la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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幸福のテンション/流れる生命の音
「五本指の人間だけが、心のしるしを見分けられるんだな。家の精には分からないことだけどね」
(アレクサンドル・グリーン『おしゃべりな家の精』/池澤夏樹編『世界文学全集 短編コレクションⅡ』所収)


幸福とは、夜眠りに落ちるその瞬間…本の最後の1ページ、その最後の一文、何千何万のピリオドの果ての最後のひとつのピリオドのこと。
そして、朝目覚めるその瞬間…本の最初の1ページ、その最初の一文、何千何万の単語の流れを後に従えた最初のひとつの単語のこと。

そう考えれば(というか私にとっては実際そうなのだけれど)、「短編小説」というのは実はとても幸福度の高い読み物なのかもしれない。
少し前から渉猟を続けていた池澤夏樹編の世界文学全集の、「短編コレクションⅡ」を読みつつ、そんなことを思った。
とても幸福度の高い、ではなく、実はとても幸福度の高い、と書いたのは、短編小説を読むのがどちらかと言えば私は苦手だからだ。
まず、あっという間に読み終えてしまうのが悲しい。
そして、私は目の前に活字が書いてあれば書いてあるだけ貪り読んでしまうので、ひとつ読み終えたらすぐ次の短編、という風にどんどん読んでいく。結果、それぞれの短編で切り出された風景なり場面なり感情なりが、切り刻んだ何枚もの写真みたいに記憶の中でごちゃごちゃになってしまう。

「傑作」とされる短編は特に、狙いすました鮮やかな手品のようで、あらかじめ組み込まれた精妙な仕掛けが読み手の目の前で寸分の狂いもなく発動する、といった印象だ。フレデリック・ブラウンやコニー・ウィリス、シオドア・スタージョン(短編の名手として思い浮かぶのがSF作家ばかりなのは私の短編体験の偏りを顕著に物語っている)を思い出せば決して苦手でも嫌いでもないのだれど、とにかく、読み手が誰であっても寸分の狂いもなく作動する、「巧妙な幻惑装置」だと私は思う。
それはつまり、読むと疲れる、ということだ。
誘惑され、乗せられ、魅了され、騙され、裏切られ、衝撃のあまり呆然としていると不意にそれが単なるサプライズのジョークだったと判明したりする。

長い小説だって読むと疲れるだろうに、と言われそうだけれど、長編は、読んでいてつまらなくなれば中断できる。それっきり放り出すこともできる。面白い長編なら、もっと先が知りたいと思うと疲れていることなんか忘れてわくわくすることができる。
ところが、短編はすぐに終わってしまうし、終わってしまえばそれきり、「続き」はないのだ。

この『短編コレクションⅡ』に収められた短編は、そういう技巧が際立つものもあるけれど、それよりむしろ長編の一部分を切り取った風情のものが多いようにも思う。けれどそれはそれで、「作者が伝えたかったこと」よりも「この私が彼らについて知りたいと思うこと」のほうが勝ってしまって、いったいその後どうなったのかが皆目わからない、でも私としてはそれが知りたい、という不完全燃焼感が残るのだ(この辺り、私はたぶん「古い」読み手なのだろう)。
登場人物が二人いて、その二人がある時ある場所で出会い、ただ会話をする。短編小説は時に二人のその後をほんの数文で片づけてしまったり(飽くまでもたとえば、だけど、「その後、彼は路上で物盗りに襲われた時に受けた傷が悪化し帰らぬ人となった」とか、「亡霊のような姿で公演を歩き回る姿を何度か目撃されたが、その後の彼女の運命を知る者は誰もいない」とか)、ひどい場合には「その後」のことになんかいっさい言及しなかったりもする。二人の男女が出会ってほんの一時間交わした会話だけが描かれ、その会話を通して現代社会の病理やら男女の価値観の違いやら人間の弱さやら残酷さやら救いがたいディスコミュニケーションやらが浮き彫りにされても、そういう会話が交わされた後でその当事者たちがどこへ行き何をし誰と出会いどんな日々を生きたかは、まず語られない。

もちろん、それが語られるべきだと言っているのではない。
私はそっちのほうが知りたい、と言っているだけなのだ。
そして当然、そんなことは作家の仕事ではない。

解ってはいるのだ。

いっそ、短編小説もそれぞれ一篇ごとに、表紙をつけて装丁して、一冊の本にしてしまうべきじゃないだろうか。
同じ作者の短編を幾つもまとめて一冊にしてしまったりせずに。
「短編コレクション」なんて題して何人もの作家の何篇もの作品を一括りにしてしまったりせずに。
そうすれば、私のようなせっかちな読み手も、それぞれの一篇一篇をもっと丁寧に読み、読んだことについてじっくりと考えを巡らせ、余韻に浸ることもできるのじゃないだろうか。

五本指の人間だけが、心のしるしを見分けられる。
そしてそれは、家の精には分からないことかもしれない。
けれど、五本指の人間には見分けられないこともたくさんあって、きっと、家の精にはそれが分かっているのだ。
たとえ歯痛に悩まされていてもね。
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インストア★パンデミック!
インフルエンザが猛威を振るっている。
毎日、職場にスタッフの誰かしらから欠勤の連絡が入る。
およそ一日あたり一名の割合。そして目下、5名が罹患中。

毎朝、出勤してきたメンバーと互いの無事を喜び合い、帰るときは明日の再会を誓い合う。
そして皆ちょっと、非常事態にはしゃいでいる感じが、なくもない。
小売業の現場なので、人数が減ると一気に勤務時間めいっぱいドタバタになるのだけど、皆いつもより良く喋り、良く笑う。シフト表を確認して「これ明日、死にますね」とか「ていうか今日既に死んでる」とか言いながらも、皆、笑ってる。

逆境を好むという性質にははっきりと二種類あって、私が嫌いなのはマゾヒスティックなそれだ。自分がこんなに大変なんだ、と周囲にアピールしつつ、そういう自分に酔う、というもの(過去の話をするなら私も身に覚えがなくもない、という点がものすごく恥ずかしい)。
そしてもうひとつは、逆境を好むというよりは逆境を克服することを好む、やや好戦的なそれ。いま私の周囲にあるのはこちらのほうの空気で、「もう死んでる」とか何とか言いながら実は「そんな状況でも自分たちで何とか乗り切れる」ことを(ほぼ)確信していて、そうできる自分を幾らか誇らしく感じている。
クライマーが絶壁を見上げてゾクゾクするのと、スケールはめちゃくちゃ異なるけれど、確実に共通する高揚感、かもしれない。

非常事態にはしゃぐ、というのは、確かにやや不謹慎ではあるのだけれど、他の誰かが病気になって仕事を休んだとき、それを「ちょっとしたお祭り騒ぎ」にして盛り上がって乗り切るほうが、「迷惑」だと放言するようなメンタリティよりはずっと健全で好ましい。

そして今日、「サトさん強いっすよねー」等と学生バイトの子に言われた。確かに、今の職場で病欠したのはこれまで一日だけだ。子供の頃はしょっちゅう熱を出したり、やれ自家中毒だ中耳炎だと、とかく学校を休みがちな「虚弱児」だったのだけれど(中耳炎で学校を休むてどんな軟弱さだよ、と今では思うのだけど、確かに小学生の頃、自分の部屋でなく居間に布団を敷いて寝かされていて耳の奥が痛くて唸っていた、という記憶が残っている。そして「ジカチュー(自家中毒のオリジナルの愛称)」と「チュージエン」とは、言葉の意味を理解するより前にその発音で覚えてしまっていたので、たぶん子供の頃の私にとってはそれが「世界の二大厄介ごと」だったのだろう)。

前々から折に触れ言っていたことだけれど、もう一度繰り返したい。
「大人になるって素晴らしい」。
寒風吹きすさぶ岩壁の半ばで/どくしょきろく
タイトルは、心象風景です。別にボルダリングに挑戦中というわけではありません(念のため)。
ちょっと前に風邪で寝込んだりしましたが、梨木香歩の『裏庭』と『エンジェル エンジェル エンジェル』を読み、メルヴィル『白鯨』上下巻を再読し、それなりに充実した寝込み具合でした(?)。

さて今回は、前回の「どくしょきろく」以降に読んだ本を、図書館の「返却日のお知らせ」(貸し出しの際に発行される、書名が印字されたレシートみたいなの)を頼りに復元してみます。点数はつけず、覚えている範囲でざっくりコメントを付記しつつ。
題して「どくしょきろく消化不良版」。

と、勢い込んで「レシート」の束を手に取ってみると、いちばん古い日付が2015年4月。
一気に萎える。
や、4月分からまるっきり記録してなかったわけじゃないと思うんだけど。
ま、できるところまで書いてみます。

ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
バルガス・リョサ『楽園への道』
(ともに池澤夏樹編の『世界文学全集』から。このころ、近所の図書館にこの全集が入って来て、かなり嬉しかったのを覚えている。ブルガーコフは何ともとっちらかった印象で私にはめちゃくちゃ面白かった。あの猫、名前忘れたけど、あの猫が最高だった! リョサは、他の作品のほうが私は好きだけど、ゴーギャン好きで『月と六ペンス』に不満のある方にはお勧め。)

コウケンテツ『弁当』
(料理研究家コウケンテツが、自身の思い出のお弁当を写真とエッセイで綴った本、だったと思う。本の雰囲気は良かったけど、自分で作ろうとは思わない=けっこう手の込んだお弁当だった。)

国分太一×ケンタロウ『男子ごはんの本』
(このときまだケンタロウさんの事故のこと知らなかった。)

ブラウリオ・アレナス『パースの城』
(こういうの好きなはずなんだ。好きなはずなのに。という、例のもどかしいあれ。時間を置いて再読すべきなのか、こういう雰囲気がもう自分には楽しめなくなってしまったのかがよく解らない。ま、よく陥るパターンではある。)

作者不詳(?)『シェフとギャルソン、リストランテの夜』
(たぶん映画のノベライズ。映画も観た。「ごはんもの」の映画や小説はハズレが少ない気がする。映画で好きなのは『パリのレストラン』とか『バベットの晩餐会』とか、『マーサの幸せレシピ』←ハリウッドリメイクじゃない方の、『ディナーラッシュ』、『シェフ!』←これはけっこう新しいやつでコメディ。ジャン・レノが良かった、とか。この『リストランテの夜』は、小さな厨房での料理シーンがふんだんで雰囲気も好きな感じだったけど、ストーリーそのものに「幸福感」がなかったのが残念。美味しいものがあれば人は幸せになれると、私は信じたいのだ。)

梨木香歩『海うそ』『冬虫夏草』 
(新聞で、三浦しをんが書評を書いていたので「あ、梨木さんの新刊、出たんだ」と知ったのが『海うそ』。その書評がとても良かったのを覚えている。それで図書館に『海うそ』を借りに行って、ついでに未読だったので手に取ったのが『冬虫夏草』。『家守綺譚』の続編だと知ってすごく嬉しかった。『海うそ』は、切実な祈りが込められてはいるのだけど、救いたくても救えないものを前にしたとき「どう感じるか」、という主観的な辛さや何かのことよりも、それでも「どう生きていくのか」という(そして本当はそちらのほうが大切だし必要なのだ)、そういうことが書かれていた。ように思う。併せて読んだ『冬虫夏草』の舞台が100年くらい前なだけに、現代の緩やかな喪失感が際立って感じられた。ちなみに『冬虫夏草』の最後、嬉しくてちょっと泣いた。「涙腺崩壊」とかいう流行りの文句は大嫌いだけれど、ああ、こういう涙なら流しても良い。ゴロー!!)

スティーヴ・ハミルトン『解錠師』
(これは、こういうの好きなはず、と思ったらやっぱり好きだった例。面白かった。でも私は、読んですぐ何かしら書きつけておかないと、絶望的なくらいに内容を「忘れる」。うーん。そのうち再読したい。)

ロビン・スローン『ペナンブラ氏の24時間書店』
(「ごはんもの」と並んで私が注目している「本屋もの」。舞台設定はかなり面白くて読み始めは期待感がいや増したのだけど、読み終わってみると、書店の危機をgoogle社の社員が一丸となって救った、というような話だった。何ともイマドキな小説。つまらなくはなかったけど、「本屋もの」ではなく「googleもの」。)

ウラジーミル・ナボコフ『ロシア美人』
(ぜんぶ読んだことは覚えている。ちらりと、チェーホフの『可愛い女』を思い出したような、そうでもなかったような。でも、これも忘れてしまった。ああ私の馬鹿。)

ドナルド・バーセルミ『シティ・ライフ』
(短編集、なのだけれど、ちょっとぶっ飛びすぎていて、ついていけなかった。ウィリアム・バロウズと筒井康隆と横尾忠則(って作家じゃないけど)をごちゃ混ぜにして細切れにしたらこうなるのかしらん?って、こう書くと面白そうに思えたり。)

パトリック・モディアニ『サーカスが通る』
(ぼんやりと不明瞭な窓越しの風景。キラキラした光がキラキラとは見えずに滲んで見える感じ。ドビュッシーの音楽みたい。サティかも。映画で言うとパトリス・ルコント、嫌いじゃないけどもやっとしすぎていて、好きにもなりきれない。)

ポール・オースター『写字室の旅』
(思わせぶりな一人芝居。世間のうがった評はさておいて、読み物として楽しめなかった。←後日註、その後オースターの『ムーン・パレス』を再読したらすごく面白かった。たぶん私がオースターを好きになりきれないまま読み続けているのは、『ムーン・パレス』の読後感を未だに引きずり続けているからだろう。)

フレドゥン・キアンプール『この世の涯てまで、よろしく』
(高野史緒が垢抜けて色彩豊かになった感じ。大して期待せずに読み始めたら存外引き込まれた。第二次大戦下で死んだピアニストの幽霊と現役音大生が出会って云々、軽妙でお洒落なんだけどコメディではなく、史実やミステリの要素も絡まってけっこう読みごたえのある小説だった。クラシック好きなら思わずニヤリとするエピソードもあり、登場人物たちも魅力的。うーん、でもこのタイトルは、ちょっとどうなんだろう。)

ロバート・カニンガム『この世の果ての家』
(前述の本と『この世のはて』つながりで借りた一冊。どうにも、ひどく真面目で切ない物語だった。善良すぎ、美しすぎ、悲しすぎる。)

トム・レオポルド『誰かが歌っている』
(なんか「良い話」だったような気がする。でも、これまた信じられないくらいキレイさっぱり記憶から消えている。あゝ無情。)

ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』
(ごく最近、トゥルニエの訃報を新聞の片隅で目にした。新聞の訃報欄なんてそう毎日見るものじゃないのだけど、ブーレーズ、トゥルニエと立て続けだったなあ。まあそれはさておき、これも池澤夏樹編の世界文学全集から。『ロビンソン・クルーソー』の翻案というかいわゆるスピンオフみたいな小説で、タイトルからして主人公であるはずのフライデーが一向に登場する気配がないことに緩慢に苛立ったのを覚えている。原題は『煉獄』で、無人島での生活を少しずつ整え秩序立ててゆくロビンソン・クルーソーの思考が緻密に描かれ、当時の白人なりの自律精神とか宗教観とか階級意識とかあれやこれや、ものすごく読み応えがあるのだけど、無人島での半永久的な宙ぶらりん状態が徐々に耐え難くなる。たぶんクルーソーにとってもそうだったのだろうけど。三分の二くらい読み進んでやっとフライデーが登場して、そこから俄然おもしろく=いくぶんはちゃめちゃ=になったのだけど、おもしろくなってから終わるまでが短くて、残念。)

中里友香『カンパニュラの銀翼』
(ちょっと昔のヨーロッパが舞台で、出自を偽って大学で学んでいる青年と謎めいた美貌の剥製技師と、青年のことを実の兄と信じて愛する美少女と、何だかものすごく耽美的。私としては衒学的な文章も美男美女も大歓迎なのだけど、文章も人物も物語自体もそんなに読みにくいとか骨太な感じはなくてむしろ「趣味的」な印象だったし、何より肝心の日本語の使い方がちょこちょこ間違ってないか? という個所が幾つかあって気になった。「にべもなく受諾する」とか、別に誰が反対してるわけでもない場面でそういう言い回しってアリか???)

武田百合子『日日雑記』
(心の中で、百合子さん、と呼んでいるくらいこの人のことは大好き。久しぶりに読んだらまた『富士日記』を読み返したくなった。)

ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』
(怖かった。読むんじゃなかった。どの短編も怖かった。真面目さやひたむきさ、善良さが軽々と曲解され踏みにじられるこの現実! 人間の狂気とか残酷さとかが好きな人には堪らない本だと思うけど、私の精神衛生には良くなかった。ああ、思い出しても怖い。)

スチュアート・パーマー『五枚目のエース』
(これも、面白かったと思うんだけど、肝心の「五枚目のエース」つまりトリックというかオチが何だったか思い出せない。素人探偵(しかも教師のおばさん!)と馴染みの刑事(どうやら元恋人?)の雰囲気がかなり好きな感じだったので、同じシリーズの他作品も読みたいと思ったことは覚えている。)

アントニオ・タブッキ『イザベルに~ある曼荼羅~』
(私が愛してやまない小品『レクイエム』の、まさにあのとき書かれなかった空白のページ。出版年がタブッキの死後になっているけど、これは翻訳が遅かっただけなのかどうなのか、ちゃんと調べていないから解らない。とにかく、『レクイエム』で鮮烈な印象を残したあの欠落が、まさかこんな形の補遺として読めるなんて。手に取って、読んでみると、あの時「書かれなかった」わけが解る。書けなかった、とか書ききれなかった、とか言うこともできるけど、たぶん書かれなかった、というのが正しいのだろう。ところで先日、一乗寺の「恵文社」を訪れたとき、棚に白水Uブックスの『レクイエム』が並んでいるのを見つけて、頭の天辺から心臓まで電気が流れた。ずっと欲しかったのにどこの本屋さんを探しても見つからなかった『レクイエム』が、ここにあった! 感動して背表紙に手を触れた瞬間、思い出した。ほんの十日ほど前に私はその本を、痺れを切らしてオンライン書店で買ってしまっていたのだった。ああ、この本はあんな風に手に入れるのじゃなく、こんな風に劇的に出会って買いたかった!と、己の性急さを後悔することしきりだった。)

ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴』
(奇跡的に発見された一冊の稀覯本の分析から、それがどんな人々によって装丁され、どんな人々の手を経て戦禍を逃れ残されたか、という壮大な歴史が語られる。ミステリのようでもあり、歴史小説のようでもあり、幾らかはファンタジーのようでもある。そんな古書の来歴と並行して、この本を分析する主人公と彼女の母との物語も語られていて、この辺は後述の『メリディアン144』とも通じるものがあるのかな、と。いつもいつも、どんな状況下でも、この「親」というものはついて回るのらしい。まあ、この物語ではそれもメインラインに関係のある話なので、因縁をつけるのは止そうとも思うのだけど、私はこれについてはやや不満。あと少し生真面目で息苦しい感じがしたのは、この本がジャーナリストによって書かれているからだろうか。)

ジョージ・R・R・マーティン『七王国の玉座(上)』
(そうそう、このころファンタジー超大作『氷と炎の歌』を再読し始めたんだった。初めて読んだときより面白かった。「七王国」の北部ウィンターフェル領主の、私生児を含む六人の子供たちを中心に語られ始めるこの壮大な物語は、今のところまだ完結する気配がなく、日本では翻訳者の交代に伴って登場人物の名前を含む固有名詞が大幅に変更されてしまうなど、読み続けにくい状態になっている。この先、無事に日本語訳が出版されるかどうかも不安な感じで、ドラマ化されたというのでレンタルショップに行ってみるとR15の表示、小説でなら読める凄惨なシーンやエロティックなシーンがあまりにも即物的に映像化されていて目を覆う有様。これじゃ日本での知名度向上はあんまり期待できないかも。でもどうか、マーティン氏には完結まで書いてもらって、誰の翻訳でもいいからシリーズ最後まで邦訳が出版されますように。そして、主要登場人物が遠慮会釈なく死んでしまうこの物語にあっては誰が死んでももう驚かないけど、ティリオンとアリアとジョンとブランだけは、どうか最後まで生きていますように。)

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』
(これも池澤夏樹編の世界文学全集から。ナボコフ版『失われた時を求めて』。主人公の見聞きする日々のあれやこれや、夢想のあれやこれや、若さあふれる不安や焦燥や憧れや、思索や論争やその他もろもろ、詩的な三角関係、取り返しのつかない出来事。うん、面白かったんだ。読むのにものすごく時間がかかったけれど、費やした時間以上の余韻が残ったことは確か。)

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
(恥ずかしながら、この村上春樹訳で初めて読んだ。うーん、若い頃に読んでいたらもう少し違う感想だったのかな? 今の私が要約すると、「自分にも人並み以上に欠点があることに全く気づいていない男の子の、鼻持ちならないお喋り」とかそんな風になってしまう。それって村上春樹そのものじゃん。しかし、従来の乙女な邦題があまりにもそぐわないことだけは納得。)

アンソロジー『ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ』
(サリンジャーつながり(って、つながってるようで全然つながってない)で借りてみたアンソロジー。九人の作家が紡ぐ「源氏物語」へのオマージュ、という触れ込みなのだけど、皆さんごく真面目に書いてらっしゃる。期待していた島田雅彦でさえ真面目。翻案度の高い二作「若紫」と「葵」は何だかガッカリな方向への翻案。ただ町田康だけがめちゃめちゃ面白かった。光源氏の一人称で、あの「末摘花」。しかも例によってあの町田節で、わちゃあ、とか普通に書いてた。でもこの光源氏、原典の光源氏よりずっと笑えて、ずっと魅力的だ。)

テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』
(とても詩的で読み応えがあったのだけどこれまたどんな物語だったか忘れ去っている。何となく、雰囲気で覆われすぎていて核心が読み取れなかった感じ。)

町田康『告白』
(魅力的だけど救い難い話。語りが始終「笑い泣き」の状態で、テンションの高さに引きずられて一気に読み切ったのだけど、かなり重い。遥か昔に起こった残虐な殺人事件の話で、その殺人者が語り手。読み進むうち、何故彼が人殺しをしたのか、ではなく、何が彼に人殺しをさせたのか、に焦点が合ってゆく。つまり真に残酷なのは決して彼ではなく、彼の周囲の人々であり社会であったのだ。)

エリン・モーゲンスターン『夜のサーカス』
(過剰なデコレーションケーキ。見た目の美しく飾られたケーキが食べて美味しいかというとそうでもない、という、まさに実例。イマージュは美しい。常に予告なく唐突に出現する夜間だけのサーカス、という設定も、その描写も美しい。残念なのは物語の主軸が「宿命の対決」と「運命の恋」に据えられている、という点で、しかもその対決にも恋にもあまり切実さがなかったりして、タイトルニアミスのアンジェラ・カーター『夜ごとのサーカス』のほうが、よっぽど中身があって印象に残った。)

と、この辺で息切れしてきたので、あとはほぼ備忘録。

クライヴ・バーカー『ウィーヴワールド・上』
(ホラー苦手だけどバーカーはちょっといい感じ。でも未だに下巻を読んでないところを見るとやっぱりホラー苦手なんだろう。)

マルセル・シュウォッブ『少年十字軍』
(エクセレント。マーヴェラス。山尾悠子が好きな人なら必読書だと思う。いま手元に本がなくてちゃんと感想が書けないのがもどかしく思う。)

イスマイル・カダレ『夢宮殿』
(ほぼカフカ。私はこの手の不完全燃焼に読書の快感を感じられない未熟者だ。)

アメリー・ノートン『午後四時の男』
(ほぼ悪夢。大して何もしない隣人が、大して何も望んでいない老夫婦を決定的に狂わせてゆく恐怖。私なりの「午後四時の男」への対策を真剣に考えてしまったけど、結論が出ないところがまた怖い。)

ボフミル・フラバル『わたしは英国王に給仕した』
(これまたエクセレント。「わたし」が「英国王に給仕した」ことの顛末が語られているのかと思いきや、英国王に給仕したのは「わたし」ではなくそのかつての上役。「英国王に給仕する」ということが何を意味するのか、字面ではなく単なる職業的矜持でもなく一個の人間としての芯の通ったスタンス、のようなものとして書かれていた。ように思う。うう、今までの「どくしょきろく」なら本が手元にあって、曖昧なところを確認したりできたのだけど。ともあれ、これは欲しい本の一冊。)

レイモンド・チャンドラー「リトル・シスター」
(これまた、読んだは読んだけど、つまらなくはなかったけど、うーん、という感じ。もともとミステリに興味がないので仕方がないし、もともとミステリに興味がないのに最後まで読んだ、ということは何かしら面白かったんだろうと思う。)

その他、最近ちょっと日本の新しい作家のものも読んでおこうと思ったりした頃に読んだ本。

宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』
(等身大で普通にいい話だった。)

西加奈子『炎上する君』
(なかなかとっ散らかっていて楽しい。)

西加奈子『窓の魚』
(ああ「作家」ってこういうことなのか。ぜんぜん好きじゃないけど、巧いなと思った。)

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』
(私が読書に求めるものが何かということはさておいて、読んでいて楽しいか幸せかもさておいて、「この人の書きたいこと」には共感できる。エッセイを読んでみたい。)

ジェラルディン・ブルックス『マーチ家の父』
(オルコットの『若草物語』では戦争に行ってほとんど不在だったお父ちゃんが、戦場でどんな日々を送り、何を思っていたか。ジャーナリスト出身の著者ならではの着想が素晴らしい。でも、『若草物語』にはこの付録は必要ないんじゃないかと思う。オルコットが書いた豊穣な物語に対して「俺だって色々あってしんどかったんだ」と応えちゃうような、なんか身も蓋も無い物語。)

以下、そのうちちゃんと感想を書きたいけど今回はちょっと挫折な、愛おしい本たち。

リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』
イヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』
キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』(再読)
メグ・ファウルズ『メリディアン144』

それでは、今日はこの辺で。
おやすみなさい。
Designed by aykm.
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