la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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愛だけじゃ足りない/どくしょきろく
「結局、すべてはその中にこめられた愛情の問題である。」
(ジョゼフ・デルテイユ『旧石器時代の料理』/フィリップ・ジレ『フランス料理と美食文学』より孫引き)


予期していたこと。予期されてもいたこと。
久々に、素面のままのバッドトリップ。
淋しさを紛らわせる唯一の方法は、その淋しさを言葉に移し替えること。
丁寧に、ひとつずつ。
書くことで、その感情は分析され、整理され、固定される。
どんな恋も、どんな至福も。
どんな不安も、どんな絶望も。
言葉にしさえすれば、消化できる。
それでも消化しきれないものは、涙という「感情の嘔吐」にして流してしまおう。

さて。唐突に本題。久々の「どくしょきろく」です。

『フランス料理と美食文学』フィリップ・ジレ(85点)
美食についての本ではなく、美食文学についての本、のはずだった。
でもやっぱり、美食についての本でもあった(「食物を面前にすると、幼くなり、とりわけ食卓につくと俗事のすべてをけろりと忘れて放り出せる」というジレの定義に従うならば、私にも充分「グルマン(美食家)」を名乗る資格があるのだろう)。
この本に出て来たジョゼフ・デルテイユの『旧石器時代の料理』という本が、ものすごく面白そう。邦訳は手に入らない(というか出版されてない)ようなので歯痒いのだけど、原著は布巾の布地で装丁されていて(編集者曰く「本を開く前に手をふくために」「食べる前に断じてこれで手をふかないように!」)、キッチンに吊るせるように金属の輪っかがついてるらしくて、ああ、こういうのを「エスプリ」と呼ぶのだな、とニヤニヤ(あのプチ独裁者アンドレ・ブルトンから早々に破門状を叩きつけられたシュールレアリストらしい出版物)。

『天才シェフ危機一髪~世界一流レストランの舞台裏で起きた40の本当のお話~』キンバリー・ウィザースプーン&アンドリュー・フリードマン編(75点)
“エル・ブジ”とか“トゥール・ダルジャン”とか、『厨房の奇人たち~熱血イタリアン修行記』に出て来た“バッボ”のマリオ・バターリとか『キッチン・コンフィデンシャル』の著者アンソニー・ボーデインとか。
些か低俗なゴシップ的タイトルは残念だけれど、盛りだくさんで楽しかった。
“ル・シルク”のアラン・セイラックが語った兵役中の物語(「戦場のコーヒー」)、ジョナサン・アイスマンが雇った、腕に人工装置をつけた料理人の話(「サンドイッチづくりの達人」)、横着して一気に作ろうとした八リットルのメレンゲがボウルから溢れ出して襲ってくるクラウディア・フレミングの「メレンゲの大逆襲」(すっかりパニックになった彼女に「ミキサーの電源を切れよ」と冷たく言い放ったペストリー・シェフが後の彼女の夫だというのも素敵)、アンソニー・ボーデインのいかにもアメリカンな厨房狂騒曲「恐怖のニューイヤー特別メニュー」なんかが特に印象的だった。

『ウスケボーイズ~日本ワインの革命児たち~』河合香織(90点)
故・麻井宇介氏の著作『ワインづくりの思想』を読んでから、ずっと読みたいと思っていた本。きちんと読み手を意識したメリハリのある文章で、構成も上手く、引き込まれる。
麻井宇介氏は、メルシャンのトップ・キュヴェ「桔梗ヶ原メルロー」の生みの親だ。国産ワインというと輸入した濃縮果汁とかバルクワインとかを使って国内で瓶詰めする(或いは生食用に向かない「屑ブドウ」を掻き集めて醸造する)、というのが当たり前だった日本のワイン産業に、初めて「本当のワイン造り」の道を切り開いた人だ。
高温多湿=ワイン用の葡萄づくりには向かないと言われてきた日本で、ワイン用の品種を栽培し醸造することには、多大な苦労があった。ブドウ栽培の技術的な問題以前に、何より周囲の偏見やためらいや諦めとの闘いが必要だったのだ。
「ウスケボーイズ」というのは、麻井宇介氏の信念に共感し、彼を慕って「自分の」ワイン造りを模索し、ワイン造りにすべてを賭けた三人の若者たちのこと。
今、彼らのワインは「日本では手に入らない」とさえ言われている。
ワインは悪魔だ。人に取り憑き、メフィストフェレスよろしく貪欲にその魂を貪る。
けれど、持てるものを惜しみなく注ぎ込んだとき、かけがえのない宝石のような葡萄とどんな形容詞も追いつかない「奇跡のワイン」が生まれる。
日本人だから、というのでは決してなく、彼らのものづくりに対する情熱と信念とが、私を魅了する。
ああ私は今まで何をやってきたんだろう、と思いさえするけれど、まあ、自分が肯定するものは揺らがない、という確信を養ってきたというだけで(今のところは)良しとしよう。

『我が名はコンラッド』ロジャー・ゼラズニィ(70点)
ゼラズニィ熱がすっかり不完全燃焼を起こしていて(読み返したい短編集が手に入らない。ネットとか取り寄せとか、たぶん方法はあるのだろうけど、何となくそういう形で手に入れたくはないのだ。あるとき不意に古書店かブックオフで巡り合う、というのが理想)、それを気遣って(?)敬愛する職人Tさんが貸してくれた本。あさりよしとおの漫画『宇宙家族カールビンソン』(大好き!)にこれのパロディ/オマージュがあったな、とか懐かしく思いつつ読んだ。
汚染の果ての世界に生まれた異形の生きものがケンタウロスを思わせる神話的形態をしているのが、美しくも些か欺瞞的に思える。でもゼラズニィの魅力というのはまさにその神話的な生きものの描きかたにあって、語り手であるコンラッドが彼らのために笛を吹く一連の場面はとても、とても魅力的だった。
あのシーンだけを切り取って短編にしたら、きっと素晴らしかったろう。
もしかしてゼラズニィは、長編ではなく短編でその本領を発揮する作家なのかも。

『ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突』アマーラ・ラクース(75点)
図書館でのテーマ借り。テーマは「長いタイトルの本」。
この物語について何か書こうとしても、何も書けない。
何故ならそこで描かれているのは「ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突」なので、もうこのタイトルだけですべてが言い現わされているから。
裏表紙では「ミステリー仕立てのイタリア式喜劇」と紹介されているのだけれど、喜劇的要素はあまりない。エレベーターで起こった殺人事件をめぐる11人の証言が、そのままイタリアの移民問題をめぐる11種類のアイデンティティと政治的思想になっている。もちろん幾らか戯画化され誇張されているので、その辺りが喜劇と言われる所以だろうか。
「ああ、なるほど戦争がなくならないわけだ」と、私はかなり絶望的に読んだけれど。

『聖者と学僧の島~文明の灯を守ったアイルランド~』トマス・カヒル(45点)
「長いタイトルの本」二冊目。
このタイトルを見てアイルランドの歴史にちょっと興味を持った(「聖者と学僧の島」って、自分がファンタジー小説を書くなら絶対そういう島を作ると思うから)。でも、原題は「アイルランド人は如何にして文明を守ったか」くらいの意味で、中身はローマ帝国の終焉とアイルランドにキリスト教を布教した聖パトリックの話だった。
…空振り。

↓ここからは、ちょっと古い記録です↓
『金の仔牛』佐藤亜紀(75点)
前作(『激しく、速やかな死』)が「わからない人はついて来なくて結構」という極めて不親切な読み物だったのに比べて、今作は「じゃ、これならご満足でしょう?」という極めて親切な読み物だった。おまけに佐藤亜紀の愛読者としては拍子抜けしてしまうほどの安寧な結末。
私の「三大苦手分野」のひとつである「経済」が主軸なので序盤は戸惑ったけど、何と巻末に懇切丁寧な注釈があって(当時の社会背景や経済の概略=18世紀フランスの狂乱の金融バブル、旧・貨幣と新・紙幣のレートや株券の濫発なんか=から、作中に登場する賭け事のルールまで)、「これさえ読めば大丈夫」状態。むしろ作中でいちいち解説されたら物語のテンポが損なわれることは確実なので、「理想的な形式」だったと思う。個人的には、フェリーニの映画『甘い生活』を観ていたことも大いに助けになったり。
それにしても、三文小説的なお約束プロットをここまで魅力的にしてしまえるのは凄い。登場人物たち(特に恋人ニコル)が、「何が空虚で何が真実大切であるのか」を本能的に悟っているのも心地よい。この作家は常に主人公を苛める傾向にあって、結末を知らずに読むほうは心底はらはらするのだけど、アルノー君はかなり甘やかされた方じゃないだろうか。
ただ、どことなく、「私にはこういうことだってできるんですよ」という佐藤亜紀らしい余裕綽々な印象があって、初期の作品ほど没頭して楽しめたわけではない。いつ読み返しても「小説を読む歓び」を思い出させてくれる名作の書き手だけに(というか読者ってどこまで我儘で貪欲なんだか、と我ながら呆れる。でも私はこの人の初期の作品には90~98点をつけるのだ)、辛すぎる採点かもしれないけど75点。

『黄金の魚』ル・クレジオ(85点)
前に『偶然 帆船アザールの冒険』を読んで、面白かったので。あと『金の仔牛』とタイトルがリンクしていたので、図書館で一緒に借りてみた。
欲望の残酷さに対する「弱者としての恐怖」と「対等な立場での落胆」とを描き、それを「強者としての侮蔑」のギリギリ手前のところで強く踏みとどまらせるスタンスがとても好きだ。
『偶然』の主人公ナシマもそうだったのだけれど、この物語の語り手ライラもまた、「弱きもの」として扱われながら「強きもの」に対して媚びもあきらめもしない。自分自身の闘争を捨てず、救済にしがみつくこともない。身勝手な欲望の対象にされることは決して幸福には結びつかない(むしろその両足を挫く負の要素になる)ということ、つまりル・クレジオが繰り返し書いているのはまさにそのことで、「愛されること」が至上命令となっている昨今の日本の能天気さというか浮薄さを痛感せずにはいられなかった。

『散文売りの少女』ダニエル・ペナック(75点)
職業的スケープゴート、という世にも稀な仕事をしているバンジャマン・マロセーヌが、名探偵ばりの確率で殺人事件に遭遇したおすシリーズの第三作。パーティや旅行をするときは名探偵だけは誘ってはならない、というのが長年の私のセオリーだったのだけど、これを読んで「名探偵とマロセーヌだけは誘ってはならない」に変更した。
もちろんれっきとした「殺人事件」が起こるので、決して明るいだけの物語ではない。深刻な社会問題も正面きって描かれるし、マロセーヌの周囲に集う雑多な人種の脇役たちもそれぞれに重い過去や歴史を背負い、作中の「現在」にあっても決して安寧に暮らしているわけではない。それでも気の利いたジョークあり、文学作品のパロディや引用もあり(カポーティ『草の竪琴』の冒頭が引かれていてゾクゾクした。あの書き出しは私の憧憬そのものなのだ)、さらには「そんなバカな」という脱力系の展開も満載で、気持ち良く「笑える」。
どことなく読み心地がなめらかすぎる感じは否めないけれど、それはこのシリーズが字義通りの「博愛主義」に貫かれていてそこにブレがないからだ、というプラス査定にしておきたい。

『アラビアン・ナイトメア』ロバート・アーウィン(80点)
15世紀エジプト。灼熱の町カイロに蔓延する奇怪な病「アラビアの悪夢」と、その周囲で巡らされているらしき不穏な陰謀。フランス国王の密命を帯びた英国人巡礼者バリアンはいつしかその陰謀に巻き込まれ、追跡者と悪夢の手から逃れようと、出口のないカイロの町を一人さまよい歩く羽目になる…。
じわじわ怖くなるのは、悪夢と現実が入り混じり救い難いまでに転落してゆくバリアンと対照的に、はじめは穏やかで寡黙だった「語り手」が徐々に勢いづき、バリアンについて「気骨がなく受け身である」「私の物語にはもってこいの素材」などと喋り始める辺りから。
いったい、この語り手は何者なのか。そして、その真意は。
主人公=語り手(或いは語り手の代弁者)、という無意識の認識を絶妙に突き崩す、あくどい(?)手法が冴えている。
ただ、手法が巧みで雰囲気が出ていればそれで100点かというとそうでもなくて、謎めいた用語が濫用されていて思わせぶりなわりにどこかしら空虚というか、登場人物が「駒」扱いされていて作家が「神」的な立場を楽しみすぎているというか。
結局、書き手を引きずって暴走するくらいの強靭さを、私は「小説の登場人物」に求めているんだな、と思った。

『ひみつの植物』藤田雅矢(85点)
小説ではなく、珍奇だったり常軌を逸して美しかったりする植物の生態を、写真入りで紹介している本。ドライアイがいちばん酷かった時、「ぼんやり眺められる写真入りの本を」と思って図書館で借りたもの。
ところが、文章が思いのほか生き生きしている。個々の植物の魅力が、図鑑的な無機質さではなく感覚的で思い入れたっぷりな言葉で語られている(好事家が夢中になって語る言葉というのはジャンルを問わず魅力的だ)。それでけっきょく活字を熟読しているうちに著者の藤田雅矢が作家だという事実が発覚して(寡聞にして知らなかった)、すごく得心がいった。
育ててみたい植物はなかったけど(私が育てたいのは鑑賞用ではなく食用の植物一辺倒だから)、読んでいてとても楽しかった一冊。
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