la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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右であれ左であれ、非核!
「世界で唯一の被爆国だからこそ、3度目の被爆を避けるため、核を持つ資格があるはずだ」(小林よしのり『ゴー宣、暫』)

AIRというミュージシャンがいる。政治的なメッセージを臆することなく歌詞にする、今の日本のメジャーシーンにおいては稀有な人だ。ただ、何となくメッセージをうまく音楽に乗せられないでいて、ラップもどきとか単調なフレーズの繰り返しとかでどうしても聴き手を選ぶ楽曲になってしまっているのだけど(だって、「なぜそんなに生命の秩序乱す?」なんて日本語で歌うのにどんな旋律が適しているというのだ)。そのせいで、1996年頃までやっていたユニット(スパイラルライフ)の洗練された楽曲のイメージからはかなり離れたところに今いて、私は今のAIRの歌が好きだとは言えなくなってしまったのだけど、問題にしたいのは私の趣味ではなくて大衆に向けて発信されるメッセージの画一化ということだ。

何故みんな、恋愛をしか歌わないのか? 

答えは簡単だ。大衆がそれを望んでいるから。そしてもしかすると、権力がそれを望んでいるから。

若者の右傾化ということが言われ出して久しいけれど、果たして今の「彼ら」は「右傾化している」のだろうか。もちろん、そういう若者もいる。けれど、そういう若者が多数派かというと、決してそうではないような気がとてもするのだ。私には、大多数の「右派」の若者が単に、自己肯定の言論を欲しているだけのように思える。
彼らは自己を肯定したがっている。個人レベルで満たされないその渇望が、彼らをして国家や民族といった集団に自己を帰結させ、結果、集団レベルでの自己肯定の言論が飛び交うことになる。それを、我々は安直に「右傾化」と呼んでしまっているのではないか。

そんな危ういやりかたで何とか自分のアイデンティティを「正当なもの」に保とうとする彼らの努力を、悲痛な、と呼ぶことは恐らく間違っていないのだろう。自己肯定の場がないからなのか、それとも、自己肯定に慣れすぎて少しでもそれを脅かす言論に対して過剰な拒否反応を示しているのか、そのどちらなのかという判断は私にはつかないけれど。

ただ、彼らの(救済としての)自己肯定の物語は、そっくりそのまま他者を否定する性格を持っている。そう、私が問題にしたいのはそこなのだ、つまり、肯定された自己の内部における否定された他者の不在あるいは意識的な排除(英訳せよって言われたら私はできない、この文章)。

彼らは、もしかすると、自己を肯定することによって他者を否定しているのだという事実を、認識はしているのかもしれない。だがそのことに痛みを/疑いを感じないとしたら、彼らの目指すものは自己と他者との共存ではなく、ただただ、自己の保身だということになりはしないか?

(だってそうでなきゃ、日本は核武装すべきだなんて言論が飛び出すはずがないんだ。刺されたら二度と刺されないために包丁を持ち歩くなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。)

ブログという極めて散漫な、表現形式とさえ呼べない自己満足の垂れ流しメディアにこんなことを書くのは、もちろん自己満足ではあるのだけど、朝日新聞にぎょっとするような広告が載っていたからなのだ。

いわく、「日本は核武装せよ!」。

漫画という極めて大衆向きのツールで声高にそう叫ぶ小林よしのりに対して、誰かが同じ言語で反駁しなければならないと思うのだ。前々からそういう議論が出ていたことは知っている。けれど、自民党の政調会長がテレビで「そういう(核保有という)選択肢もあり得る」と失言することよりも、小林よしのりが漫画で「日本核武装論」をぶち上げることの方が、私には恐ろしい。あまりに露骨で強烈な小林の言論を、我々(というのが誰を指しているのか自分でも良く解らないけど)は、町田康の言葉を借りるならば「優雅に無視」してはならない。けれど、とても残念なことに、小林よしのりと同じ地平で言葉を発することのできる人間が、いわゆる「左派」には存在していない。

戦後民主主義教育の申し子として、私は感情的にというより既に生理的なレベルで核に対する恐怖と嫌悪を抱いている。その次元で核を論じることは世間で言われるよりずっと有意義なはずだ、「くさいものにふたをする」だとか「思考停止」では決してない、人間の目指すべきところを再確認する意味で。そう、姜尚中が肯定的に言う「愚直に理想を語ること」。

どうやら「戦争はすべきではない」という共通認識は、まだ確立していないらしい。相手が約束を破ったから自分も破っていいということには、絶対にならないはずなのだけど。外交というものが武器を背負っての脅し合いに堕するなら(尤も有史以来ずっとそうだったのかもしれないけど)、人間は愚かだ、という自暴自棄な結論あるいは覚悟を、我々は求められていることになる。

果たして恋愛ソングと陳腐なテレビ番組の洪水を浴びながら日々を送っている若者たちに、どれほどの認識と危機感があるのだろう。テレビの前でタレントの言葉に声を立てて笑っている時、彼ら/彼女らの意識は完全に白痴化しているはずだ。

自己と他者(他己、という言葉が正しいのだろうか?)との共存よりも自己の保身ということに腐心する彼ら、客観的視野を失った彼らに、果たして届く言葉はあるのだろうか? にわか仕立ての自己肯定の鎧で理論武装した彼ら、自分たちの足元を揺るがす言論を一途に排除する彼らに、そしてまた、「国家」や「民族」という集団が実は非常に曖昧で確固たる輪郭を持たないということに、気づいてさえいない彼らに。

物思いは尽きない。けれど、私の結論はひとつだ。
「右であれ左であれ、非核」。
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