la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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与えられたものと培ってきたもの、そして守ってゆくもの
「君は三十を過ぎてから魅力的になるタイプだ」
(うろ覚え、キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』だかその続編の『ドラキュラ戦記』で、チャールズ・ボウルガードが新聞記者のケイトに言った台詞、だったと思う)


「パッケージ」という表現がいちばん相応しい。
人間の顔立ちとか骨格とか、持って生まれた外見について。
はっきりと否定的な意味で、それはお仕着せの「ラッピング」みたいなものだと私は思う。

先日、仕事帰りに焼き鳥屋さんで飲んでいた時のこと。
私の職場というのはけっこうな田舎にあって、天然酵母のハードパンを焼くパン屋さんがオープンしたと思ったら開店半年で「ふわふわパン」に転向してしまうようなガッカリな土地柄なのだけど、この焼き鳥屋さんはメニューも内装もそこそこ垢抜けていて、まともな食材を使っていてちゃんと美味しくて気さくなサービスも嬉しい、という稀有なお店だ(赤ワインのボトルが冷え冷えで出て来たのは減点だったけど、混み合ってたのにクラッカーとチーズとポーク・パテをサービスしてくれたので帳消し)。

って話が逸れたけど。
その焼き鳥屋さんで、私は後輩から「男を手玉に取って楽して生きればいいんですよ」というようなことを言われたのだ。若干ムッとして「そんな生き方、ぜんぜん憧れてない」と答えたのだけど、もちろん彼女はちょっとした冗談として言っただけ、それから私が今「モテ期」にあると伝えたかっただけらしい。
うーん、この歳になって今さら「モテ期」とは。
嬉しいかって? いや微妙、というかはっきり言って、嬉しくない。
だって、どうせ被った猫がモテているだけだと解っているのだ。

頼むから、私の「羊的パッケージ」に勝手な妄想を重ねるのはやめてくれ。
そして私が料理好きだからといって「家庭的な女」にカテゴライズするのはやめてくれ。
とは言っても、この猫は私の「防具」でもあるので、被るのをすっかりやめてしまうには相応の勇気と覚悟が要る…。

ところで子供の頃、私は自分の顔が大嫌いだった。心底、なんで私はこんな顔なんだろうと思って悩んでいた。小学校の中学年くらいの頃、卒業生の寄贈だとかで校舎の階段の踊り場に等身大の鏡が設置されたのをよく覚えている。以来、階段を上り下りするたびに自分の寄る辺なさそうな、情けなく不安げな顔がちらりとこちらを見返すのが、とても腹立たしかった。
親の知人などに「かわいらしいお嬢さん」だと言われても、自分では自分のことを正真正銘の「ブス」だと思っていたのだから、「ああ大人ってどうしてこんな見え透いた嘘を言うんだろう」と、愛想笑いのひとつもせずに人間不信を募らせるばかりの子供だった。

本来、子供は成長するにつれて自分の性質と周囲とのバランスの取りかたを覚え、だいたい十代の半ばくらいまでには安定した「自分らしさ」を確立するものだと思う。けれど私には、なかなかそれができなかった。

今でさえ、それができているのかどうか確信は持てない。
この羊的パッケージに抗う狼の性質と、どこまでも羊的な羊の性質が、どちらも私の中には存在している。
果たして私は羊の皮を被った狼なのか、羊の皮を被った狼の皮を被った羊なのか、羊の皮を被った狼の皮を被った羊の皮を被った狼なのか、未だに判然としない。

けれどひとつだけ、羊も狼もひっくるめて「これが私だ」と言えるものがある。
それは、私の部屋の本棚だ。
狭い部屋にひとつきりの小さな本棚。既に容量オーバーでぎちぎちになっている。
ことあるごとに間引いてブックオフに売ったり捨てたりしてきたせいで今やすっかり選び抜かれた「精鋭揃い」になってしまい、これ以上は間引けないところまで来ている。

でも、ここにある本が私を育てて来た。
何度も手に取り、何度も読み返してきた本たち。
パッケージがどうあれ、羊や狼がどうあれ、私の「本質」はこの本棚にある本によって培われてきたのだ。

サン=テグジュペリ、ドストエフスキー、エミリ・ディキンソン、アルチュール・ランボー、チェーホフ、トルストイ、トーマス・マン、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、P.G.ウッドハウス、リチャード・ブローティガン、神林長平、大原まり子、G.A.エフィンジャー、ウィリアム・ギブスン、丸山眞男、保坂和志、堀江敏幸、梨木香歩、山尾悠子、吉野朔美、三原順、ゆうきまさみ、曽田正人。
書き切れないうえに脈絡があるのかないのかよく解らないけれど、私にとっての「精鋭」たちが、この本棚には揃っている。

年齢を重ねるということは、「与えられた」パッケージをどう変化させるか、ということだ。だから、私は歳を取ることを厭わない。それは「与えられたもの」より自分自身が「培ってきたもの」を試されるようになることだからだ。

もし今、ここに来て私自身が「培ってきたもの」、そしてこれからも「守ってゆくもの」が誰かに愛されるなら、そんな幸せなことはない、と思うのだけれど。
けれど当面、まだ私の「与えられたもの」が私の本質を歪めているという思いはどうしようもなくここにあって、それ故に、私は今の自分が「愛される」ことには耐えられそうもない。

だからどうか、目に見える幸福を選ばない私を、心配しないでください。
傲慢な物言いかもしれませんが、私には、今ここでそういう幸福を選べない理由が、はっきりとあるので。
そして、私は私だけの価値判断で、自分が今「幸福」なのだと万人に対して請け合うことができるので。
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