la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
眠れぬ夜よりも、眠りたくない夜を
「彼女のまな板の上はいつもまっすぐに平ら。」
(高山なおみ/『諸国空想料理店』)

このブログでは、同じ書き手の引用は二度以上しない、と決めていたのだけど(うっかりやってしまったことは、たぶん数回ある)、今回は自覚しつつも、前にも触れた高山なおみの文章から引用。

この人の文章を読むと、私は必ず泣いてしまう。決して、ことさら感動を煽るような、作為的な文章ではない。それでも何故か私は泣くのだ、たとえば引用した一文で。

そこにあるのは「人を愛する才能」なのだ、と私は思う。身近な人の上に欠点を認めて苛立つのではなく、そこにある長所をまっすぐ捉えて素直に感嘆する才能だ。

少しケルアックと似ているのかも、と思うのはたぶん一過性の感想だけれど。

この人の感受性は開けっ放しに「善良」で「動物的」で、またそれを隠しも飾りもせずはっきり言葉にするのだけど、開けっ放しであってさえ、それらの言葉はとても綺麗だ。

油断して読んでいると、乱暴なくらい不意に投げつけられる丸裸の言葉を受け止め損ねる。
その時は、何かを庇おうとしても手遅れ。この人の言葉は既に私の心臓に突き刺さり、私は血ならぬ涙を流さずにいられない。

畑で採れた新鮮な野菜を食べた時と同じで、「猛々しさ」みたいなものにぶつかってドキッとすることもある。それはたとえば山田詠美の都会的な猛々しさとはまったく違う(グラスにわざとべったり口紅の跡をつけるのが山田詠美の「都会的猛々しさ」で、私はそういうのにはただ怯んでしまう)。

何種類ものスパイスをすり鉢ですり潰し、骨つき肉を煮込む。食べる時はお箸もナイフもフォークも放り出して、手をべたべたにして食べる。
「私の料理を食べる人は、みんな背中を丸め、口を突き出し、汁をすすり、手づかみでむしゃぶり喰う。」(本文より)
そして、それが高山なおみの言う「いちばんおいしく食べられるかたち」なのだ。

喰うこと、呑むこと。
高山なおみの文章は、そこに終始する。酒も煙草も、恋愛も失恋も、人の生死さえも呑み込んで。


高山なおみの猛々しさは、「食べる」を「喰う」と書く、その言葉の選びかたにも表れる。けれど、どれほど猛々しかろうと、この人は決して下品にはならない。

つまり眠りたくない夜に唐辛子入りのココアを作る、というのがこの人の「猛々しさ」で、それは彼女の他のレシピを見てもまっすぐに伝わってくる。お行儀の良さをうっちゃって、多少の枠組みは軽々と逸脱して、夢中になって作られる料理は、必ず異国のエネルギーに満ちた、陽性で力強い一皿になるのだ。

オノ・ナツメの挿画がハイセンスな福田里香の著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う~フード理論とステレオタイプフード50~』に、こんな章題があった。
「少女まんがの世界では、『温かいココアには、傷ついた心を癒す特別な効力がある』と信じられている」。
この本で、そのルーツは60~70年代の「明治vs森永のココアCM合戦」にある、と分析されている。これはたぶん正しいし、それなりに面白い。

けれど高山なおみのココアのルーツは、まったく別だ。メキシコの映画『赤い薔薇ソースの伝説』。少し長くなるけれど、『諸国空想料理店』から引用してみる。
「メキシコには『ココアの薔薇』と呼ばれる白い花があって、それは燃えるように辛いんだそうだ。その花弁を干して、煎ったココアの豆と共に細かく挽き(中略)…、素焼きの赤い器になみなみと注がれる、充分に泡立った熱いココア。」
そして、心の傷を癒すためではなく、「いつまでも眠りたくない夜」のために、高山なおみは「ココアの花」の代わりに唐辛子を使ってこれを再現する。

大丈夫、彼女は料理の天才だ。どんな逸脱も、佐々木倫子の(なかなか味のある)レストラン漫画『Heaven?』で賄いに供された「フライドチキン和風あんかけ」のような悪夢に至ることは絶対にない。

辛くて甘いココア。
今度「眠りたくない夜」があったら、私も作ってみよう。
理解できないとしたら、それはこちらのリテラシーの問題。

この世には間違いなく魔法の使い手がいて、高山なおみは、まさにその一人だ。
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