la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
終の棲家(ついのすみか)/「砂の泉」と「ありふれた靴」のこと
 少年と少女が座っている。たとえば廃屋の階段。たとえば夜のテラス。たとえば裏庭の木戸の前。他に誰も来ない場所なら、彼らにとってはどこでも同じだ。
 二人とも、黒髪に黒い目をしている。顔立ちは少しも似ていない。気性もずいぶん違う。にも関わらず、二人は双子の姉弟(あるいは兄妹)のような、不思議に近しい間柄だ。
 自分が死んだら「砂の泉」に捨てて欲しいと、少女は少年に言う。
 その箱は古びた木でできていて、前面がガラス張りになっている。中では割れたワイングラスに注がれた砂が、床にこぼれ落ちてつもっている。
 砂の泉。それがその箱の名だ。
 箱の中には永遠の静寂があり、少女はそこを自分の終の棲家として夢見ているのだ。
 少年は、きっとそうすると少女に約束する。
「でももし僕が先に死んだら、『ありふれた靴』の中に捨ててくれる? その時にはきっと、僕の手も足も、みんなバラバラだろうけど」
 少年は言い、少女はくすくすと笑う。
 その箱は銀色の金属でできている。アンテナがついているので壊れたポータブルテレビのように見えるけれど、画面は割られていて、中では赤と青と黄色のランプが交互に点灯している。そしてそこに、大きな片方だけの木靴が、無造作に突っ込まれている。
 ありふれた靴。それがその箱の名だ。
 その箱の中に静寂はない。代わりに永遠の沈黙が息づいている。少年はそこが自分の終の棲家だとは思っていない。その中でじっと目を見開いたまま、誰かに拾われるのを待つつもりなのだ。
 少女の名は憂愁。
 少年の名は享楽。
 二人は座っている。
 たとえば廃屋の階段に。たとえば夜のテラスに。たとえば裏庭の木戸の前に。彼らの意思に反して、この二人には永遠の命が授けられているのだけれど。



 『コーネルの箱』の著者チャールズ・シミックは、コーネルの最高の楽しみかたは箱を床に置いて傍に横になって眺めることだと言う。でも私には、コーネルの箱の唯一の正しい楽しみ方は、中に入って居心地のいい片隅をみつけてそこで眠ることだと思う。自分が10センチくらいに縮んで、オブジェがちょっと窮屈、というくらいがちょうどいい。たとえば「砂の泉」の、割れたグラスの足に寄りかかって、頭からさらさらと砂を浴びながら。あるいは「石鹸の泡セット」の、薄いガラス板の上で石膏のパイプに寄り添って。あるいは「ル・ピアノ」の、楽譜で包まれた小さな箱に腰掛けて、オルゴールの音に耳を傾けながら。
 ウィリアム・ギブスンのSF『カウント・ゼロ』を初めて読んだ学生の頃、私はコーネルのことなんか知らなかった(大学を卒業してから、自分の在学中に学内のギャラリーでコーネル展を開催していたことを知った。見に行かなかったことが未だに悔やまれる)。作中に重要なモチーフとして登場する「コーネルの箱」が、実在しているものだとも思わなかった。でも、それを読んだとき、やはり私はその箱を見てみたい、と熱烈に思ったものだ。
「砂の泉」は、コーネル作のボックスアート。
 そして「ありふれた靴」は、“爛れたコーネル”ことエドワード・キーンホルツの作だ。
私はコーネルもキーンホルツも好きだけど、コーネルは熱烈に欲しくなるのに比べて、キーンホルツは絶対に欲しくないと思う。傍に置いたら毒されそうな気がする。眠れない気がする。オブジェに呑み込まれそうな気がする。
 けれど、それもまた、私の心を強く惹きつける。今、私は無性にキーンホルツが見たい。
 そう、人は美しいものにばかり心を奪われるわけではないのだ。

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