la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
決して余剰品ではなく
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?」
(『海の仙人』絲山秋子)


若干、今さらな感じのする選択。
…まあ、読んだのはずいぶん前(文庫化直後)なのだけど。

宝くじに当たって仕事を辞め、海辺の町の古い一軒屋を買い取ってリビングに砂を敷き詰めて暮らす男。「海の仙人」というのはその彼の家へ転がり込む(役立たずの)神様のことかと思っていたのが、作中で「仙人」と呼ばれるのは神様ではなくて主人公の方だ。
役立たずの神様は「ファンタジー」と呼ばれ、白いローブを着ていて、カレーが好物で、海で泳いで、人に車を運転させて自分はビールを飲んでいる。そして、この居候“神様”こと「ファンタジー」は、所詮「ファンタジー」なので現実に奇跡は起こせないし、また、起こす気も全然ない。

現実からやや浮遊した趣のある、“人生の休暇”的な物語。けれど、中盤からは徐々に、主人公の恋愛を軸に不治の病とか幼少期のトラウマとか、何やら生々しい話になってゆく。それにつれて、牧歌的な居候だった「ファンタジー」の存在も、手の届かない救済、という、切実な痛みを帯びたものへと変化する。

「ファンタジー」と名づけられたその神様の“役に立たなさ”を痛みと認識した時点で、私はこの物語から降りてしまったのだと思う。そして、もし私がこの小説を誤読したとしたらその瞬間だったのだ、とも思う。

この小説に「ファンタジー」がいなかったら、そう、まるで三重苦版『世界の中心で、愛を叫ぶ』じゃないか。片胸を切除したら女じゃなくなるような気がして恐い、と主人公の恋人が口にするところで、私は一気に白けた。アイデンティティとセクシャリティについての私の指向とはまったく、相容れない台詞(ましてその女性は大手企業の部長職にあって、「命を削って仕事をしていた」女性なのだ)。

一方、その深刻なところに当事者としてはほとんど関わらない人物、主人公の元同僚=片桐は言う。「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?」と。「外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ」と。

かつて、「作者の言いたいことは何か」という学校の試験問題に「これを間違う生徒が一人でもいたらそれは読み手じゃなく書き手の落ち度だろう」と私は思っていた。でも、どんなに質の良いワインでも、飲む側の体調が悪かったり扱い方を誤ったりすれば決して美味しいとは感じないように、小説にもまた読み手の度量が必要なのだと思う。

もちろん小説というのは「正しく読まねばならない」というものでもないのだけど、冒頭に引用した言葉が、小説のプロットとは完全に切り離されたところで私を捕らえる。文章や表現、設定や構成の巧みさより、そして「ファンタジー」の存在よりも、この「片桐」という女性の造形ゆえに、私は『海の仙人』を正しく読みたい、思うのだ。
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