la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
オフィーリアに捧げる頌歌
「大事なのは物事にどう対処するかではなく、ほかの生き物や生命とどうかかわりあうかということだ」
(レックス・ゴードン/『宇宙人フライデー』)


それが大事なのは、ちゃんと解ってるのだけれど、私はどちらかというと、物事に対処することの方が得意で、ほかの生命とうまくかかわりあうことが、いくぶん苦手だ。
基本的に、家族も友達も知り合いも職場の人も赤の他人も、皆が元気でいてくれればそれでいい。
そんで基本的に、みんなが私はそれなりに元気だ、と思っていてくれればそれでいい。

ところが琵琶湖でぷかぷかしていると、幸福感と同時に息苦しいような切ないような気持ちが湧きあがって来る。
幸せ、という感覚が、手放しで幸せなのではなく、不意に泣きたくなるような不安の裳裾を引きずっているのに気づくのだ。

今年初のカヤック、勝手にホームグラウンドと定めた琵琶湖西岸、駐車場から出艇場所までカヤック担いで一分を切る便利至極なロケーション。

基本的に私の琵琶湖カヤックは「漕いでいる」時間より「浮いている」時間のほうがずっと長い。それも「半浮き」、つまりスターン(船尾側)をちょっと岸に乗り上げさせて漂流しないようにしておいて、前半分は波に揺られるままに遊ばせておいて、その半浮きのフネの上で自分は何をしているかというと、ごはんを食べてたり本を読んでたりバードウォッチングをしてたりするのだけれど、それ以外には何にもしないで水の音や鳥の声を聴きながら、ただ浮いている感じを「味わって」いる。

「味わう」というのは語義通り、美味しいものを食べるときのあの感覚とまったく同じだ。琵琶湖には、もちろん目で見える景色もあり、海とはまた違った湖特有の匂いがあり、様々な音があり、船底に感じるひんやりとした水の感触も、波の揺らぎもある。そういう「世界」に、私としては相当無防備に、五感を明け渡す。解き放つ。

「息苦しいような切ないような気持ち」は、そういう瞬間に、不意打ちのように襲ってくる。
懐かしい?
恋しい?
怖い?
帰りたい?
逃げたい?
あれこれ考えてみても、どんな語彙もしっくり馴染むことのない感覚。

もちろん、こういうカヤックも「あり」なのだと知ったのは、自力でではない。
そもそもカヤックに憧れたのは十代の半ば、野田知佑のエッセイでだ。テントやら着替えやら、言ってみれば「家財道具一式」をフネに積んで(ああ、カヤックをカタカナで「フネ」と呼ぶのは間違いなくこの人の影響だ)、川下りの旅に出る。お金なんかに頓着しない。魚を釣ったり河原の草を摘んだりして煮炊きしながら、気の向くまま、そのくせ命がけで旅をするのだ(そんで舳先には犬)。
でも当時は、というかずいぶん大人になるまで、ああいう「冒険」は男の人の特権なのだ、と思っていた。つくづく、ああ男に生まれたかった、と思ったりもした(というのはまあ、ただそれだけの理由ではないし、今でも一人きりの川下りは男の人の特権だと思ってしまう臆病さが私にはあるけれど)。

そういう意味で、梨木香歩氏の『水辺にて』というエッセイを読んだとき、愕然とした。
その昔、日常の必要性からつくられ、日常として使われ、日常の延長線上にあった「道具」は、ただ水辺に身を置くための、非力でもがんばれば何とか持ち運びできる「道具」でもあったのだ。

もしかして、私一人でも、カヤックって乗れるのかもしれない。
そう思うと、もう居てもたってもいられなくなった。
実際やってみると、梨木さんが一人で運べる限界、というボイジャーすら私には重すぎて運べず、それより軽いアリュートですら運べず、でもそこは「小分けして運べばいいじゃん」と開き直って、分割して背負う/引っ張る、という運搬法を編み出して今に至る。

今年は春先から機会を伺っていたにも関わらず、ずっとカヤックを出せずにいた。何と六月も後半になっての「2017年、初カヤック」である。
臆病者の私は、仕事の休みとお天気と自分の体調とがぜんぶ完璧に揃わなければ、カヤックを出せない。しかもその三項目が軽々とクリアされるような日でも、読みたい本が山積みとか翌日以降の夕食の作り置きをしなければとかいう、些細なことに負けたりする。

だから、多分、カヤックに乗れなければ死んでしまう、ということは、私にはない。
玄関らへんの板張りの、何と呼ぶのかよくわからないスペースで、一年の大半はただ埃をかぶってるだけのカヤック一式(愛艇アリュートと、初心者用のツーピースパドルと、「胸とかないんで普通のでいいです」と言ったにも関わらずショップの店員さんに押し切られて買った女性用のフローティングベストと、その他の装備もろもろ)。
それでも私は、条件さえ揃えば多少は早起きして、片道一時間半かけて車を運転して、小一時間かけてカヤックを組んで、汗だくで琵琶湖に漕ぎだす。

この日、十時前に出艇場所に着いて、辺りに誰もいないのを有難く思いながら(私は注目を浴びるのがこの上なく苦手だ)、いつもよりちょっと無造作に、いつもよりかなり巧く、アリュートをセットアップする。そして誰に気づかれることもなく、「湖上」に出る。

木陰の半浮きメインで、あとは北に向かってちょっと漕いだり、腰まで水に浸かって釣りしてるおじさんがいたので、沖を迂回するよりはと思っておじさんより岸側の浅瀬をポーテージしたり、動力船の余波でちゃぷちゃぷ遊んだり。
そのうち風が出てきて、ウインドサーフィンを始める人まで出て来たので、撤収の頃合いだな、と思って出艇場所まで戻ると、なんか道の駅のテラスに観光客ぽい人たちがずらっと座ってる。漕ぎ戻って岸につけるあいだの視線が、ずいぶん痛い(いや、別に視線に非難がこもってるわけはなく、むしろ興味&好奇心120%の視線なのだけど、私にはそれこそが苦痛なのだ)。
上陸して、カヤックをざっと拭く。
琵琶湖臭い。
しばらく陽ざらしにして干す(ほんとは風通しの良い日陰でやるべき)。
解体して骨組みをたたんでいると、写真を撮りに来たらしい年配の男性に「キャンプしたんか?」と声を掛けられる。
「いえー、キャンプじゃなくて、カヤックです」
カヤック、が通じない。
「折り畳み式の、フネ、です。こっちが骨組みで、こっちが外側の、皮、です」
 それをきっかけに、テラスから私の撤収を見守っていたらしき観光客の人たちから、ものすごく話しかけられて縮こまる。
「一人で来たんじゃないよね?」
あ、今日は一人です。
「持てる? 大丈夫?」
あ、大丈夫です。
「手伝ったろと思ってたら、もう片付いてるんやな」
あ、まあ、慣れてるんで。
等々。

SNSとかやってたら、意識して画像撮ったりするんだろうけど。

不意に、贅沢な遊びやなあー、と言われて、リアクションに困る。
その人が、どういう意味で「贅沢」と言ったのか、咄嗟には区分できない。
私としてはもちろん、この上なく贅沢な遊びだ。
でも、お金が掛かる、というわけじゃない。
目の前のこのおじさんが、本当の「贅沢」を知っていてそう言っているのか。
それとも、自前のフネや装備を持っていることや、公共の広場を勝手に占拠して解体作業をしていることを指してそう言っているのか。

普通なら疑うところではないのだけれど、おじさんの佇まいからは、どちらともつかない空気が漂って来ていた。
でもまあ、私はもともと、不意に人から話しかけられるとリアクションに困ってばかりいるので、深く考えるのは止して、曖昧にヘラヘラ笑ってごまかす。

どっちだっていい。
私は、私の幸せを、どんな形であれ「贅沢」だと思うことはしたくない。
ファルトボートなんて中古車に比べたらずっと安いし。
そもそも、値段のつけられるものじゃないし。
他の誰かが私のアリュートに乗ったって、私ほど幸せにはなれないという自信(?)もあるし。

でも、簡単なことなのだ。
幸福というのは、本当は、不幸と同じくらい近しくて、誰にでも軽々と手の届くものなのだ。
ただ、「降って湧きやすさ」という点で、不幸は幸福より非・恣意的なものだというだけ。

六月の琵琶湖は、深緑色。
風が出て波立つと、私の大好きな、ガラス細工みたいな質感を見せてくれる。
透き通ったクリスタルグラスじゃなくって、アールヌーヴォー風な重たい色ガラス。
パドルに藻が絡まったり、休憩スポットに死んだ鮒だか鯉だかが打ちあがってたりもするけれど、それは大した問題じゃない。

ひんやりと湛えられた水の質感を船底に感じながら湖の鼓動に合わせて揺られるとき、そこにあるのは非日常ではない(少なくとも私にとっては)。
それは、自分が生きている日々の本質を、あらためて感じるひとつの機会なのだ。
特別な祭典でなくても。
特別な贅沢でなくても。
そう思うと、わけのわからない切なさにも、多少は説明がつく(ように思う)。

だって、私は、たぶん私たちは、そしてたぶん他のあらゆる生きものたちは、幸福だから生きているわけではない。
生きることと向き合うには、ただ幸福感だけで済ませるわけにはいかない。
これはそういう体験なのだと、今日ふと思った。
強調文
スポンサーサイト
Designed by aykm.