la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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試行錯誤、すべてはそれに尽きる
ええと、タイトルとはやや無関係に、どくしょきろくです。
タイトルと関係ありに、「自分がされて嫌なことは他人にするな」というのは、小学校で誰もが教わることだけど、「自分がされて嫌じゃないことでも他人は嫌がるってこともある」というのを、ぜひとも小学校で教えて欲しいと思います。
自分への教訓という意味も含めて、何事も「自分基準」じゃダメなんだな、と最近、思ったりしたので。
それでは、本題のどくしょきろくへ(長いです)。


『エンド・ゲーム』(恩田陸 65点)
だいぶん前に本好きの知人に勧められた、恩田陸の「常野物語」三部作。一作目が私の好きな絵と同じタイトルだったのもあって読み始めていたのを、最近、読了した。
特殊な能力を持ちながらもそれをひた隠しにして生きる「常野」一族の年代記。一作目『光の帝国』は75点。二作目の『蒲公英草紙』は80点。文章そのものは、普通というかかなり平板なのだけど、貴重なメッセージを発信している作家だな、というのを強く感じた。
けれど、最後の『エンド・ゲーム』では、今さらこの物語を個人の領域=家族の問題に引き戻してしまうのか、と、落胆させられた。勝手な期待だけれど、「常野」一族の末裔にはもう少し最後まで、社会や歴史と積極的に関わって欲しかったな。

『ギフト』『ヴォイス』『パワー』(すべてアーシュラ・K・ル・グイン、90点)
「西のはての年代記」と題された三部作。どれも借り物だったけど、貪るように読んだ。強靭かつ繊細で、冷徹だったり残酷だったりする現実を突きつけながらも、「闘争」の価値を肯定する力強さに満ちている。
天は自ら助くる者を助く。そう言ってしまうとあまりに呆気ないけれど、でも本当に、そういうことを描いた作品だったと思う(細かいことはとても書ききれないので、いっそぜんぶ省いてしまう)。現実をしっかりと見据え、それと闘ってきた人だけが書ける物語。世界観とか社会構造とか、そういう設定も、確かに抜群に巧緻だ。けれど、それだけではこのダイナミズムは生まれない。ただひたすら、感服。
(そのくせ95点や100点でない理由は単に私がヘタレだからで、感嘆すると同時に受ける痛みがつらかったので。私のつける点数は作品そのものの価値を云々するものじゃなく、飽くまでも「読むことの歓び」に比例する、無責任な感応なので)。
ともあれ先述の「常野物語」は、もしかするとこれが元ネタなのかな?と思った。後述するいしいしんじの『みずうみ』にも似たトーンがあって、本との出会いのタイミングが絶妙に自分の精神状態とリンクしていてちょっと怖かったり。

『みずうみ』(いしいしんじ、途中で挫折)
主人公が外へ出かけていくのではなく、閉鎖的な社会の日常が外からの訪れによって揺らぐのを描いた不思議な、奇妙な、もっと言えば不気味なファンタジー。なのかな。ちょっと生理的に合わなくて、途中で挫折。ル・グィンのテイストもあるのだけど、私には湿度が高すぎた。いしいしんじは、大好きな作品(『プラネタリウムのふたご』とか『トリツカレ男』とか)と苦手な作品の差が激しい作家。まだ、読み続けるとは思うけれど。

『美味しい革命~アリス・ウォータースと“シェ・パニース”の人々』(75点)
「食」の世界には、一貫して強く惹かれる。その周辺の本を読み漁っていた時に出会った一冊。ちなみに私が母の誕生日にプレゼントした本で、逆輸入(?)で読んだ。
私が想像していたのは、男性本位なプロの料理人の世界に単身で切り込んだ稀有な女性シェフの立身出世物語、だった。
でも実際はぜんぜん違っていて、アリス・ウォータースには、弱冠27歳で立ち上げた自分のレストラン以外では、ほとんどシェフ業の経験はない。彼女の起こした「革命」というのは、今でいうスローフードの先駆け(つまり資本主義社会の合理的な大量生産/大量消費を糾弾し、「地産池消」に立ち返ることを訴える)、「食」の正しいありかたを提唱するものだった。
ちょっと翻訳が平板で読みづらかった(そのくせアリス・ウォータースの口述部分では「~なんですもん」という妙な語尾が何度も使われていて辟易した)し、もともとの構成も、時系列に沿って周囲の人々の証言をずらずら並べただけで、あんまり、よくできた本だとは思わなかった。でも終盤、アリス・ウォータースの「食」に対する哲学が社会的な活動として動き始めた辺りからは、とても興味深く読めた。
グローバリゼーションを押し立てた末の食文化の崩壊、工業的に大量生産される不健全な作物(たとえば砂糖の代用品として加工食品などに大量使用されている安価なコーンシロップは、甘味に対する麻痺と依存を引き起こして肥満を加速しているそうだ)などに警鐘を鳴らし、“シェ・パニース”で貫いてきた「本当に良い食材だけを使う」という原則を、学校の校庭に菜園を作るプロジェクトや「ホワイトハウスに菜園を!」という試みに発展させてゆく(この本が書かれた時点では、ホワイトハウスの件はクリントン夫妻にうやむやに扱われていたのだけど、その後オバマ夫妻が実現したと聞いている)あたり。
アリス・ウォータースという人は、この本で何度も言及されている通り、自らがシェフとして厨房に立つことをあまり好まなかったらしい(人材不足でやむを得ずそうすることはあったし、彼女が娘ファニーのために作っていたランチボックスは涎が出そうなくらい美味しそうだったけど)。“シェ・パニース”で歴代のシェフを務めた人々の功績を横取りし一人占めした、という非難を浴びるくらい、実際には厨房からは離れていたのだ。
つまり彼女の天職は、「料理人」というよりは「食の伝道師」であったのだろう。
アリス・ウォータースの名がひとつのイコンとなってしまった昨今、良い面も悪い面も暴かれて書き立てられるのは仕方がない。でもたぶん、彼女はその現実をちゃんと受け止めているのだろう。何より根本のところでは、彼女の姿勢は正しく、ひたむきで、無我夢中であるのだから。
ともあれ、この本を読んで、ハーブだけじゃなく野菜も自分で作ってみたい、という欲が出てきた。ああ、困った。

『悪魔のピクニック~世界中の「禁断の果実」を食べ歩く~』(タラス・グレスゴー、95点)
ノンフィクションに対する得点としては、たぶん過去最高点。
何やら剣呑なタイトルだけれど、要するに世界各国を旅して、その国で法的に禁止されている食べ物あるいは飲み物を片端から試してみようという、一見「下世話」なルポルタージュ(暇つぶしには最適、くらいの感覚で、図書館で借りてきた本)。
構成は、見事なことにフレンチのフルコース仕立て。北欧の密造酒「イェメベレント」をアペリティフとして、メインコースあり、チーズあり、デザートあり、食後酒から果てはナイトキャップまで用意されていて、各章の頭に付された引用がまた心憎い(聖書、プルターク、ヴォルテール、フローベール、ブレヒト)。
取り上げられているのは、密造酒をはじめポピーシードつきクラッカー、フランスの悪名高きウォッシュチーズ「エポワス」、パリのボヘミアンたちを破滅させた魔性の酒アブサン、キューバ産の葉巻、などなど。
著者はキワモノ好きの体当たりでそれらを試す、だけではない。これらすべての「ドラッグ」に対して、それが生産され普及し禁止された経緯を、政治的背景を踏まえて綿密に取材し分析する。「私はかねてから、基準からはずれる道すべてを取り除いた社会はどうなるだろうと考えていた。境界を越えたいという衝動だけではなく、越えるかもしれない可能性さえあらかじめすべて抑圧される社会とは。」著者は、シンガポールの過剰に潔癖な管理社会にそのデストピア(と言ってしまって良いだろう)を見出す。そしてまた、政治的理由で輸入が禁じられたキューバ産の葉巻を、アメリカはサンフランシスコでぷかぷか吸う(ちなみにこの章の書き出しは「フロイト君、ごめんよ」で始まっていて私は爆笑した。)
そして、圧巻なのは終章(=ナイトキャップ)のペントバルビタール・ナトリウムだ。手に入る限りのアブサンを試飲してきた著者も、さすがにこれだけは味見せずに終わる。何故ならこれは、スイスにおける「合法的な自殺=安楽死」に用いられる薬品だからだ。
この終章がなくても、この本は充分に興味深かっただろう。たとえば禁煙ブームに沸くカリフォルニアで、全面喫煙可のバーでこんな注意書きに出くわす。「当店のお客様は繊細ですので、においの強いファーストフードのハンバーガーとフライドポテトを持ち込まないでください」。つまりこのバーのオーナーは、煙草よりハンバーガーやフライドポテトのほうが百倍も有害だと示唆しているのだ。また、コカの葉を栽培して暮らしている南米の住民たちのこと。コカの葉から純然たるドラッグ=コカインを抽出する技術をもたらしておきながら、自国で依存症患者が増えると、アメリカはコカの生産地に枯葉剤(アメリカ国内では使用を禁止されている危険な薬剤)を撒くことでそれを撲滅しようとした。ベトナム戦争の知られざる再来だ。
けれど、この最終章はこの本にとって無上の存在にもなっている。彼はこう書いて筆を置くのだ、「もし自分が何か不治の病に冒されていることを知ったら、私の最後の買い物はスイス航空の片道チケットになるんじゃないかと思う。そして地上における私の最後の居所はゲルトルード通り八四番地になるだろう」と(その住所は安楽死の聖地となっている)。

ちなみに最近借りたDVDで、「おまけ」に収録されていたTVドラマの第一話を見たのだけど、主人公の女性警察官は極めて優秀で、幾らか高飛車だ。彼女は煙草は吸わないし、お酒も少々たしなむ程度。でも、仕事を終えて家に帰ると、彼女は引き出しからチョコレートケーキ(?)を取り出して、ソファに寝そべってそれにかぶりつく。その時の彼女の表情は、ほとんどドラッグで酩酊してるのと変わらない陶酔に満ちているのだ。
なるほど、新世代のヒロインはハードワークのストレスや疲労からの解放を求めて、究極の合法ドラッグである「スウィーツ」に酔うのか!
煙草や酒では、そんな「可愛げ」は体得できない。何だか卑怯なやりかただな、と思いつつも、この設定をした人は見事だ、とも思った(ちなみに『悪魔のピクニック』では、かつてフランスでショコラ・ムースが法的に禁止されていたというエピソードも語られていたけど…)。


『城』(フランツ・カフカ、80点)
安部公房を二週間くらい天日干ししてカラッとさせた感じ?
ヒエロニムス・ボッシュ風味?
この物語について私は何故か、「迷路のような城の中からいつまで経っても外に出られない悪夢」だと思い込んでいた。実際は「いつまで経っても城にたどりつけない悪夢」で、城での仕事のために招聘されたはずの測量技師Kが、長旅の末にたどりついた村でとんでもなく理不尽な扱いを受ける(そして受け続ける)、という物語だった。
けれど、どこかしら、ユーモラスな乾いたトーンがある。
Kにしてみればユーモラスなどと言われたのではたまったものじゃないだろうけど、私にとってはそんな湿度の低さが(ほとんど唯一の)救いだった。
何だって未完なんだ、と身悶えしてしまう。「未完」」だと知っていながら、読み進むうちに結末(何らかの解決)を期待してしまっていた。まあ、カフカの与える結末が安寧なものじゃないだろうというのは、解っているのだけど。
官僚主義への批判とか、職業に規定される個とか、難しい論評は専門家に任せるとして。仕掛けや枠組みを全部ばらした後に残る主題は「ディスコミュニケーション」に尽きるのじゃないかと思った。
Kは、実に長い時間を会話に費やす。急ぎの用事があるのに…とか、すぐ戻るって彼女に約束したじゃん…とか、読んでいるこちらがはらはらするくらい、いたるところで長尻を据えて話し込む。けれど、その長い対話でさえも、決して相互理解には結びつかないのだ。
敵意や憎しみはない、と繰り返しながら、人々は誰かのことを悪く言う。でも、人が誰かを悪く言うとき、そこに敵意や憎しみがないわけがない。それなのにそんな言い訳をするのは、悪口の根拠を自己に帰されたくないからだ。周囲の人々や正義やら常識やらを総動員し、自己の潔癖と悪口の正当性を念押しするのだ。
私はKの悪夢じみた日々に付き合いながら、戦争がなくならないわけだ、と、以前『ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突』を読んで感じたのと同じ徒労感を覚える。
私がこの物語に結末をつけるなら、Kは宿屋でも学校でもない場所に自分だけの巣を作り、「城」と「村」のどちらにも属さないまま、そして双方に少しだけ関わりながら、何か奇妙な生業を創り出してまんまと村に居座るだろう。たぶんそのとき彼の傍らにいるのは、フリーダでもオルガでもなく、一匹の痩せた野良犬だ。
でも、それはカフカの構想する結末とは、決定的に違っているだろうとも思う。私が未だに世の中のすべての人が何とか居場所を見出してうまく生きていって欲しいと願うだけの楽観を失わずにいるのに比べて、カフカの方ではもっと現実的に物事を見ているだろうから。

『野中広務 差別と権力』(魚住昭、65点)
点数が低いのは、私が一般に政治家嫌いだから。
政治に関心を持とうと努力はしている。何より日本の現在と未来に無関心ではいられないし、まさしくそれを左右するのが政治だと解っているから。選挙があれば必ず投票に行くし、誰がどんな公約を掲げているかくらいは把握して、少しでも共感できる候補者/政党に投票するようにしている(でも嫌いな候補者が当選しないように有力な対抗馬に投票する、なんてことはしないので、いくぶん牧歌的で愚直な有権者ではあるかもしれない)。
野中広務のことは、大して知らなかった。どちらかというと嫌い、という程度。私が「気持ち悪い」と思う法案のいくつかが成立したとき政権の中核にいたことと、この本を読んで、まさに彼がその法案の立役者だったことを知って、その点ではますます嫌いになった。
でも、野中広務という人の根幹にあったのは、弱者への共感。そして、差別に対する恐れと怒り。そのことは、よく解った。その点では、少し好きになった。
でも、この本を読んで改めて思った。私は政治に興味がないんだ、と。特に、派閥争いとか根回しとか駆け引きとかには。だから、終盤は少なからずうんざりした(国会の乱闘が「打ち合わせ済みの茶番」だったと知ったときは、ちょっと楽しかったけど)。
大体において政治家というのは、権力の行使に慣れきって悪代官顔になるか、権力に追従して卑屈な顔になるか、あるいはどうにか誠意を貫こうと努力した揚句に疲れ果てて窶れてしまうか、そのどれかだ。どれにも当てはまらない政治家は、世渡り上手な道化か、徹底して能天気な無能者なんじゃないかと思う(って、好き放題言ってます)。
歴代総理の中でそんな嫌悪感を抱かずに顔を見ていられたのは、村山富市くらいだろうか(単に私が爺さん好きだからかもしれない。でも、この人の政治は嫌いじゃなかったんだ)。一般にルックス評価の高い小泉純一郎も、私には「強情さに強張った仮面」にしか見えなかった。
とりあえず、野中広務についてはやっぱり「許容できない」けれど、思想的な根幹においては共感できるし、政治的判断についても、そういう動機でそういう局面だったのなら仕方なかったんだな、という理解はできた(でも結局、同情を寄せ親身に感じていた人たちを傷つける結果になる法案の成立に尽力してしまったことにおいて、やっぱり不可解だし肯定はできない)。
まあ、戦後日本の政界について一通りおさらいできた、というメリットもあったので、「読んで良かった本」に分類しておきたい。

『ゴンチチの脳内麻薬書簡』(GONTITI=ゴンザレス三上とチチ松村、75点)
GONTITIについては、「インストゥルメンタル・アコースティック・ギターデュオ」という定義を一応、表紙の見返しに書いてある説明文から引用しておく。今や押しも押されぬ大家?なので、それ以上の説明は省くけれど。
高校の頃に、好きでよく聴いていた。なのに、いま私のCDラックにGONTITIのCDが一枚もないのが、とても不思議だ(だって持ってたのに)。
数日前、たまたまつけたラジオで、なんか心地よい音楽が流れてるな、と思って聴いていたら、GONTITIがパーソナリティを務めている「世界の快適音楽セレクション」という番組だった(流れてたのはGNOTITIの音楽じゃなくて、どこか外国のジャズっぽいのだったけど)。それで急にGONTITIを思い出して、ああ聴きたいな、と思っていたところ、図書館でこの本を見つけた。
ちょうど結成30周年を迎える頃に雑誌に連載された、ゴンザレス三上とチチ松村の往復書簡、という形式の本だ。
それぞれが「親愛なる三上さんへ」「親愛なる松村様」で始まる、日々のあれこれや過去の思い出をつづった、ちょっと風変わりだけどかなりどうでもよくて(おでんの具の話とか)、まったり感に満ちた文章。ほんとに些細なことしか書いてないのだけど、その空気感がどこまでも心地よい。
たとえば、チチ松村がトレードマークでもあるサングラスをなくしてしまった時のエピソード。色々なミュージシャンが集まるコンサートで出演前に愛用のサングラスがないことに気づいた彼は、元ちとせの私物サングラスを借りて急場をしのぐ(そのサングラスをかけたところ、コブクロの「クロのほう、黒田さん」に酷似していることが判明する)のだけど、彼は「失くし物」について後日こう語る。「忘れ物というのは戻ってこないことの方が圧倒的に多い」。そして、自分がかつて失くしたものを列挙するのだけど、琵琶湖にキャンプに行ったときに大事な腕時計がなくなったことに触れて、こう書く。「琵琶湖もたまには時間を気にすることがあって、時計が欲しかったんだと納得するしかありませんでした」。
ああ、素敵な納得の仕方だなあ。
こんなスタンスで世界と対峙できるって、すごく稀有で幸福なことだ。
相方のゴンザレス三上は、そんな松村氏のことを「脳内に常識の袋はあるけど、その袋に別のものを詰めている」と書いている(その表現は実に、言い得て妙だ)。
常識からはちょっぴり外れることもあるけど、どこまでも心地よく、快適。
まさにGONTITIの音楽と同じ作用が文章から放出されていて、読みながら、私はゆるやかな脳内麻薬に浸されてゆく。
いいなあ。やっぱり、GONTITIの音楽が聴きたいなあ。
ということで、あらためてCDを買っちゃおう、と思いました。

ま、今日はこの辺で。

↓といいつつ、近況報告はこの続き↓

とりあえず、境界線上を綱渡り。
ハーブガーデンはささやかながらじりじりと拡大中だけど、今のところ引っ越してるのは苗だけ(笑)
私自身の引っ越しはもう少し、先になりそう。
でも、きっと、うまくいく。
そんな予感がしてます。
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