la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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ボードリヤールの食卓
「不確実性という深淵にのみこまれてしまえば、現実も価値も法則も、例外的な現象でしかない。」
(『不可能な交換』ジャン・ボードリヤール)


恐いことを言う人だ。

ボードリヤールは世界を既に不確実だと断言している。そのうえ「不確実性自体がゲームのルールになりさえすれば」と言い募る、「(あらゆる領域に不確実性が侵入し、すべてが決定された、安心できる世界が終わりを告げるという状況は)すこしも否定的な宿命ではない」と。

でも、不確実性をルールとするゲームって一体、どんなだ?

確かにゲームにおいて不確定要素をプログラムすることは可能だけれど、プログラムされた不確定要素というのは「乱数発生装置が発生させた乱数を厳密な意味での乱数と呼べるのか」ということと同じで、厳密に言えば「不確実」とは違う。厳密な意味での不確実性は、元来ルールにはなりえない(何故ならそれは不確実なのだから)。つまり「厳密な意味での不確実性がルールになる」ということは、ルールがひとつ増えるというのではなく、既存のすべてのルールが崩壊することを意味する。そんなことを仮定したうえで、世界の不確実さを「否定的な宿命ではない」と言ってのけるボードリヤールに、私は思わず「何様?」と呟いてしまう。

彼は世界を既に外側から見ている。まるで自分が世界になど含まれていないかのように。あらゆるものの過剰、肥大したシステムの自滅の予感。
そのことの恐怖を、ボードリヤールは体感しない。これは「その頃には自分は生きてはいない」という意味か(実際ボードリヤールは昨年死んでしまった)、それとも彼にとって、交換不可能であるはずの現実は仮想現実と等価に=交換可能になってしまっているせいか。それにしても最後の著作である『悪の知性』ではボードリヤールは現実とヴァーチャルとの混同をはっきり戒めているので、おそらく私の理解の及ばないところでボードリヤールの思想は鮮やかに、矛盾もなく一部の隙もなく構築されているのだろう。

まあ、現実だろうが幻想だろうが「そこで生きていかなければならない」ということに違いはないので、結局「今のこの世界」を「現実」と呼ぼうが「幻想」と呼ぼうが、少なくとも私にとっては大した問題じゃないのだけど。

ところで、ボードリヤールの著作には実に魅力的なタイトルが多い。この『不可能な交換』の章題にも「自由と訣別するために」「運命の分水嶺」「状況の詩的転移」など心惹かれるものがある。ぜんぜん理解できない癖に難解な思想書哲学書の類を読みたがるのは私の悪い癖なのだけど、それは世の中には妙に詩的な言葉を使う哲学者が多いせいだ。ボードリヤール然りドゥルーズ=ガタリ然り。

でも、ボードリヤールの食卓には、シートをはがしてレンジで三分加熱すれば一食分のメニューが揃っているという空恐ろしいトレイが乗っているような気がする。

皮肉な笑みを浮かべながらそれを口に運ぶボードリヤール。
詩的と言えば詩的か・・・?
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