la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
失われることのない時の狭間で
「ねえきみ、空がきみにとっていつまでも青くありますように。」
(『失われた時を求めて』/マルセル・プルースト)


無数の「記憶の絵画」のひとつずつが、丁寧に取り上げられては言葉で語り直される。時間は既に切り取られ静止しているはずなのだけれど、それらの一場面ずつが言葉の力で再び生命を吹き込まれ、束の間、鮮やかに息づく。肖像画(「スワン氏の肖像」「薔薇色のドレスの貴婦人」)、風景画(「サン=ティレールの尖塔」「タンソンヴィルの午後」)、戯画(「ウーラリとフランソワーズ」「アドルフ叔父の逢瀬」)、静物画(「木苺とサクランボのある食卓」「祭壇のサンザシ」)。これらの絵画が純粋に言葉だけで語られ、言葉のみの力によって解き放たれる。

季節の空気、陽射しや色彩や匂いや温度や湿度までもが、魔法のように立ち現われては消えてゆく。それは読み手である私が見たことのないはずの風景、聞いたことのないはずの音、つまり、覚えているはずのない記憶だ。
それでも、気紛れに再生されるそれら無数の過去の断片は、ひどく慕わしく、懐かしい。

きっと、これは忘れられない読書体験になる。
一巻目の半ばでそう思った。
これから、ゆっくり大事に読もう。
そしてどこか途中の一冊を、湖の上で読めたら素敵だな。
追記。
「空がきみにとっていつまでも青くありますように。」
これは少年時代の語り手に向かって、語り手一家の知人である技師ルグランダン氏が言った言葉。彼は結局ただのスノッブであることが判明して私はひどくがっかりしたのだけれど、この感傷的で耳触りの良い祈りを、その感傷と耳触りの良さ故に、そしてその曖昧さ故に(世界のすべての平和と善良さと幸福とを含んでしまうが故に)、私はこれから自分の祈りとして唱えようと思った。
もちろん、面と向かって誰かに言いはしないけれど。

ふとした一瞬が無限に引き延ばされているような文章になかなか同期できなかったのは、本を読むための時間が細切れにしか取れなかったから。それでも早々にやめてしまわなかったのは、単に、食べもののことが頻繁に出て来たからだ(有名なマドレーヌ以外にも、田舎ふうのリーフパイ、菩提樹のお茶、ヴィシー水、毎週土曜日に市場へ出掛けては「天才的な腕をふるった」古参の家政婦フランソワーズの料理の数々。それは「あたかも十三世紀に大聖堂の正面玄関に刻まれた四つ葉模様のように、季節の移りゆくリズムと生活のなかに起こった挿話とをいくぶん反映」していた…)。
「羊の腿の焼肉」という何の形容詞も持たない数語さえ、目眩を覚えるほど美味しそうに読める(ちょうど「ミノスとパジファエの娘」という一節について書かれていることと同じ…だと私は思うのだけど、違うかも)。

今のところ、この「気高く、理解されていない、非常に古いフランスの過去」を内に抱く(料理上手で頑固な)フランソワーズに、私は最も魅了されている。アドルフ叔父も好きなタイプだし(ジョージ・クルーニーに演じて欲しい、なんて怒られるかしらん)、スワン氏のことももっと知りたい。

ちなみに手元にあるのは鈴木道彦訳の集英社文庫版、第一篇「スワン家の方へⅠ」。前のコメントで「全七巻」と書いたのは間違いで、正しくは「全七篇」だった。文庫版だと冊数は七冊どころかもっとすっと多くなるはずで、私はまたしても「置くとこ無い!」という窮地に陥っている。
十冊弱が並んでいるのをブックオフで見つけて、一巻目を私が買ってしまえば二巻目から買う人はまず居るまい(面白そうだったらそのうち続きを買いに来ればいいや)、と思っていたのだけど、今日続きを買いに行ったら三巻目からの数冊が売れてしまっていてびっくりした。
世の中、意外に本を読む人が多いのね。

さらなる追記。
すっかりお馴染みになった「古本の神様」がプルーストと同時に私に下されたのは、セルバンテス(もちろん『ドン・キホーテ』)だった。つまり両者を並行して読むという、あまり褒められたものではない読書生活を私は送っている。序盤はセルバンテスの方が圧倒的に面白かったのだけど(というかプルーストが「ママンがおやすみのキスをしに来てくれない」なぞとマザコン全開でぐだぐだゴネていたので)、いつの間にか私はごく私的なプルーストの世界に同期し、そのリズムに馴染みつつある。
なので当分セルバンテスは脇に置いておいて、プルーストに専念するつもり。
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