la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
幸福のテンション/流れる生命の音
「五本指の人間だけが、心のしるしを見分けられるんだな。家の精には分からないことだけどね」
(アレクサンドル・グリーン『おしゃべりな家の精』/池澤夏樹編『世界文学全集 短編コレクションⅡ』所収)


幸福とは、夜眠りに落ちるその瞬間…本の最後の1ページ、その最後の一文、何千何万のピリオドの果ての最後のひとつのピリオドのこと。
そして、朝目覚めるその瞬間…本の最初の1ページ、その最初の一文、何千何万の単語の流れを後に従えた最初のひとつの単語のこと。

そう考えれば(というか私にとっては実際そうなのだけれど)、「短編小説」というのは実はとても幸福度の高い読み物なのかもしれない。
少し前から渉猟を続けていた池澤夏樹編の世界文学全集の、「短編コレクションⅡ」を読みつつ、そんなことを思った。
とても幸福度の高い、ではなく、実はとても幸福度の高い、と書いたのは、短編小説を読むのがどちらかと言えば私は苦手だからだ。
まず、あっという間に読み終えてしまうのが悲しい。
そして、私は目の前に活字が書いてあれば書いてあるだけ貪り読んでしまうので、ひとつ読み終えたらすぐ次の短編、という風にどんどん読んでいく。結果、それぞれの短編で切り出された風景なり場面なり感情なりが、切り刻んだ何枚もの写真みたいに記憶の中でごちゃごちゃになってしまう。

「傑作」とされる短編は特に、狙いすました鮮やかな手品のようで、あらかじめ組み込まれた精妙な仕掛けが読み手の目の前で寸分の狂いもなく発動する、といった印象だ。フレデリック・ブラウンやコニー・ウィリス、シオドア・スタージョン(短編の名手として思い浮かぶのがSF作家ばかりなのは私の短編体験の偏りを顕著に物語っている)を思い出せば決して苦手でも嫌いでもないのだれど、とにかく、読み手が誰であっても寸分の狂いもなく作動する、「巧妙な幻惑装置」だと私は思う。
それはつまり、読むと疲れる、ということだ。
誘惑され、乗せられ、魅了され、騙され、裏切られ、衝撃のあまり呆然としていると不意にそれが単なるサプライズのジョークだったと判明したりする。

長い小説だって読むと疲れるだろうに、と言われそうだけれど、長編は、読んでいてつまらなくなれば中断できる。それっきり放り出すこともできる。面白い長編なら、もっと先が知りたいと思うと疲れていることなんか忘れてわくわくすることができる。
ところが、短編はすぐに終わってしまうし、終わってしまえばそれきり、「続き」はないのだ。

この『短編コレクションⅡ』に収められた短編は、そういう技巧が際立つものもあるけれど、それよりむしろ長編の一部分を切り取った風情のものが多いようにも思う。けれどそれはそれで、「作者が伝えたかったこと」よりも「この私が彼らについて知りたいと思うこと」のほうが勝ってしまって、いったいその後どうなったのかが皆目わからない、でも私としてはそれが知りたい、という不完全燃焼感が残るのだ(この辺り、私はたぶん「古い」読み手なのだろう)。
登場人物が二人いて、その二人がある時ある場所で出会い、ただ会話をする。短編小説は時に二人のその後をほんの数文で片づけてしまったり(飽くまでもたとえば、だけど、「その後、彼は路上で物盗りに襲われた時に受けた傷が悪化し帰らぬ人となった」とか、「亡霊のような姿で公演を歩き回る姿を何度か目撃されたが、その後の彼女の運命を知る者は誰もいない」とか)、ひどい場合には「その後」のことになんかいっさい言及しなかったりもする。二人の男女が出会ってほんの一時間交わした会話だけが描かれ、その会話を通して現代社会の病理やら男女の価値観の違いやら人間の弱さやら残酷さやら救いがたいディスコミュニケーションやらが浮き彫りにされても、そういう会話が交わされた後でその当事者たちがどこへ行き何をし誰と出会いどんな日々を生きたかは、まず語られない。

もちろん、それが語られるべきだと言っているのではない。
私はそっちのほうが知りたい、と言っているだけなのだ。
そして当然、そんなことは作家の仕事ではない。

解ってはいるのだ。

いっそ、短編小説もそれぞれ一篇ごとに、表紙をつけて装丁して、一冊の本にしてしまうべきじゃないだろうか。
同じ作者の短編を幾つもまとめて一冊にしてしまったりせずに。
「短編コレクション」なんて題して何人もの作家の何篇もの作品を一括りにしてしまったりせずに。
そうすれば、私のようなせっかちな読み手も、それぞれの一篇一篇をもっと丁寧に読み、読んだことについてじっくりと考えを巡らせ、余韻に浸ることもできるのじゃないだろうか。

五本指の人間だけが、心のしるしを見分けられる。
そしてそれは、家の精には分からないことかもしれない。
けれど、五本指の人間には見分けられないこともたくさんあって、きっと、家の精にはそれが分かっているのだ。
たとえ歯痛に悩まされていてもね。
追記。
ずっと昔に追憶していたお店を、先日、ドライブを兼ねて某美術館へ出かけた際に見つけました(って伏せる意味ないか。滋賀県の県立近代美術館へ、常設展示の入れ替えでコーネルが見られると知って出かけたのです。かなり素敵な余禄として、志村ふくみさんの作品とか、企画展のビアズリーとか)。

そのお店の名前は「アドリア」。
瀬田の唐橋の近くにあります。
駐車場が空いていたら間違いなく入っていたのだけれど、まったく余裕なしの満車で断念。
メニューは昔の面影もなかったけれど、外観は変わっていなくて、何だか涙が出そうになった。
いつかモーニング食べに行きたい。
ノスタルジーというのは後ろ向きな感情かもしれないけれど、幸福な過去があってこその宝物なのだから、大切にしたい。
けれど、こんな風に不意打ちされるのは、ちょっと困る。
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