la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
仕事と、仕事と、仕事の日々
「詩人は自分の存在を正当化しなくてもいいんだよ」
(ハーバート・R・ロットマン/『マン・レイ 写真と恋とカフェの日々』より、「政治に首を突っ込」んだポール・エリュアールに向かってマン・レイが言った言葉)

世の人の誰も彼もが自分を正当化しようと躍起になるのは、これはもう人間の習い性のようなものだ。数十年来ビジネス書の定番になっているという本に、犯罪者ですら「これは悪いことだ」と自覚しながら罪を犯す者はいない、と書かれていて、少々言葉足らずではあるものの、罪と言うのはたとえば何かに対する報復なのだとか自分が少しくらい余計に金を儲けたって何ほどのことがあるのかとか、いじめにしても「あいつがムカつく態度をとるから悪いんだ」とか、そういう何らかの「正当化」のプロセス=つまり「いいわけ」があって初めて行われる、という意味だと思う。

詩人は自分の存在を正当化しなくてもいい。
これは実は「ものすごいこと」で、自分の存在を正当化することなく生きてゆける生きものは、自己に対するあらゆる世評を無視していられる。他者の価値観を超越していられる。それに、自分を正当化するために他者を非難する必要もない。

つまり、詩人は自由でいていいのだ、ということ(ただし、これを「悪に走ってもいい」というのと同義に捉えるのは間違っている)。

自由でいること、自分を正当化しなくてもいいこと、何ものにも縛られずに生きること。
けれど自由であることは、どうしても、孤独であることと分かちがたく結びつく。

「自分を正当化しなくてもいい」と言われたエリュアールが、自分にそう言ったマン・レイに(後になって)告げたのは、「自分は(政治的活動において)必要とされているのだ」という言葉だった。結局エリュアールはその後も頑なに政治に係わり続け(というか政治活動にのめり込み)、後年マン・レイに「純真さが仇となった」と言わせることになる。つまりこの詩人は、自分の存在を正当化しなくてもいい詩人の世界に生きるより、自分の存在を必要とする、何やかやと雁字搦めな政治の世界に生きることを選んだのだ。

一方のマン・レイは、写真家としての名声を手にしながら終生、画家でありたいと願い続けた。この“パリのアメリカ人”はどんな派閥にも属さず、それでいてあらゆる派閥と関係し、あらゆる会合に顔を出し、誰からもそこそこ歓迎され、知り合いでない人はいないとまで言われた快活で社交的な人物。ポートレイトを撮るのに、これ以上適した人物が他にいるだろうか。エリュアールに対するこの言葉にしても、現実を現実よりいっそう限定的に、鮮やかに写し取る「写真」の感覚がはっきり表れている。

そう、確かにマン・レイは「写真家」であり、ポール・エリュアールは「詩人」であった。けれど二人とも、それらの魂を完全には容れなかったのだ。

ひねくれ者の天才たち。

ともあれ、マン・レイのガイドによるモンパルナス周遊。
「アングルのヴァイオリン」の写真でしか知らなかった“噂の”キキにも会えたし、いけすかないブルトンや奇天烈なダリはさておいて憧れのマルセル・デュシャンにも会えたし(私はデュシャンの作品よりもデュシャンの顔が大好きだ)、しかもデュシャンがマン・レイとよくチェスをしていたことも知って(デュシャンの腕前はプロ並みだった!)、何だか充実した休暇を過ごしたような気分だ。

追記。旅心の騒ぐこの季節、仕事仕事の幕開けだけれど、私の魂は相変わらず放し飼い。モンパルナスにだって行っちゃいます。数日前には朝から頭の中でグノーのアヴェ・マリアが鳴り響くという怪異が起きて(啓示か? 啓示なのか!?)、ついに自分で歌えるようになっちゃいました。シンプルながらもラテン語ですよ、ラテン語(って、もちろん楽譜眺めつつ練習したんですが。そして高音のG以上は声出ませんが)。
うーん、いったい何をやってるんだか(いい歳してね、まったく)。
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