la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
真夜中の幸福論(素面バージョン)
「ポキンと折れてしまう前に、曲がってしまいましょう。」
(前の職場を辞めたとき先輩がくれたアドバイス。未だに実践できない。)


まずはジャック・ケルアックに倣って、「現代詩」ならぬ「幸福」の技法を幾つか(ただしごく個人的なもので、決して普遍的なものではありません)。
・人に優しく。
・自分に優しく。
・頑なに思いつめない。
・自分の瑕疵を笑って受け入れる。
・譲れないことのために傷を負うのは、それはそれで仕方ない、と思うこと。
・傷ついた時は、おとなしく巣穴に籠って傷が癒えるのを待つこと。
・あまり酔っぱらわない。
・季節の移ろいを肌で感じ、それを呼吸し、愛すること。
・秘密の砂糖菓子を、こっそりたくわえること(食べるときは分量に気をつけること)。

さて、本題。
幸福と不幸のベクトルは、どうも等しくはないらしい。
一本の紐を左右から引き合っているのでもないらしい。
だから不幸でありながら同時に幸福であることも、幸福でありながら同時に不幸であることも、充分、可能なのだ。

幸せに「なる」、という言いかたに私は常々嫌悪に近い不信を抱いていて、というのも「幸せ」というのは別に、ある時点からずっと続いてゆくことが保証されるものではないからだ。だから厳密には、幸せになる、ではなく幸せであり続ける、と言うべきで、幸せになりたい、ではなく幸せであり続けたい、と言うべきなのだ。
言い換えてみるとどことなく欲深いような、「それってけっこうハードル高いよね」という響きになるのは、意図したわけではないけれど興味深い。「幸福という状態の維持」が実はけっこうハードルの高いものなのだ、という認識は、とても大切なのじゃないかと思う。

不幸は、どちらかというと幸福よりも持続性が強く、連鎖したり伝染したりする力も強い(ように思える)。おまけに人を弱らせる瘴気のようなものまで持っている(不幸を乗り越えることで結果的に強くなる人もいるにはいるけれど、だからと言って私は「人は強くなるために不幸を経験すべきだ」とは思わない。叩いて鍛えるというのは人が剣に対してやる行為、つまり軍隊における兵士の鍛錬であって、それで兵士の身につくのは生きるための強さではなく殺すための強さなのだ、そして両者がイコールになってしまうような場を、私はどんな意味であれ肯定する気はない)。
けれど、バルブ・ニコル・ポンサルダンに言わせれば、「人はいつまでも不幸でいられるものではない」。つまり不幸についても幸福の場合とまったく同じことが言えて、不幸になること、ではなくて不幸であり続けること、つまり「不幸という状態の維持」もまた、実はけっこうハードルの高いものなのだ。

物語が、「完」とか「どっとはらい」とかいう風に断ち切られて初めてハッピーエンドかそうでないかを判断されるように、幸福や不幸は、結局「終わり」つまり「死」が訪れて初めて可能になる人生の総括、みたいなものだ(中には歌劇『ドン・ジョヴァンニ』のように幕が下りても喜劇だか悲劇だか判然としない物語もある。私は「幕が下りた時点で登場人物たちがほとんど誰も幸福でない」という点で「これは悲劇だ」と判断するけれど、友人は「石像がいきなり喋り出して主人公を地獄へ引きずり込むなんて、観ている側はもう笑うしかない」という点で「これは喜劇だ」と判断している。或いは「喜劇的悲劇」なのか「悲劇的喜劇」なのか、ご意見お待ちしてます)。だから今この瞬間とかここ数日(数年)とかを「幸福だ」「不幸だ」と言うことはできても、ある時点から「幸せになった」とか「不幸になった」とか言うことは、生きている限りぜったい、誰にもできない。

ところで最近の私は、そこそこ幸福で、そこそこ不幸。
それなりに満足で、それなりに不満。
どちらにも、さほどこだわらずにいられるのが、今とても幸せ。

生きることは世界の肯定に他ならない。幾らかの躊躇と幾つかの留保つきで、迷った挙句に何度も、私は選ぶ。
世界を肯定することを。
そして、生きることを。
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