la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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2015年、遅まきながら新年のご挨拶
「神が昼と夜とをつくり、ぼくらはそこをよたよた歩く。」
(『残念な日々』/ディミトリ・フェルフルスト)


これまでになくよたよたした足取りで、2015年の幕開けです。
昨夜ようやく決めた「今年の座右の銘」、新年早々(といっても世間じゃもう「新年」というフレッシュさはすっかり失せてただの「今年」になっているのだけど)、何とも弱気です。

でも多分、今年はそういう年になる。
神がつくった昼と夜とを、「よたよた歩く」一年に。

大人になるということとは別の意味合いで、歳をとるということは、未来の不確定要素が減っていくことでもある。病気や災害や政治経済のあれやこれや、自分が不意に巻き込まれるかもしれない不確定要素が減るわけではないけれど、生き方の選択肢、という点では間違いなく減る。減ることそのものが良いとか悪いとかいうわけじゃないし、私の見解では人生というのは自分勝手にどうこうして(放り出して)良いものでもない。それでも何とはなしに、生々しく追いつめられているような感覚が、うなじの辺りに貼りついている。

だから今年の座右の銘は、こうしよう、こう生きよう、というのではなくなっている。

かなり神経質な、ささくれだった気持ちが私を支配していて、ともすると、今はもうどこにもいない彼ら/彼女らの記憶に足を取られて動けなくなってしまう。

死なれる、というのは、そういうものだ。
それが人であれ、猫であれ。
もしかすると、見知らぬ他人であってさえ。
何度か経験したからといって慣れるものではないし、時間が経ったからといって痛みが薄れるものでもない(時が癒すというのは、たぶん、ほぼ嘘だ。意識的に押しやる健全な力がなければ、死の記憶はいたずらに増幅するばかりなのだ。互いに無関係なはずの個々の死が、何かの細胞みたいに寄り集まってはくっついて、時が経てば経つほど分裂・増殖してゆく)。

意識的に押しやる健全な力。
自分で書いていて、今年の自分に必要なのはその力なんじゃないかと思い始めた。

近ごろ意識をよぎるのはアリソン・クラウスの歌っていた『ボーダーライン』の一節。
”On the borderline, somewhere between the flight for freedom, feelin’ like you can’t move on…”
そして、折に触れて引用してきたサンタラの歌。
「逃げ出すことができないのなら/この心も/体も/背負ってゆくだけ」(『狼』の一節)

奇しくも今年は羊年。
今のところの私は、狼の皮をうまく被りきれずに、中途半端によろけている羊のようだ。
新年の決意らしい言葉としては、今年はペーソスとアイロニーとユーモアの年に「しよう」。
追記。

本は順調に読んでます。
しばらく更新が滞ってしまったけど、読書記録はまた書くつもり。

って、予告してしまうと書けなくなる気もするのだけど。
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