la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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地には平和を、人には愛を。
「目的が良きものである限り、我々の魂は幸福と共にある。」
(ノルマンディの林檎泥棒、ジョイ・ミッチェルの言葉)


wildstrawberry2


この場合の「良きもの」というのは善悪の「善」を指すのではなく、従って、正義や主義信条や信仰の類いとは無縁だ。
ジョイ・ミッチェルは林檎泥棒ではあるが、本来の職業は泥棒ではない。彼女は言わば「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」で、そのこと自体が職業として成り立つのはノルマンディの広大な林檎畑においてだけ(厳密に言えば、綿密な計画=充分な補償金と住民の立ち退きと気化式の小さな爆弾=に基づいて作られた、林檎畑の真ん中の人工砂漠においてだけ)だ。「林檎泥棒」というのは仕事場の仲間が彼女(これも厳密に言えば、彼女と職業上のパートナーであるマルリィ・オスタとの二人)につけた綽名。つまり、「パイロット」のマルリィと「調停者」のジョイが、しょっちゅう砂漠の端に不時着しては港までてくてく歩く羽目になり、その途中でしょっちゅう林檎畑の林檎を失敬してはそれを齧りながら帰ってくるからだ。

ともあれジョイは、自分が周囲の林檎畑からときどき林檎を失敬するのを正当化するために、こんなことを言ったのではない。彼女の言う「良きもの」は「善良さ」と同義であり、林檎畑の林檎を無断で捥ぐことは「善良さ」には反しない(林檎農家の人々はとうの昔にこの林檎泥棒の正体を知っていて、巡回中の「銀鼠」でさえ、おどけたビープ音で威嚇してみせるくらいのことしかしない)。

5時間のフライトのあとで延々と(それも重い飛行ブーツで)砂漠を歩く羽目になっても、彼女の足取りは軽い。
相棒のマルリィと二人、でたらめな歌をうたいながら、彼女は歩く。

マルリィが保証した通り、何が「良きもの」であるかについての判断なら、彼女は間違わない。

空の青さ、夏の日差し、靴底の砂の感触。
熟した林檎の匂い、艶やかな赤い実。
銀色に光るのは全線の起点、揺るぎなきホームたる「港」の管制塔。

彼女は無心に林檎を齧る。
いっそ苦しいほどの幸福に満ちて、彼女は歩き、歌い、飛び跳ね、爪先立ちでくるりと回る。
そしてまた、林檎を齧る。

そう、林檎農家の人々がこの泥棒を追い払おうとしないのは、彼女が世界中の誰よりも、林檎の美しさを、手のひらに乗せたその重みを、唇に触れる果皮のなめらかさを、その歯触りを、みずみずしい甘酸っぱさを、愛しているからだ。

ジョイ、この世のすべての歓び。
変えることの許されない「歴史」を前に、決して癒えることのない傷を抱きながらも、善良であること、幸福であることを肯定し続けるジョイ。

変えることが許されないからこそ、そこから学ぶことができる。
どんな歴史も必然だと思ってはならない、と言ったのはブレヒトだったかベケットだったか、今はちょっと思い出せないけれど。
悔やむことは、決して後戻りでもなければ意味のないことでもない。
後悔は、してしすぎることはない。
なぜなら過ちは過ちなのであり、改めることは悔いることと分かちがたく結びついたプロセスなのだから。

ちなみに、画像は「そんなことも知らぬげに」軽々と育ったワイルドストロベリー。
何故だか、二株のうちミントのすぐ隣にあるほうは花をつけなくて、離れている一株だけが実をつけた。
ミントとは相性が悪いんだろうか(バニラアイスの傍らでなら仲良く共存する癖に)。
今のところ、私はベランダ園芸の幸福をアブラムシたちと分かち合っています。たまにセロハンテープでペタペタ「駆除」するけどね(笑)。
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