la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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陽気な狂気の行きつくところ
「実際にはおまえたちが押しつけようとしているときに、私を説得しているなどとは思ってほしくないね。」
(『耳ラッパ』/レオノーラ・キャリントン)


まずは原語の「ヒアリング・トランペット」を「耳ラッパ」と訳した野中雅代氏に、長い拍手を。

さて、主人公マリアンは御歳92歳。息子夫婦と末の孫と一緒に暮らしているが、ある時、親友のカルメラから「耳ラッパ」なる贈り物をもらう。これを耳にあてると、すっかり遠くなってしまった彼女の耳にも周囲の話声や物音がはっきり聞こえるのだ。
そこでさっそく(カルメラに唆されて)家族の会話を盗み聞きしてみると、彼らは何とマリアンを「施設」へ入所させる相談をしている。

もしやこれは気の滅入る家庭争議小説か、それとも虐げられた老婆の恨みごと日記か、悪くすると非人道的な施設への告発本か、と怯んでしまうのだけど、そんな心配は無用だった。

とことん暴走する妄想癖の持ち主・カルメラのキャラクターが破格だ。マリアンの施設行きを知った彼女は、11階に閉じ込められたら長いロープを伝って逃げろとか、機関銃を調達して助けに行くとか、40匹の警察犬が追い掛けてきても「犬の群れは格好の標的よ」とか言う。変装(それも昔の牧童に!)して面会に行く計画を立てたり、窓に鉄格子があった時のためにこっそり小さなやすりを差し入れたりする。

実際には、マリアンが入所した施設“同胞愛の光の泉”はカルメラの妄想ほどひどい施設ではない。ただ、どこかしら絵本の中に迷い込んだような、奇妙な非現実感がつきまとう。それから経営者たる精神科医が魂の救済のためと称して的外れな規則を押しつけてきたり、同じものを食べているはずなのに肥満している入所者がいたりする。

そんな展開だったから、物語が途中でいきなり中世へ“跳んだ”時には面喰った。
妄想が、あり得ないやりかたで現実と交わったのだ。
施設の食堂に飾られた、謎めいた尼僧院長の肖像画がその鍵。
尼僧院長の聖杯探求や異端の儀式が語られる挿話は、すぐに老女たちの生活と結び付けられることはない。もしや耳ラッパが聖杯だったりするのだろうか、と思ってしまったりもするのだけど、そんなこともない。

すべてが収斂する「点」は聖杯でも耳ラッパでもなく、「自由のための闘争」だ。
ここでは異端が断罪されることなく、むしろ闘争そのものと重ね合わされる。どう見ても火あぶり確定の尼僧院長(敬虔なクリスチャンなら真っ青になって十字を切るなり卒倒してしまうような異端者ぶりだ)も、マリアンに言わせれば「いずれにしろ並外れた女性だったに違いない」。

つまり、ここで語られているのは「何が正しく何が間違っているのか」ということではなく、異端を罪として問答無用に弾圧したキリスト教の“権力”批判であり、引いては個人の精神を馬鹿げた理屈で矯正しようとする精神分析の“権力”批判なのだ。

もちろん、傍目には「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」の物語でしかない。
物語として厚みのあるほうではないし、周到な仕掛けがあるわけでも技巧が凝らされているわけでもない。
けれど、「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」にしかできない闘争と、「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」にしか語れない言葉が、そこにはあった。

天晴な力技(特に終盤、秘教的な世界観をためらいなく祝祭のイメージとして迸らせるくだり)。

風変わりで、突拍子もなくて、そして力強く晴れやかな物語だった。
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