la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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キリエ・エレイソン
「憐れみたまえ、わが神よ、したたり落つるわが涙のゆえに。」
(J.S.バッハ『マタイ受難曲』より、アルトとヴァイオリン・ソロによるアリアの一節)


前述の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが遺作『サクリファイス』の冒頭に使った、美しくも悲痛なアリア。
いま聴いているのはカール・リヒター指揮の、1958年にミュンヘンで録音されたもの(フィッシャー=ディースカウがバスを歌っている)で、何故持っているのかは覚えてないけど何度聴いたかわからないくらいよく聴いているCDだ。

このアリアは、本当に美しい。
リーフレットをまじまじ読んだところでは「シチリアーナ舞曲のような曲想をもち、通奏低音のピチカートに、涙のしたたりが形象化されている」のだそうで、そう思って聴くと確かに、弦を弾くピッツィカートが鈍い水滴の音に聴こえる。
そして「アルトとヴァイオリンが歌い合って進むうち、人間の弱さへの痛みはいつしか、深い慰めへと変わってゆく」。

これがバッハ。これが『マタイ受難曲』。
私の知る限りにおいて、最も「神」に近い音楽だ。

武満徹は『サクリファイス』の試写を観て、冒頭でこのアリアが流れるのを聴いた時にドキッとした、と語っている。そして、タルコフスキーが自らの死を予感していたと思うか、とのインタビュアーの問いを、迷わず肯定している。まさしく新聞にタルコフスキーの訃報が載ったは、その試写会のわずか二日後のことだった…。

もちろん私がこんなことを書いているのも昨日、京都みなみ会館での『鏡』の上映を観に行ったからなのだけど、まだこれから『ノスタルジア』と『サクリファイス』を観る予定があるので、当分、タルコフスキーにまつわる物思いは尽きそうもない。

『惑星ソラリス』ではSFの枠組みを越えたところで人間の心理を見つめ、映画からSF的な装置を排除できなかったことを悔やむタルコフスキー(これは原作者レムの意向があったため)。
『鏡』はやはりどうしようもなく眠りを誘う映画だったけれど、記憶にあったはずの鮮烈なシーン(ガラスのカラフェに入ったミルクがスローモーションで板張りの床にぶちまけられる)がまったく存在していなかったことに驚いた(思えば当然だ、タルコフスキーはスローモーションなんて技法は使わない)。

この静謐さ、この緻密さ、この考え抜かれた一瞬。
タルコフスキーはどこまでもバッハ的だ。
いや、もしかすると、バッハがどこまでもタルコフスキー的なのか。
ただひとつだけ違っているのは、タルコフスキーの映画に観られる痛切な「怒り」が、バッハの音楽には欠片も見当たらないことだろう。

死を予感したとき、タルコフスキーが遺したのは「人間の弱さへの痛み」だった。そして、それがバッハの音楽とともに「いつしか、深い慰めへと変わってゆく」のを、私は観る。
というよりは『マタイ受難曲』を聴きながら、『鏡』の余韻に浸りながら、「人間の弱さへの痛み」と「深い慰め」との間を、行きつ戻りつしているのかもしれない。
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