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la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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あえて、生きることの意味を問うならば
「…ぼくたちは世界に対して、地下室人としてでもスタヴローギンとしてでもなく、親が子に接するように接するべきだというものである。」
(東浩紀/『ゲンロン0 観光客の哲学』)


言い換えれば、と著者は続ける。「コミュニタリアンとしてでもリバタリアンとしてでもなく、家族的類似性に基づき、いわば新生児に接するように他者と接するべきだ」と。
言い換えられたほうがむしろ難しい、と思うのは、ドストエフスキー好きならではの所感だろうか。

久々に「どくしょきろく」の破片を書き付けてみる。
生きることの意味を問わない、という、香山リカの教えに従ってしばらく生きてみたものの、やっぱり何か、意味のある人生を生きたい、と思ってしまうのは仕方のないことだろう。別段、何かの分野で名を成したいとかじゃないし、お金持ちになりたいわけでもないし、自分の仕事と生活を守ることに無理なく注力できるという今の環境は、それなりに楽しい(や、生活と仕事、か。生活より仕事が先に来るようじゃちょっと違うな)。というのはひとまず措いて。

いわゆる「哲学」の語るああだこうだ、それ特有のくだくだしい言い回しやら勿体ぶった前置きやらから遠ざかって久しいので、この『観光客の哲学』は、乱読者を自負する私にも少しハードルの高い本だろうな、と思っていた。
実際には、難しいと言えば難しいけれど、私の足りない脳味噌が条件反射的に拒否する一部分をあきらめて読み飛ばしてしまえば、それ以外はずいぶんと読みやすい文章で親切に書かれている。
哲学とかを理解しようとしてた過去の自分がどんだけ「わからんまま読んでた」かが明らかになって赤面もの、またその誤読が「普通ならそう思うかもしれない、だが」みたいな感じで懇切丁寧に正されるのがいっそう恥ずかしい。

東浩紀の文章は学生時代にちょこちょこ読んで、はっきりと面白かった、という記憶があったのだけど、この調子じゃ当時の自分、間違いなく何も理解してなかった。

なら今の自分はどうかというと。

はい。
あんましよくわかりません。

最後まで読んで、これは「ひとにやさしく」という思想なんだな、というのが私の感想。
引用と説明だらけの第一部より、補遺的な第二部のほうで、なんかそういうことなのかな、と思いました。
そんで、全面的に賛成です。
合ってれば、だけど。

でも、面白い、と思ったんだ。
(「面白い」という表現が上から目線に捕えられるとしたらそれはちょっと違って、私の場合はこの言葉、共感と称賛の入り混じった感じで使ってます。というかこんな説明いちいちする辺り、東浩紀の丁寧な説明グセが感染してしまってる?)
「ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった」という一文など、思わず吹き出してしまうくらい面白かった(「ここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない」/原文より)。
しかも、私が「面白い」と思ったのは『観光客の哲学』そのものについての整理された第一部じゃなくって、あれこれ抜けてるし突き詰めきれてない、と著者の言い訳がついてたほうの第二部だし。

でも、推敲されて懇切丁寧に説かれる言葉より、勢いに任せて書かれた文章のほうが魅力的だったりもするんだ。

学生時代の私が「哲学」のあれこれにかかずらって、生半可な態度でそれと付き合ったあげく「ばかばかしい」となってしまったのは、哲学って結局、「私」のことしか考えないのだ、他者とか社会とか世界とか言っても、最終的に興味の中心はこの「私」(社会やら世界やらを分析するにしても、常に分析する「私」の視点が固定されている)、ような、うーん、今ひとつ何を言ってるのか自分でもわからないけれど、「今ここにいるこの俺!」的な気配にうんざりしたからなんだろう。

哲学やる人って、なんか皆、屈折したホイットマンだ。
屈折したホイットマンって、そう言葉にしちゃうと何だかテロリストの気配にも似て。

ちょっと駆け足で書き飛ばしてしまっているけれど、あともうひとつ。
この『観光客の哲学』第二部で考察されているドストエフスキーは、私の偏愛する作家でもある。
まあ、父殺しの文学、というのはフロイト以降ずっと言われていて多分そうなんだろうし、主人公が作品を追うにつれ弁証法的に「超克」されてゆく、という解釈も、ものすごく「その通り!」だと思う。でも私の素人解釈(これはへりくだって言うのではなく「より単純明快な」という意味)では、単にドストエフスキーという人が限りなく自己承認欲求の強い人だったんだろう、ということになる(かく言う私もたぶん自己承認欲求の強い人間なのだけど、ただそれは不特定多数からのではなく、特定少数からのだ)。

普段ドストエフスキー論では無視されがちな『白夜』という掌編の、私のお気に入りの一節がある。
「ひょっとすると、あなたはぼくをぼく自身と和解させて、ぼくの疑問を解決してくださったのかも知れません…」(ドストエフスキー/『白夜』)。

自分を自分自身と和解させること。
つまり、自分で自分を承認すること。
それができないと、人は他者からの承認を求めずにいられなくなる。
そして、自分で自分を承認することができて初めて、人は「大人(親)」になれるのだろう(繰り返すとこれは生物学的な親という意味ではない)。

勢いのままあれこれ書いたけれど、今日は何となく、読み返しも推敲もしないでこのまま投稿してしまおう。

だって、本心だから。
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