la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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バッドトリップの効用
「わたしはかなり間違えている。わたしは間違える権利を要求する。」
(『アウトサイド』/マルグリット・デュラス)


間違える権利は、本来、誰にだってある。
生まれてから死ぬまで一度も間違えることのない人なんて、絶対にいないのだし(間違えたことに気づかない人とか、気がついても認めない人とかは、たくさんいるけど)。

だからもうそんなに、怖がらなくていい。
大作家デュラスに向かって言うのではなく、他の誰に向かって言うのでもなく、私は自分に向かってそう言い聞かせる。
大切なのは、「かなり間違えて」しまった時に「かなり間違えている」と気づいて、それを認めることなんだ。
私はまだ、そのタイミングが、ほんの少し遅い。
頑固だし、思い込みは激しいし、いったん決めたら他のことは目に入らなくなるし(ほんの少しどころかめっちゃ遅いやん、という突っ込みは、入れるにしても最短で半年後にお願いします)。

でも、ほんとに怖いのは間違えることじゃなく、間違えることを許されないことなんだ。「間違えたくない、常に正解を選びたい」と願うのは、それ自体は別に悪いことでも何でもないし、むしろデュラスの引用を単なる「開き直り」と誤解されてしまうとそっちのほうが性質が悪い(「要求する」って、この言葉をここだけ引用してしまうとちょっと印象がきつすぎて誤解されやすいとも思う)。

それにもちろん、間違えないに越したことはない。

でもたぶん、自分が間違えなかった瞬間よりも、間違えたことを誰かに許された瞬間のほうが、ずっと深く心に残るものだ。表面的な心地よさとは別の次元で、もっと言えばはっきり痛みを伴う次元で(それでも否定的に言うのではなく)、「ずっと深く心に残る」んだ。

自分の間違いに対して開き直るのじゃなく、単なる許容/肯定を相手に求めるのでもなく、そう、たとえば心から「ごめんね」と言ったとき「うん、いいよ」と答えてもらえる、そんな感覚。

ここまで書いて、ああ、高山なおみのエッセイが読みたいな。と急に思ったので、読んでから寝ます。読んだら例によって泣くのかもしれないけど、たぶん、それも今の自分に必要なことなのだろう。

追記。悪夢続きの夜明け、恐怖の余波とじんわりした疲労感の中で、もう少し眠るべきか否か決めかねて寝返りをうつ(慌てて起きなきゃならない理由はないのだけど、眠ってしまえばさっきまでの悪夢の続編だかダイジェスト版だかが始まるかもしれない)。大嫌いなジグムント・フロイトに助けを求め、あの設定はこういう不安が具体化したものだ、あれはこれの象徴だ、と分析して、ああ自分でやるぶんにはフロイト式の夢判断もなかなか面白いものだなと思ったり(他人にしたり顔でやられると我慢ならないけれど)。

大丈夫、全部ちゃんと説明がつく。
あの死んだ犬たちの、白い絵の具を水に溶いたような、ロンドンの霧みたいな、薄めたミルク色をした狂おしい気配も。
対岸から手を振っていた、何も知らない(いや、もしかするとすべて知っていたのかもしれない)踊り子たちの弾けるような笑顔も。
それにひとつだけ、何の具体化でも何の象徴でもなかったのは、夢の中で必死になって逃げようとするとき、一緒に逃げてる人がいたということ。

悪夢には悪夢の効用がある。
生まれて初めて、そう気づいた。
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