la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
見果てぬ夢の果てたあと
「てめえの面が歪んでるのに、鏡を責めて何になる」
(ニコライ・ゴーゴリ、『検察官』の題辞/新潮社『世界文学全集40』「人と作品」より孫引き)


この『世界文学全集40』は、これ一冊でロシアの代表的作家を網羅できる実に素晴らしい本で(プーシキン、ゴーゴリ、ゴーリキー、レールモントフ、ツルゲーネフ、チェーホフetc。ちなみにチェーホフが三篇入ってるのを二篇にして代わりにドストエフスキーの『白夜』か『貧しき人々』を入れてくれれば完璧だったかも)、おまけにこの手の全集はブックオフへ行くと一冊105円という冒涜的な値段でバラ売りされている。本当に中身の価値を思うと「冒涜的」としか言いようのない扱いで、微かな憤りを覚えはするものの自己本位に言えばそれが105円であっさり手に入るのがありがたいことは否めず。

ただしブックオフには度々罠が仕掛けられていて、リルケだと思って買うとリルケなのは外箱だけで中身はハンス・カロッサの『美しき惑いの年』だったりする。シューマンのヴァイオリン・ソナタのケースに意味不明のテクノポップのCDが入っていたこともある。さすがにCDは次の日にカウンターで訴えて無事シューマン(もちろん意味不明のテクノポップのケースに入れられていた)と交換して貰ったけど、たかが105円で文句を言うのも大人げないのでカロッサは未だにうちの本棚に(リルケの『マルテの手記』の紙箱に入ったまま)並んでいる。『マルテの手記』はその後やっぱりブックオフで買い直して、まあ『美しき惑いの年』もそのうち読むだろうと思っていたのだけど、今のところ、大いに惑っているらしいハンス少年(青年?)の思春期に興味が湧いたことはなく。

それはさておき、この『世界文学全集40』はもう一年以上前に買ったものなのだけど、最後に入っているマクシム・ゴーリキーの『どん底』だけを私は読まずにいた。冗談でも何でもなく、いつか自分が「どん底」的気分になった時に読もうと思って取っておいたのだ(私は肺病やみでも癲癇持ちでも夢遊病の女でもなく、毎日ご飯が食べられるので、別に今が人生の「どん底」だとは思っていない。ただ就労意欲だけが「どん底」で、何となく、読むなら今だなと)。

ロシアの古典文学というのは登場人物の名前を見ただけで陰鬱な気分になるから不思議だ。メドヴェージェフとか、ブブノフとか、片目のゾープとか、「ほかに、名も台詞もない浮浪人数名」とか。そして第一幕(『どん底』は小説ではなく戯曲)、ト書きが「穴ぐらのような地下室」から始まって「重苦しい石の天井」「しっくいがはげおちている」「きたない更紗のカーテン」と続き、「カーテンにかくれた寝台の上で、アンナが咳をしている」と来る。のっけからあまりにも「どん底」で思わず笑ってしまうくらいだ。

強欲なクセに小心な下宿屋の主人にはひどい吝嗇家の若妻がいて、この妻が下宿人の若い盗人を情夫にしているのだけど盗人の方では妻の妹に目移りしていて、それがまた殴るの絞め殺すのという騒ぎになって、おまけにそのけちな下宿屋では間借り人は皆アル中か肺病やみかヒステリーかヒポコンデリー(気鬱症)だ。呆れるといえば呆れるのだけど、つらいのは誰もが夢見がちな純粋な心とか過去の栄光とか愛情とか賢さとか自分の才能への捨てきれない自負とかを抱え込んでることで。

そんな下宿屋にひょっこり舞い込んで来た、巡礼の老人ルカ。優しい嘘を重ねて賢者のように希望を説くこの老人は、後になって「古麹め、みんなを醗酵させちめえやがった……」と下宿人サーチンに毒づかれることになる。まるで「春と聞かねば知らでありしを/聞けば急かるる胸の思いを/如何にせよとのこの頃か」だ。

けれど結局、物語は『どん底』でしかない。誰も(当のルカを除いては)そこから出ては行けないし、そこから逃れる唯一の方法はすなわち死なのだ。

嫌な戯曲ではないと思う。むしろ私は、こういうロシアの陰鬱な寒さを感じさせる空気が好きだ(あまりにも理屈っぽい鬱屈、極端に理想主義的な激情)。とは言え、ドストエフスキーに『白夜』を捧げられたら有頂天になるだろうけど、ゴーゴリの『外套』だのこの『どん底』だのを捧げられたらちょっと辞退したいと思う。ゴーリキーにこの戯曲を献呈されたコンスタンチン・ペトローヴィチ・ピャトニーツキー氏は(寡聞にしてどこのどなたか存じませんが)いったいどんな気持ちがしたのだろう。

「『どん底』をあなたに」。
今の私ならこう応えるだろう。
「結構です、間に合ってますから」。
スポンサーサイト
Comment
≪この記事へのコメント≫
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.