la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
2013年、非現実化する現実の前で
「(a) だれにでもいかなることでも起こりうる。/そして/(b)心してそれにそなえよ。」
(『小さきものたちの神』/アルンダティ・ロイ)


非現実化する現実、というのは、決して戦争のゲーム化を憂えての話ではない。戦争がゲーム化していることに対して、そのこと自体を憂える必要はないのだ。というのも権力が戦争を望んだとき、どんな形であれ虐殺は起こる。その場合、人が殺されるという事実はそこに厳然とあって、それを既に権力が肯定してしまっているのだから、何もそれ以上に、たとえば標的にされた町が焦土と化したり罪もない人々が不特定多数として虐殺されたりする以上に、徴兵され前線へ駆り出された自国の前途ある若者たちが心的外傷によって再起不能になる必要はない、というわけだ。

だから、銃剣で生身の人間を突き刺すことを強要するよりは、モニタに映る赤い点に照準を合わせてコントローラのスイッチを押させるほうが、その当人と権力側の罪悪感も軽減されるというもの。よりいっそう、戦争が肯定されやすいというもの。

それは解る。とてもよく、理解できてしまう。
ただ私が憂えるのは、権力が戦争を肯定することそのものなのだ。

過日の選挙で自民党が圧勝したことは、「民意」=「国民の自民党への支持」を表してはいない。ただひたすら、「民意」=「政治になんて興味ないんだよ」を表している。選挙に行かなかった理由、或いは自民党に投票した理由を、周囲の人に訊いてみれば明らかだろう。

私とて、投票後にフリーライターの森まゆみ氏のブログを見て、「ボートマッチ」なるものの存在を知った。vote mach、自分の考え方と一致する政党(自分の政治的思想と一致する議員がその政党に何割いるか)を試算してくれる、WEB上のシミュレーション。
遊び半分にやってみたところ、普段なら投票するはずだった政党から高い数字が返ってきたのはまあ当然なのだけど(ここが当て外れだったらよほど勉強不足というものだ)、過日に自分が投票したのは愚かしくも別の政党で、一致の割合は4割を切っていた。

言い訳をすると今回の選挙では、私は原発に対する意思決定が最優先だと思っていたのだ。だから、とにかく原発にして最も一途な意思表示をしていた政党に一票を投じた。
それが蓋を開けてみたら、圧勝した自民が早々に打ち出したのは「改憲」。

そう、憲法さえ改正してしまえば、日本にも「戦争」ができる。
戦争ができれば、特需で経済も潤う。
どこかの原発が爆撃されてどこかの県が人為的に汚染されてどこかの一帯が死の領域になっても、経済さえ潤えば「残った」日本人は立ち直れる。
「勝ち組が勝てればそれでいい」。
そんなシナリオを読んでしまうのは、果たして被害妄想だろうか。

これが「民意」なんだとしたら、日本人は相当に馬鹿だ。とは言え、そもそも選挙の争点を見誤っていた私も、相当に馬鹿だったということは認める。けれど、この選挙は過去最高レベルで馬鹿げた結果になった。

きっと「民意」の示し方を知らない日本人が多すぎるんだろう。

これが「民意」だ、と言われる度に、私はどうしようもなく腹が立つ。
もし本当にこれが民意なら、私は民ではないのだろう。
きっと「国民ではない」=「非国民」だ。
けれど、もしこれが本当に「民意」なら、私は自分が「非国民」であることを誇りに思う。

そう、生憎、私は「日本国民」であることに誇りも何も感じない。日本の気候風土や自分の住んでいる土地に対する愛着は持っているし、日本という国家のありかたについてあれこれ思案したり憂慮したりもするので、無関心な大多数の人よりはよほど国のことを考えているとは思うのだけど、国家を権力と同義に捕らえた途端、そういう思いは嫌悪に変わってしまうのだ。

さて、ようやく引用した言葉に触れるけれど、これは2013年の私の座右の銘だ。
アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』は、インドの因習的な田舎を舞台に、その因習のゆえに運命を狂わされてゆく双子の悲劇を描いた物語。

いつもながら、縁起の良い引用でないことは解っている。
これは多数派である過ちに対して少数派である正しさを貫くということが、決して幸福とは結びつかない社会の物語だからだ。カースト制度は廃止されてなお絶対的価値観を後世に残し(ヒトラー政権下でユダヤ人虐殺に加担した母親が、戦争終結後、年老いてなお「私は間違ったことはしていない」と語るヘルガ・シュナイダーの手記『黙って行かせて』を彷彿とさせる)、その禁忌を破った者には容赦のない制裁が加えられる。この物語は、その制裁を「容赦なく」描くことで、そのことの過ちを糾弾しているのだ。

読後感が陰鬱でないのは、決して著者の乾いたユーモアや淡々とした語り口のためではない(解説にはそう書かれていたが)。読者の主観が圧殺される側の意志や闘志に共感するからだ。

積み重ねられてきた歴史の中では、正しさが突き詰められ純化されることは、決まって権力の定義した正しさのみが絶対化される独裁の悪夢に結びついてきた。この物語で語られるインドの数世代の物語も、まさにそのことを描いている。けれど、読み手が共感するのはその権力の側ではなく、圧殺されたマイノリティの主義信条のほうなのだ。

たとえば基地を沖縄に押しつけて平和を保っている本土は、沖縄が焦土と化しても本土の経済が潤うならそれで良しとするだろう。

けれど。正しくあろうとする意志は、そう簡単に消え去るものではない。

新年、私は毎年の恒例行事と化している「びわこ詣で」に行ってきた。元旦には浮御堂の近く、ゆりかもめの浮かぶ湖面が穏やかな冬の陽射しに輝くのを眺め、そのゆりかもめたちが互いに交わす声のない声に耳を傾け、一羽一羽が何かの信号を受け取って/送って羽ばたくのを眺め、二日には護岸工事で無惨に削り取られた真野川の河口を眺め、そこに水鳥の一羽さえ見当たらないのを眺め、春になったらここからカヤックを出そう、と思っていた当てが外れたのを悟った。

合理的であることは、非情なことだ。

当て外れの多いのは私の人生の常として受け入れるとして、それにしても、不穏すぎる。
あまりにも、目的が的外れだ。

新しい命が身近で誕生するのに出会うたび、私は祈らずにはいられない。

この子たちに希望がありますように、と。

生きる歓びを、全身で感じる時がありますように、と。
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