la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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みたび、生きることの再確認
「私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
(『グスコーブドリの伝記』宮沢賢治)


宮沢賢治を読んでいる。
厳密には、再読している。
『春と修羅』は冒頭を暗誦できるくらいに好きなのだけど、何故か、宮沢賢治が好きだ、と人に言うのはちょっとこそばゆい感じがして、なかなか表明できずにきた。
どうして、宮沢賢治を好きだと言うのがこそばゆいのだろう。

思えば私も昔、「晴耕雨読」というのは勤勉さを表す四字熟語だ、と勘違いするのと同じような勘違いを、宮沢賢治に対してしていた(「宮沢賢治」というのは田舎くさく純朴で説教じみた童話や詩を書く人だ、という)。『春と修羅』を一読すればわかるのだけど、本当は、かなりの鮮烈な詩情と激情を秘めた人なのに。

たとえば、あまりにも有名な『銀河鉄道の夜』のカムパネルラの言葉「みんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」。普通、何て立派な少年なんだろう、と人は思うかもしれない。崇高な自己犠牲の精神、無私の境地。けれど、本当のことを言えば、カムパネルラのからだを百ぺん灼いたとしても、みんなの幸を購うにはまったく足りないのだ。現実には、ただひとりの人間の命が、そのひとりを除くすべての人間の幸福を購うことはできない。私は確信を持って言うのだけれど、宮沢賢治はそのことをはっきり理解していた。人の命の軽さと重さとを、よく解っていた。だから、崇高な自己犠牲としてではなく絶望とほとんど同義の慨嘆として、或いは報いられることのない叫びとして、この言葉を書いたのだ。

グスコーブドリは迫りくる飢饉から人々を救うために、火山の爆発を誘引する。最後のひとりはどうしても逃げられないというその計画の、最後のひとりであることを選ぶ。まさにカムパネルラが夢見たことを、グスコーブドリは実現したのだ(その意味で、私は『銀河鉄道の夜』よりも『グスコーブドリの伝記』のほうが好きだ)。もしそうすることで他の人たちが幸福になるのならば、この物語は掛け値なしのハッピーエンドの物語として(私には)読める。何よりグスコーブドリは誰かのために強制されて犠牲となったのではなく、人が止めるのにも耳を貸さずに彼自身の望みを叶えたのだから。

宮沢賢治の理想であり、憧れであり、届くことのない祈りとしての『グスコーブドリの伝記』。人に自己犠牲を強いるための権力の小道具にもなりかねない物語ではあるけれど、それを避けるための布石もちゃんと打たれている。そして私もまた、多くの人の無事を購える命を持ったグスコーブドリに、憧れと届かない祈りとを抱く。

つまりこういうことだ。私が自分の命を犠牲にしても、誰も幸福にならない、ということ。
もしかすると、だから私は生きているのかもしれない。
それに、もしかすると、私が生きていることで、誰かを幸福にすることはあるかもしれないから。
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