la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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担ぐものと担がれるもの
「専制君主の絶対権力がついにはかならず彼を狂わせてしまう理由が、いまおれには分かる。」
(『魔王』ミシェル・トゥルニエ)


以前、上巻だけを借りてきたら訳注が下巻の巻末に載っていたせいで読めずに返したのだけど、先日やっと上下巻を一緒に借り直して、3日くらいかけて読了。

凄い小説だった。

「シューベルトの魔王とはたぶん無関係」と書いたのは間違いで、「シューベルトの歌曲の元になったゲーテの詩の元になったゲルマンの古い言い伝え」を通奏低音にして語られた、第二次世界大戦の物語(『ブリキの太鼓』と並ぶ幻想戦争文学の金字塔、なのだそうだ。昔『ブリキの太鼓』は数ページで気分が悪くなって投げ出したのだけど、何より「幻想戦争文学」というカテゴリーが存在することに私は驚いた)。

物語は、主人公アベル・ティフォージュが書いた一人称の「左手の手記」から始まる。パリにガレージを持つ自動車整備工ティフォージュが、己の魔性と不滅を信じる、そして自分は「気の触れた男ではない」と(傍点つきで)書き記した手記だ。少年時代の回想、寄宿学校での苛烈な虐待と奇妙な篤い庇護。些か生理的な不快感は禁じ得なかったものの、そこで読むのをやめてしまわなかったのは、高度な知性(それこそ狂気を思わせるほどの)を窺わせる文体に強引に引きずられたから。

彼はある日、少女に対する暴行の嫌疑を掛けられ投獄される。だが、まさにそのとき第二次世界大戦が勃発し、ティフォージュは釈放=徴集されることになる(それはちょうど寄宿学校時代、とつぜん起きた火災のために罰を免れた体験と重なり合う)。

従軍中、そしてドイツ軍の捕虜となり強制労働に従事する間、彼の「左手の手記」は中断し、彼が再び書き始めるまで物語は三人称で進行する。

作家は主人公を肯定するものだ、という意識が私の中には根強くあって、それがしばしば誤読につながってきた。この頃になってようやく、そういう思い込みが自分にあることを意識しながら本を読むようになって、この物語についての私の感想はつまり、こういうこと。
「ここで語られている思想の根幹は、揺るぎなく肯定されるべき。けれど、どんな思想にも『悪性の価値転換』は起こり得るということを、忘れてはいけない。」

この「悪性の価値転換」というのはたとえば、宗教的な情熱(=純粋な善への志向)が異端者への苛烈な弾圧へ向かったり、秩序の維持(=純粋な規律への志向)がそこからはみ出す者を徹底して迫害したりする、そういう現象を指すのだと思う。

そして、重要なモチーフであるクリストフォルスの伝説と、「担ぎ」について繰り返される記述。読んでいて、ドゥルーズ=ガタリの使う「機械」の概念を思い出したのだけど、著者のトゥルニエはドゥルーズと長年の親交があったのだとか。つまり、この二人が同じ概念を共有していたことは充分にあり得るのだ。

「いっさいが徴(シーニュ)だ」と書くティフォージュは、初めから善悪の価値判断を放棄している。与えられる「徴」は彼をしてナチス・ドイツの悪に加担させるのだけれど、それが「悪性の価値転換」であることに、「左手の手記」の書き手であるティフォージュは気づかない(彼は『魔王』の書き手=トゥルニエではない。ナチ幹部の所業を「反担ぎ」と定義して憎みながらも、自分のしていることに対して疑いや嫌悪を抱くことはないのだ)。だから物語の結末でそれが「良性の価値転換」を迎えたことさえ、ティフォージュ自身には理解されないままだったろう。

「作者」と「主人公」の関係をあらためて思い知った。

引用したのは、ティフォージュがナチス・ドイツの崩壊を前にして「左手の手記」に書いた文章。「無制限になんでもできる権力と、限界のある手腕とのあいだにある不均衡ほど、残酷なものはない。運命が、貧しい想像力の限界を突破させ、ぐらつく意志を踏みにじってくれないかぎり、どうしようもない」。

そう、自己に対する批判を完全に拒絶するというのは、とても危険なことだ。
それが「自己」であっても「企業」であっても「国家」であっても。
追記。

この本を読んで私は自分のカヤックにつける名前を決めた。
「フォリ=ポルタンファン」。
フォリ(Phorie)=「担ぎ」、ポルタンファン=「少年担ぎ」。
以前ドゥルーズにちなんで私とカヤックとの結びつきを「逃走機械」と定義したこととか、「陸地では私がそれを担ぎ、水の上ではそれが私を担ぐ」という、良性でも悪性でもない価値転換への名づけとして。

まあ、普段はやっぱり「アリュート」とだけ呼ぶことにしようと思うのだけど、それは「通称」。本名はあくまでもフォリ=ポルタンファン、ということで。
私のアリュートは「相棒」であるので、男性名詞ではなく女性名詞であることが好ましい。それへ「少年担ぎ」という名をつけるのはもちろんクリストフォルスの伝説に依るのだけど、まあ、ここはあまり潔癖に考えずにおこう。
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