la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
意味の意味を問う意味

意味、というものにまつわる論争の話を聞いたことがある。

論争の当事者たる一人が言うには、世の中のすべての物事には意味がある。たとえばそこいらの木から葉っぱが一枚落ちるのにも、何か意味があるのだ。それに対してもう一人は、そんなことに意味なんてない。意味なんてどこにも何にもない。と反駁したそうで、私はその場に居合わせたわけではないので具体的な部分はつまびらかではないのだけれど、最終的に後者が前者の戦意を完全に挫いてしまったと聞いている。

私が思うに、木から葉の落ちることに意味があるかどうか、という問いに対する回答は、三通りある。イエス。ノー。その両方。

ひとつめの「イエス」はつまり「木から葉が落ちるのは、それが晩秋であればすなわち落葉樹の生命のサイクルが正常にはたらいているということを意味し、もしそれが初夏であれば、自然界に何らかの異常が起きているということを意味する。また、木から葉が落ちて積もり、腐葉土となって微生物を育んだり土壌を肥沃にしたりすることは、自然界において有意義な、意味のある現象であると言える」。

ふたつめの「ノー」はつまり「木から葉が落ちるのは単に植物の性質と重力のはたらきによるもので、あなたとは無関係な現象である。よって、あなたにとっては何の意味もない」。

そしてみっつめの「その両方」はつまり「木から葉が落ちるという現象は、あなたにとってはじめから何かの意味を内包しているものではない。だからあなたがそこに何も見出さないならば、それは意味のない出来事だと言える。ただ、あなたがそこに何か意味を見出そうとするならば、それはあなたにとって意味のある現象になりうる」。

ここで問題なのは、一見「いい話」のように見えるこのみっつめの解答が、場合によっては非常に危ういものになってしまうということだ。
たとえば宗教。手相見や占星術。血液型による性格判断。

すべてを否定するわけではないけれど、明確な事実を伴わない(というか、伴うということが証明されない)関連づけを信じてしまうことは危険だ。たとえば鬼門の方角にある部屋を子供に割り当てるな、という説があるなら、別にそうするのを避けるにやぶさかではない(避ける分には害はないので)。けれど、鬼門の方角にある部屋を割り当てられた子供が成長して引きこもりになったとして、それを鬼門のせいにするのは危険だ。雑誌の星占いで「恋人との喧嘩に注意!ラッキーカラーは赤」と書いてあったとして、恋人に優しくしようと努力するのは良いことだし、赤いハンカチは持ってないのでなるべく赤に近い色のハンカチを持って出かけるのも、別に悪いことではない(それのおかげで一日を明るい気持ちで過ごせるなら万々歳だ)。けれど、結果的にその日恋人と喧嘩してしまったときに、「ああ、やっぱりハンカチが真っ赤でなかったからだ」と、ハンカチの色のせいにしてはいけない。

それらの「意味づけ」は、他のところにある(かもしれない)様々な原因を無視する結果になるし、「子供が社会に適応できない理由は(鬼門にあって)親たる自分にはない」「恋人を苛立たせた原因は(ハンカチの色であって)自分ではない」という、明らかな責任転嫁になってしまう。

鬼門の方角にある部屋で元気に社会に適応している子供(或いは、適応できないなりに自分の価値を確立している子供)はたくさんいるだろう。鬼門という概念のない外国ではなおさらだ。子供を引きこもりにしたのは鬼門ではなく他の何かか、より穿った見方をするならば、鬼門という方角に「意味」を見出してしまう家庭であり文化であるのだ。

血液型に関してはまたの機会に譲るとして。
意味にまつわる論争の話からずいぶん饒舌になってしまった。
ともかく、私は「厳密な事実」を好む。だからこそ、意味を問う前に意味という言葉の意味を問うし、時には意味の無意味をも問う。最初の論争に戻れば、そもそも「木から一枚の葉が落ちることに意味はあるかないか」という問い自体が、あまりに多くの曖昧さを孕んでいる。私としては、ぜひその論争の場に居合わせたかった、と思うのだ。その種の論争にあって、私は最も重要かつ滑稽な次の質問をしたい。

「その木は常緑樹ですか、それとも落葉樹ですか」

むむ。
スポンサーサイト
Comment
≪この記事へのコメント≫
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.