畳み掛けるように、言う。「よく清酒は水だって言われるけど、ワインは葡萄しかないんだから。いい葡萄でなきゃいいワインは絶対できない」。

だから、勝沼醸造の自社畑は、見ればすぐに解る。草が生えているからだ。普通、葡萄畑の地面はよく耕された剥き出しの土なのだけれど、ここの畑は違うのだ。クローバーが這い、小さな野草の花が咲き乱れ、あちこちでタンポポの綿毛が揺れている。他の植物が土中の水分を吸収することで、葡萄の果実は水っぽくならずにより凝縮する。畑を見て回りながら「ああ、こっちはギヨー・サンプル(葡萄の樹の幹から枝を一本だけ伸ばして仕立てる方法)だ」などと独り言を言っていると、垣根の間にうずくまって作業をしているおばさんがいてハッとしたりする。後で聞いたところによると、この時期は芽かきの作業中なのだとか。余分な芽が伸びて栄養分が分散してしまうのを防ぐために、出てきた芽をかき取る。ここでは葡萄の房が実ってからもどんどん間引くのだそうだ。

雨模様の空が気になって建物に戻ると、「あれぇ、早かったね」と言って迎えられる。まるで「せっかくの自慢の畑なのに、ちゃんと見てきたの?」と責められているような気になって、思わず「すいません」と謝ってしまう。それから、試飲用にセッティングされたサーバーの前で、素気ないくらいの様子でグラスを手渡される。言わずと知れたリーデル。「試飲もリーデルグラスなんですね!」と言うと、今さら何を、というくらいの勢いで「もちろんよ」。「全種類はちょっとキツいので、特にお勧めのものをお願いします」と言うと、またしても「せっかくの自慢のワインなのに、全部飲めないって言うの?」という無言の叱責。

「これがノーマルな甲州。うちでいちばん安いやつ」「次がフリーランで、甲州種の酸味と苦味が出ないように丁寧に造ったやつ。エレガントでしょ」「こっちは樽を使ったやつ。今トンネルカーヴで寝かせてるのが07年」「甘口はどう? アルガブランカ・ドース」そう言って勧められるととても断れない。唇に当たるリーデルグラスの軽くて繊細な感触が嬉しい。けれど、価格帯が上がれば上がるほど、素直に「美味しいです」と言うことができない。歩き疲れた私には、強いて言えばドースの濃厚な甘酸っぱさが心地良いけれど、でも価格とのバランスを考えると「買ってじっくり飲みたい」と思うワインではない。樽をかけた甲州も何かパワーのようなものはすごく感じるのだけど、樽の渋みが前面に出ていてかなり飲みにくい。何だろう、この違和感は。

その疑問は、「うちのワインは熟成を念頭に置いてます」という一言で氷解する。なるほど。試飲ブースのワインはまだ若く、飲み頃を迎えていないのだ。「外来種の葡萄もいろいろ作ってはいるけど、やっぱりここの土壌でいちばん良く育つのは土着の品種。だから、甲州という葡萄から、何とかして世界の銘醸ワインと肩を並べるワインが造りたい。それがうちの考え」。

ここで初めて知って衝撃だったのが、甲州種のワインはどれも「補糖が当たり前」だということ。つまり、甲州というのはもともとワインにするには糖分の足りない葡萄で、普通のワイナリーでは果汁に糖を添加して醗酵させるのだという。「日本では補糖とか補酸とかに制限ってないんですか?」と訊いてみると、「ない」というきっぱりした返事。「でもそうやって葡萄以外のものを足して造るのは嫌だから、うちでは葡萄を凍らせて圧搾してるの」。つまりアイスワインの要領だ。確かに、人工的に手を加える方法ではあるけれど、余分なものを加えるよりはずっと自然だ。

そうやって試飲を重ねながら、ずいぶん色々な話を聞いた。一対一だからとても話がしやすい。物慣れた様子とその貫禄から多分オーナー夫人に間違いはないのだけど、シーズンオフに一人でやって来た酔狂な観光客をちゃんと真剣に相手にしてくれることに感動した。

そして、試飲した中ではいちばん好印象だったフリーランの「アルガーノ・ボシケ」を一本買って、合計三本のワインを抱えて三時頃に勝沼醸造を出た。

それから後は何だかどうしようもない散々な行程で(降るはずの雨が降らなかったのが唯一の慰め)、ワインが重いので(私はワインの重さはあまり感じない体質なのだけど、さすがに限界はあるらしい)適当なところでタクシーを呼んで貰おうと思っていたのが「ワイン資料館」は休館日、メルシャンの勝沼ワイナリーも休業日(ガイドブックには無休とあったのに)、お隣のレストランもランチタイムは15時まで(お昼ごはん食べてないんだけど!)、一時間以上も勝沼の町をさまよって、どうやらまた道に迷ったらしい、と渋々ながら認めた瞬間。目の前に「原茂ワイン カフェ→」の看板が。原茂ワインは今回、ちょっとだけ気にかかりながらも位置的に立ち寄れそうになかったので外しておいたワイナリーだ。自分の迷いっぷり&歩きっぷりには呆れ果てたけど、ああとりあえず座ってコーヒーを飲もう、ついでに見学もさせてもらおう、とフラフラ吸い寄せられて行ったら、入り口は開いていて試飲ブースもあるのに、二階のカフェに上がる階段には無情にも「closed」の札が。

「すいませえん!」と出ない声を張り上げて叫ぶと、試飲ブースの奥からお爺さんが出てくる。「すみませんね、今日は月曜で定休日なんです」と言いながら快くタクシーを呼んでくれて、でもタクシーの中でガイドブックを見てみると原茂ワインも「無休」になっている。はあ。去年改訂されたばかりのガイドブックなのに、全然あてにならないや。

「720万円です」という運転手のくだらないジョークに調子を合わせる気力もなく、普通に720円払って、勝沼ぶどう郷駅でタクシーを降りた。ずいぶんおざなりな雰囲気の駅の土産物屋をひやかしていると、さっき降りたタクシーの運転手さんが入ってきて私を見つけて「いらっしゃいませ!」と言う。それも何かの冗談らしい。運転手仲間と思しきおじさんが、土産物屋のカウンターでコップに入った白ワインを飲んでいる。断っておくけど、午後の四時すぎだ。「これからまだひと仕事あるんだよー」とか言いながらワインを飲んでるタクシー運転手ってどうなのよ。

私は勝沼という町にすっかり辟易して、けれども勝沼という土地で真剣にワイン造りに取り組んでいるワイナリーにはとても感動して、その地を後にした。

甲府の安いビジネスホテルにたどり着いて、周辺にまともな食べものがないことを確認してげんなりする。他に選択肢がなかったので、チェーンのとんかつ屋さんのテイクアウトで夕食を済ませる。極めて不味い。このホテルの売りは「料金三流、設備は一流」というのと「朝食に焼きたてパン無料サービス」というのと、「有料チャンネルが無料で見放題」で、でも有料チャンネルって結局アダルト番組なのね。三十分くらいしげしげと見入ってから、逮捕された主人公が面会に来た恋人と抱き合って号泣するシーンで終わる外国映画をちょっとだけ見て、お風呂に入って寝た(枕が固い)。

翌日。
台風は夜の間に過ぎてしまっていて、幸い、ホテルを出る頃には雨も上がっていた。焼きたてパンというのは何のことはない、冷凍で仕入れたパンをホテルで焼き上げたというだけの代物で、特に美味しくも何ともなかった。幸い甲府駅の近くで「ヴァルド」というドイツパンの専門店を見つけ、美味しそうなサンドイッチとプレッツェルを(車中での昼食用に)購入。それからごちゃごちゃしたワインショップで原茂ワインが造っている甲州のカップワインを見つけて、それも買って、帰路についた。

塩尻で特急の乗り換え待ちをしていると、ベンチで隣に座ったお婆さんが「どこまで行くの」と訊ねてきた。京都だと答えると、京都の学校に行っているのかと訊かれる。どうやら帰省中の同郷人と思われたらしい。京都で仕事をしていて今は旅行で勝沼に行った帰りだ、と説明すると、唐突に、看護婦をしているのかと訊かれる(ここ一年以内で見知らぬ人から看護婦かと訊かれるのはこれで三度目だ)。酒屋で働いてます、と言うと、昔、京都の酒造メーカーを見学したことがあると話してくれた。「おっきいとこだったよ、何てったかな、忘れたけど、焼酎買って帰ったよ」。「お酒、お好きなんですか?」大袈裟に両手を振って、「私は飲まない。飲まないけどね、好きな人に、買って帰った」。好きな人、というのはもちろんお酒が好きな人、という意味だったのだけど、私は「お酒が好きな人に買って帰った」ではなく「好きな人にお酒を買って帰った」と意図的に誤訳してみる。

「それじゃね。また行き会おうねぇ」。
優しい小さな目をしたお婆さんと、ホームで別れる。
お気をつけて、と呟くように言った私の声に、返事はない。

中央線の車窓からは雪をかぶった立山連峰が綺麗に見える。台風一過の鮮やかな青空。茅野、上諏訪、中津川、といった地名に、途中下車してもう一泊したい衝動を懸命に堪える。勝沼の駅でタクシー運転手が飲んでいたワインは、たぶん私が車中で飲んだ紙製カップの原茂ワインの味と同じはずで、つまりそれが山梨の「地酒」なのだった。

庶民の酒としてワインが息づく町。そして、そういう町で今、世界を見据えて新たなワインづくりをしている人たちがいる。

ルバイヤート、ルミエール、そしてアルガ。
どこか特定の市場に向けてというよりは、良いワインを育てるというスタンスで自分たちのワインを大切に造り続けているように見えた丸藤葡萄酒。世界に通じるワインと地元のための一升瓶ワインとを隣り合わせに並べていたシャトー・ルミエール。そして、ひたすら世界を見据えて甲州種の可能性を試し続ける勝沼醸造。
どのワイナリーも魅力的だ。
そして、それぞれの姿勢は見事なまでにワインの個性に反映されている。そこで働く人たちの佇まいがまた、それを象徴しているかのようで。

十年前の私なら、間違いなく勝沼醸造のワイン造りに魅せられていただろう。そして今の私の目にはルミエールのスタンスが理想として映る。けれど、どこのワインがいちばん好きか、と問われれば、私は迷わずに「丸藤葡萄酒」と答えるだろう。

山梨がもう少し近ければ、ヴェレーゾン(葡萄の色づき)、ヴァンダンジュ(収穫)、仕込み、醗酵(石蔵の周囲にただよう「すごーくいい匂い」、それからバケツリレー)、それらすべての行程を体験してみたいと思う。切実に、そう思う。
困った。
どうやら私はワインを売りたいのではなく、ワインを造りたいのらしい。

追記。今回の旅にはもうひとつ、時系列的にはワイナリーより先になる目的があったのだけれど、それについてはまた後日、もうちょっとこの興奮が冷めてから書きたいと思う。
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