la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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どくしょきろく番外編(えいがきろく)
最近、良くも悪くも生活が充実して/煩雑になっていて、仕事もそれなりにバタバタしてあまり文化的なことを書けずにいるので、この辺で一度「えいがきろく」を公開してみます。かなり長いです。前々から書いてたものがほどんどで、つまり観たのもずいぶん以前、ということになるのだけど。
タイトルの前についている人名は監督の名前(映画好きを自認する人に私はつい「誰が好き?」と訊いてしまうのだけど、監督じゃなく俳優の名前が返ってくると少々がっかりする)。名前がついてないのは、監督の名前を忘れたか、特に意識すべき映画だと思わなかった映画(つまらなかったわけではなく)。


アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』

敬愛するタルコフスキーの遺作。観るのは三度めにして初スクリーン。映画館の音はやっぱり私には大きすぎたけれど(『サクリファイス』が基本的に静かな映画で、その静かさを標準値に定めてしまったせいで結果的に最大音量がものすごいことになったのだろうか)、冒頭で少し泣いた。終わってからも少し泣いた。感動して泣くのではなく「静かに沁み入るように泣く」ような、うまく言えないけどそんな感じ。
武満徹が言っていた通り、たぶんこの映画を撮った時、タルコフスキーは自らの死を意識していたのだろう。映像にも台詞にも風景にも仕草にも、善悪とか生死とか人間についてのありったけの思想が注ぎ込まれていて圧倒された。
タルコフスキーを観るとき、私はまず「映像の、息の詰まるような完璧さ」に気を取られて字幕を読むのを忘れる。だからストーリーを追うのに苦労するのだけど、三度観てやっと、全体の意味が掴めた(初めて観た時など、「え? 何でいきなり放火するの?」などと、観終わってから首を傾げたくらい何も解っていなかった)。
これは、誰にも気づかれることなく行われた奇跡の物語だ。
そして、その奇跡の真の代償が何であるかを知ったとき、言い知れぬ不安と絶望の気配ははっきりと晴れてゆく…つまりこの物語は揺るぎのないハッピーエンドであり、私の解釈では、これもまたひとつの『グスコーブドリの伝記』なのだ。
ちなみに以前タルコフルキーのことを書いた時、スローモーションで床にぶちまけられるミルクのイメージに触れたのだけど、そのシーンは『鏡』じゃなくて『サクリファイス』の一場面だった。おまけにしっかりスローモーションだった(お詫びして訂正します)。


デレク・ジャーマン『ブルー』

エイズで亡くなったデレク・ジャーマンの、これも遺作だっけか。
青かった。
ただひたすら青かった。
それでも最後まで観ることはできたので、これもまたひとつの「すごい映画」なのだろう。


『魔女の宅急便』

特にジブリのファンだというわけではないけど、「自分の力で暮らしてゆくこと」を明るく解りやすく描いていてとても好きな映画。ナウシカよりラピュタよりトトロより、私はこれが好き。


『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』

アメリカ映画だと思ってたらドイツの映画。ハリウッド映画をお子様ランチだと決めつけている私は「道理で面白いわけだ」と思った。
不治の病で死を宣告された二人の若者。病院の厨房で深夜に痛飲するジンだかウォッカだか。そして二人は病院を脱走し、車を盗んで海を目指す。「死ぬまでにしたいこと」。
盗んだのが曰くつきの車だったせいで彼らは警察からもギャングからも追われる羽目になるのだけれど、とうに保証された死のために彼らはむしろ無敵だ。
面白いし、音楽も良い。
しかしこの二人の「死ぬまでにしたいこと」が、実に通俗的で拍子抜けした。もうちょっと独創的なことを望んでほしかったけど、でも、それだと主人公二人の造形が「ごく普通の、どこにでもいるような青年」ではなくなってしまうのかも。
ちなみに日本を舞台にして主人公二人を男女にしたリメイク版があるみたいだけど、ちょっと行きゃすぐ海に出るようなこの島国じゃ、「海を見たことがない」というのがあまりに普通でない生い立ちに聞こえてしまう。物語が感傷的な恋愛悲劇になってなきゃいいけど。


ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』

かなり好きな監督、ヴェンダースの映画(大学時代『ベルリン・天使の詩』を「つまらなかった」と酷評した先輩に軽く殺意すら覚えたことが懐かしく思い出される)。観るのは二度目。ものすごい低予算&短期間(16日間!)で撮られた映画でもある。
9.11以降、米国を守るという使命感とアラブ人への敵意に取り憑かれたベトナム帰還兵の叔父と、母からの手紙を彼に届けるためパレスチナから十年ぶりにアメリカへ帰ってきた二十歳の姪。再会は路傍での無意味で象徴的な殺人(裕福な米国人の若者が遊び半分でホームレスのアラブ系移民を殺してしまう)によって果たされる。姪はせめて遺体を遺族に引き渡したいと願い、古びたバンに遺体を乗せての、叔父と姪とのアメリカ横断の旅が始まる。
何より、ラナ(ミシェル・ウィリアムズ)の笑顔が忘れ難く胸に残る。不信と敵意に満ちた現代社会への明確なアンチテーゼ。希望も、愛も、信頼も、癒しも、贖罪も、まだ可能だ。そう思わせてくれる(そしてそれは思い込みより確信に近い)、とても、とても良い映画だった。


黒澤明『白痴』

私の最愛の小説(ドストエフスキーの『白痴』)を、黒澤明が舞台を日本に移して撮った映画。ムイシュキンが森雅之でラゴージンが三船敏郎、ナスターシャ(役名が「那須妙子」なのには参ったけど)が原節子、という鉄壁の超豪華キャスト。監督も含めて、これ以上は望めないほどの贅沢な顔ぶれだ。ただタルコフスキーが『白痴』を撮ろうとしていた事実を知ってしまっている以上、この黒澤版に満足することは私にはできない。長大な物語の序盤を要約せざるを得なかった冒頭の説明字幕とか、どうしても日本人の気質やビジュアルが『白痴』には馴染まない点とか(特にアグラーヤのキャラクターが、原作に忠実に再現されているようでいて受ける印象が全く違ってしまっていた。数年前びわ湖ホールで上演された歌劇『サロメ』で侃々諤々の議論が沸き起こったのを思い出す。海外の演出家が「サロメの衣装は現代の典型的なハイスクール・ガールの服装で」と言ったのを日本側が「セーラー服」にしてしまったが故の悲劇だ。「女子高生」と聞いて大人の欧米人と大人の日本人がイメージするものが、あまりにも違いすぎたのだろう)。
とにかく『白痴』はどこまでもでロシア的な小説で登場人物もひたすらロシア的なので、総括としてはやっぱり「タルコフスキーに撮ってほしかった!」ということになる。

『日の名残り』
カズオ・イシグロの原作が好きで、アンソニー・ホプキンスの執事姿にも興味があったので観てみた。でも、アンソニー・ホプキンスは何を演ってもハンニバル・レクターにしか見えないという致命的な欠点を持っていて(俳優としての欠点ではなく観る側の私が創り出してしまった欠点だと思うけど、あの立ち姿は絶対に執事の立ち方じゃない。ちょっと猫背?だし)、結局アンソニー・ホプキンスは「従僕」にはなり得ないのだ、と私は思った。

ともあれ、原作は執事スティーヴンスの一人称なので、いつの間にか彼に共感して「主人の政治的判断に口を挟むのは執事の職域ではない」という理屈に(本心では断固ミス・ケントンと同意見でありながら)納得してしまっていたのだけど、映画はそれが「過ち」だとはっきり伝わるように撮られていて驚いた。今さらながら、原作の意図も同じだったのたと気づいた(高校の現代文のテストで問われてたら間違いなく誤答してた)。
でもスティーヴンス役は、別の俳優が良かったなあ。


『スティング』

漫画家オノ・ナツメの初期短編集にちらっと出て来たのを、ずっと観たいと思っていたもの。漫画のほうは、とある町の腕利きシェフが、町の有力者(それも逆らうと危ないタイプの)に結婚記念日のディナーを依頼されて断るという話。シェフがその日に上映される映画を観るために自分の依頼を蹴ったと知り、有力者はもちろん怒るのだけど、その日に劇場の前でシェフをとっ捕まえた時、上映される映画が『スティング』だと知った彼はこう言うのだ。「…放してやれ。『スティング』なら仕方ない」。
で、当の映画のほうは極上のエンターテイメント、私の大好きな「詐欺師」もの(他にはコメディ映画『ペテン師と詐欺師』とか、海外ドラマ『ホワイトカラー』とか)。
何よりポール・ニューマンのあの青い瞳が、もうめろめろになってしまうくらい饒舌だった。他の出演作も観たいな。
共演のロバート・レッドフォードは、あんまり好きな俳優じゃないのだけど、この役はなかなか良かった(ダイナーでひとり食事をするシーンで、右手に持っていたフォークを逆さにしてその柄でカフェオレのマグをぐるっとかき混ぜ、マグの縁でカンカン、と雫を切ってからひょいと口に含んで舐めてしまう、その一連の動作が、適度なやんちゃさと育ちの悪さを見事に表現していた。あれってアドリブなんだろうか)。
ただ、いくら男同士の絆を描くにしても、あの女優陣のアグリーさはちょっと行きすぎだろうと思う。役柄としてはどちらも助演女優賞ものなのだから、もう少し魅力的な女性にして多少の未練を感じさせるくらいの描き方をしてほしかった。
※ちなみに後日、ニューマン&レッドフォードの『明日に向かって撃て!』を観たのだけど、こちらはバート・バカラックの音楽があまりにもミスマッチでそんな名作だとは思えなかった(だって西部劇にバカラックて、刑事ドラマでボサノヴァが流れるようなものじゃ…)。

ジャン=リュック・ゴダール『アワー・ミュージック』
泣く子も黙る(?)ゴダール作品。タイトルに惹かれて観たはいいけど凄惨なモンタージュに目を覆ってしまった。直視すべき現実に、どうやら私は耐えられないのらしい。何と脆弱な。でも、『ベトナムから遠く離れて』と同じく、直視すべき作品。価値ある作品。私としては、『勝手にしやがれ』のほうがずっと好きなんだけど。


まだまだ続きます。


『ドクトル・ジバゴ』

パステルナークの原作を本当は読みたかったのだけど、ちょっとガッツがなくて、映画でなりと筋書きを知って置こうと思って観たもの。オマー・シャリフがとても良かった。思慮深い黒い瞳。私の借りたDVDでは冒頭が特典映像になっていて、小太りで裕福そうなアラブ人男性が「こんにちは、オマー・シャリフです」とにこやかに語りかけてきたのだけど、どうやら冗談の類いではなく本物のオマー・シャリフの「その後」らしかった(知らなきゃ良かった、と思った)。
物語そのものには文句のつけようがないのだけど、どうやら私は「金髪」が苦手なのらしい。ジュリー・クリスティがぜんぜん魅力的に見えなくて、やっぱり原作を読むべきだった、と思った。


『迷子の警察音楽隊』

これは『ドクトル・ジバゴ』を借りるのに合わせて、気が滅入った時のために「心温まるヒューマン・コメディ」を一緒に借りておこうと思って。
何かの手違いで出張先を間違えた警察音楽隊が、行き着いた町で(途方に暮れながら)過ごした一夜の物語。事件らしい事件は何も起こらないのだけど、なかなか面白かった。劇中に「オマー・シャリフに恋してた。あんな悲恋に憧れたわ」という台詞があってびっくりした。オマー・シャリフて「ジバゴ」じゃん! 本なら腐るほど読んでいるのでこういう「偶然リンク」は珍しくないのだけど、映画でこれは極めて偶然度の高いリンクだったので驚いた。


アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』

ロシアの奇才ソクーロフ監督による、昭和天皇ヒロヒトの物語。舞台は1945年の日本、つまり「現人神」が敗戦を迎え「人間」になるまでの「天皇の日々」を描いた、当初は「公開不可能」と言われていた幻の映画だ。天皇ヒロヒト役にはイッセー尾形、皇后には桃井かおり。好きな映画だとか面白いとか言うことはできないけれど、忘れ難い映画だった。イッセー尾形と桃井かおりの、終盤の演技が素晴らしかった。ずっと疎開していて敗戦後に東京に戻って来た皇后が久しぶりに天皇ヒロヒトと対面するのだけど、淡々と抑えられた言葉(「あ、そう」「うん、そう」)の中に「天皇と皇后」という「普通でない夫婦」の「普通の愛情」がもう隠しようもなく滲み出していた。この映画は「現人神」であるが故に普通の人間であることを許されなかった天皇に対する、ひとつの解放の物語なのだと私は思った。


エミール・クストリッツァ『アリゾナ・ドリーム』

観るのは二度目。若き日のジョニー・デップ主演。私の夢によく出て来る「宙を泳ぐ魚」のイメージはほぼ間違いなくこの映画に由来している。初めて観たのはずいぶん昔で、それ以降ジョニー・デップは「好きな俳優」に分類されているけど、再観するとジョニー・デップよりリリ・テイラーが素晴らしいと思った(私的助演女優賞。顔立ちは決して美人ではないのだけど表情や仕草がものすごく魅力的で、つくづく不思議な女優さんだと思う)。
話は逸れるけど、テリー・ギリアムがジョニー・デップ主演でドン・キホーテを撮ろうとした顛末がドキュメンタリー『ラ・マンチャの男』として公開されていて、映画は完成しなかったので(多分かなり早い段階で頓挫した)、少しでも興行収入を確保しようと作られたドキュメンタリーだと思うのだけど、何でもドン・キホーテは映画化が企画される度にトラブルが続発(ひどいケースでは監督が死んでしまったり)する「呪われた物語」なのだそうで。Tギリアム&Jデップという組み合わせが『ドン・キホーテ』にはものすごくうってつけだと思う私としては、お粗末なメイキング映像ではどうにも収まらない「観たい!」感が溢れてくるけれど、まあ当面、セルバンテスの原作をちゃんと読むことから始めよう。



『ビートニク』

フィクションではなくルポルタージュ的な映画。私は、ビートニクとはあんまり趣味的に合致するわけじゃない。でも剥き出しな思考の発露という点には魅力を感じないわけでもなくて、シュールレアリズムを経て洗練されてしまう前のビートニクという「傍若無人な独り言」を、「好まないけれど魅力的」だと思う。ジャック・ケルアックを、もう一度ちゃんと読んでみたいな。そう言えばこの映画でも「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」が流れる場面があった。


『dot.the.i(ドット・ジ・アイ)』

チェ・ゲバラの旅を描いたロード・ムーヴィ『モーターサイクル・ダイアリーズ』で私のハートを鷲掴みにした俳優、ガエル・ガルシア・ベルナールの主演作品。DVDのパッケージではあからさまに「エロティック・サスペンス」扱いされていて怯んだのだけど、中盤以降が急激に面白くなって、終わった後で「文句なしの傑作」と私は判定した。エロティックな場面も確かにあるのだけど、それをちゃんと愛の領域として描いていて、見世物として扱うことをきっぱり拒否しているのが良かった。
何よりガエル・ガルシア・ベルナールの個性とあの笑顔の故に、この作品が「エロティック・サスペンス」に堕することは不可能だ(そして、あの狭い部屋で間に合わせのコップに注いだワインの味を、私は確かに知っている)。
日本での「間違ったマーケティング」の一例。もう一度観たい映画のひとつ。


パトリス・ルコント『列車に乗った男』

ルコント監督のたぶん最新作。ルコントは、全般に曖昧で輪郭のつかみ辛い監督なのだけど(極めてフランス人ぽい、と私は思う)、この映画は他の作品より解りやすく明快だった、と思う。主な登場人物が二人だけなので余計に
。ラストはどこまでが現実でどこからが夢想なのかはっきりせず、けれどやはり死は厳然とそこにあって、果たされなかった夢がスクリーン上に描かれた、という印象だった。でも後日、図書館で原作をぱらぱらめくってみると、それは「果たされなかった夢」ではなく「実現した未来」として描かれているようで、未だにどちらなのか判然としない。
劇中、ショパンとシューマンについて語られるシーンが好きだ。私もまた、シューマンよりショパンのほうがずっと耳に心地よいも関わらず、ショパンよりもシューマンのほうが好きなので。

『宇宙兄弟』
これは別に観なくても/書かなくても良かったのだけど(私は小栗旬が苦手だ)、バズ・オルドリン(ニール・アームストロングと一緒にアポロ11号で月に行った宇宙飛行士)が本人役で出演しているという話だったので。スクリーンで観る限り、オルドリンが意外に元気そうだったので何より。もうちょっと派手に正体を明かしても良かったのに(あれじゃいわゆる「カメオ出演」だ、って、いやまさにそうなのか)。


『ククーシュカ ラップランドの妖精』

うーん、この日本語版のサブタイトルはどうにかならんのかね。
第二次大戦末期、フィンランド最北の地ラップランドを舞台にした「女と愛についての男の身勝手な幻想を描いた映画」…というのは斜に構えすぎとしても、いや、観ている間は全然そんな印象はなかったのだけど、しばらく経つと「…しかし、なんかおかしくないか?」と思うわけで。何だか男性が女性に求める理想を目いっぱい詰め込んだような、どうにも腑に落ちない映画だった。
病気だか怪我だかで倒れていたロシアの兵士を先住民サーミ族の女性アンニ(=ククーシュカ)が家に連れて帰って介抱する。そこへフィンランドの狙撃兵が命からがらたどり着く。このフィンランド兵は「投降できないように」とドイツの軍服を着せられていたので、ロシア兵は彼を「ファシストのドイツ野郎」だと思い込む。こうして三人が三人ともお互いの喋る言語を理解しないまま、時に絶望的で時にユーモラスなディスコミュニケーションの日々が始まる…。
4年前に夫が軍に連行されてから一人で暮らしてきたアンニは、先住民族と聞いて我々が思い浮かべる通りの女性だ。トナカイを飼育し、薪や干し草を蓄え、潮の満ち引きを利用して魚を獲り、幻覚作用のある茸を食べてしまったロシア兵にハーブでつくった下剤を与える。彼女は自然の欲求のまま屈託なく相手を求め、若く逞しいフィンランド兵を誘うのだが、アンニを好ましく思っていた中年のロシア兵にはこれが酷い苦痛となる。
まあ物語は紆余曲折あって、結局二人の兵士たちはアンニの家を去るのだけど。
生きものとして充分に自活できる力を持ちながら(つまり「養ってやらねば」という責任を男に負わせることなく)、母として癒し、女として満たし、挙げ句シャーマンとして「魂返し」までやってのけ、最後には妻として子どもを産むアンニ(それも「故郷に帰りたがっている」二人の男を物解り良くきっぱりと送り出した後で)。
それで良いのか? この映画を、「いい話」だと思って良いのか?
何となく割り切れない。

『屋根裏部屋のマリアたち』
1950年くらい(うろ覚え)のパリで、上流階級の家庭にハウスメイドとして雇われている移民のスペイン人女性たちを描いた物語。主人公マリアの雇い主は、二人の息子を持つ裕福な銀行家とその妻。マリアを通じて「屋根裏部屋」で生活するハウスメイドたちの貧しい暮らしぶりを知った銀行家は、マリアに心惹かれていることもあって彼女ら(若いのはマリアくらいで、ほとんどのハウスメイドたちは「歴戦の猛者」といった趣のパワフルな中年女性だ)に同情し何かと心を砕くが、そのうち彼女らの明るく力強い生き方に魅了され、決まり切った日課(サロン、お茶、お喋り)で時間を空費する上流社会の生活(その代表が自分の妻)に疑問を抱くに至る。マリアもまた、これまでの雇い主とは違って自分たちのことを気にかけ大切にしてくれる銀行家に、次第に好意を抱くようになるのだが…。
ユーモラスで楽しい、ハッピーエンドの物語だ。
けれど私がこの映画を「好きな映画」に分類したのは、他のどのシーンよりも「ああ、いいなあ」と思った一場面のためだ。前の古参家政婦がクビにされたあと数日間ほったらかしだった銀行家の家に初めて足を踏み入れたマリアが、家の乱雑ぶりと仕事の多さを見て取るや他のハウスメイドたちに助けを求め、彼女らがすぐさま駆けつけて、皆してラジオの音楽に合わせて歌ったり踊ったり喋ったり笑ったりしながら掃除や洗濯や洗い物を実にてきぱきと片付けてゆく、その場面。
こんな風に、手際良く尚且つ楽しげに働く姿、私はとても好きだ。
「生きる歓び」にいちばん近いのが、そういう仕事だと思うから。


『酔いどれ詩人になる前に』

酔いどれ詩人ことチャールズ・ブコウスキーが作家として世に出る以前の日々を、自伝を元に映画化した作品。私はブコウスキーはどちらかというと苦手だけど、リリ・テイラーが出てたので。顔立ちは綺麗でも決まり切った表情しか浮かべないアンドロイドみたいな俳優が私は嫌いで、その対局にいるのがリリ・テイラーだと思う。そしてこの映画でも、彼女はやっぱり素晴らしかった。
※後日リリ・テイラーが出ているロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』も観たけど、こちらは趣味的に合わなかったので残念。


ウォン・カーウァイ『マイ・ブルーベリー・ナイツ』

こんな気恥ずかしいくらいの王道恋愛映画を観たのはもちろん、昔ウォン・カーウァイが大好きだったから。つまりこれは香港映画の旗手、『恋する惑星』『天使の涙』のカーウァイ監督のハリウッド進出作で、カーウァイらしさ(ごちゃごちゃした猥雑さと風変わりで傷つきやすい恋愛と)を適度に薄めて口当たり良くした感じの映画だった。キャストはノラ・ジョーンズにジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン。うーん、それぞれ好演してるのに何故か違和感満載。一生懸命に金城武をやろうとしてるジュード・ロウの好感度は跳ね上がったけど、やっぱり香港のドーナツ屋か何かで金城武に演って欲しい役だった)。
…香港バージョンが観たいなあ。


総括として。
自分の好きな映画、というのが既にある程度固まってしまっていて、なかなか新しい作品に手を出しにくい。それでも「食に関する映画はあんまり外さない」というのが解ってきて、ここには書いてないのだけど『パリのレストラン』(とあるレストランが閉店の夜に身内の解散パーティをやるのだけど、そこで描かれる人間模様がまた一筋縄では行かなくて、一度観ただけじゃ全体を把握できないほどの豊饒な物語になっている)とか、『マーサの幸せレシピ』(この陳腐なタイトルがもうちょっとどうにかならなかったのかと、しばし悶々とするほどいい映画だった)とか、テンポ良くスタイリッシュな印象が強く残っていて筋書きを覚えていない『ディナーラッシュ』とか、もう一度観たいな、と思う映画が多い。あとちょっとがしゃがしゃしすぎていたけど頑固なシェフ役が光っていた『ソウルキッチン』(これは、監督の名前を覚えておこうと思ったのだけどどうやら私も歳を取って物覚えが悪くなったらしい。多分ファティ何とかという「若手の注目株」的な監督の作品)も。

まだまだ書き切れないのだけど、今日はひとまずこの辺で。
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