la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
かくも愛に満ちた残酷小説/どくしょきろく
「恐怖こそ真の敵だ/恐怖は世界を支配する/社会を操作する便利な道具だ」
(映画『シングルマン』より、主人公の言葉)


映画を観たのはずいぶん前で、今回は映画じゃなく本のことを。

数日前にふと、そろそろ読書低迷期が終わるような予感がして、久しぶりに図書館へ。
ラウラ・エスキヴェルの『赤い薔薇ソースの伝説』を見つけ、ル・クレジオの『春その他の季節』を見つけ、それとのタイトル被りでガルシア・マルケスの『愛その他の悪霊について』を手に取り、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を再読しようと手に取り、仕上げにディケンズの『二都物語』を追加。

『赤い薔薇ソースの伝説』(ラウラ・エスキヴェル、80点)
これは以前、高山なおみのエッセイで「唐辛子入りホットココア」のエピソードを読んだときからずっと観たいと思っていた映画、の、原作。料理×マジックリアリズムという、私にとっては「つまらないわけがない」取り合わせなのだけど、食材の名前に馴染みがなかったりで出来上がりの匂いや味をうまく思い描けなかったのが悔しい。やっぱりこれは映画を観なきゃ収まらないなと思った。本によっては訳注が多すぎて煩わしいことがあるのも確かだけれど、これはもう少し、レシピ部分に訳注が入っても良かったな。

『春その他の季節』(ル・クレジオ、85点)
表題作はそんなでもないけど、その他は内省的、思索的、独り言に似た短編集。
途中から、クレジオじゃなくタブッキを読んでいる気になっていた。あれ? タブッキ借りてきたんだっけ? と思って表紙を見直したり。そこにタブッキの名前が書いてあっても驚かない感じ。
男性作家が描く少女というのは、それが主人公であってもなくても、私にはすんなり受け入れられないことが多い(理性を惑わす気まぐれで残酷なニンフとか哀れで無力な孤児とかトラウマを背負った娼婦とか、最たるものでは人体改造された異能者とか)。でもクレジオの描く少女にはそういう違和感がない。表題作にはスティーブ・エリクソンの『真夜中に海が~』と似たところ(特に他者からの性的干渉の場面とそれへの反応のしかた)があるなあと思いつつ、読書/書評ボルテージがまだ戻り切っていないのでそれ以上の追及は諦める。

『愛その他の悪霊について』(ガルシア・マルケス、85点)
これです。かくも愛に満ちた残酷小説。
この物語が終わった後、彼らはみな一様に言うのだろう。「そんなつもりじゃなかった」と。
理性的に読むならば、明確に宗教や宗教的権威、集団内での権力に対する批判が込められた物語だと言える。けれど、ここに描かれた悲劇の原因は、決してそれだけではない。人間の善意や愛情が生のまま(きのまま、じゃなく敢えて、なまのまま、と読んでください)描かれ、善意や愛情ゆえになされた判断が、一人の少女の運命を決定的に狂わせ破滅へと追い込むのだ。
人を愛することは所詮エゴなのだ、とか、そんなことではない。誰かを救おうとする気持ち、誰かを愛おしいと思う気持ち、そういう「生の」祈りがよりにもよって最悪の結果を招くという、悪意ゆえの残酷さよりなおたちの悪い成り行きを、この小説は描いているのだ。痛切な愛に満ち、なおかつ徹底して残酷な物語。読むことに喜びを覚えるのは無理だけれど、凄い、とは思う。その無理さと凄さとの均衡の結果、85点。

ひとまず、今日はここまで。
ディケンズの『二都物語』はまだまだ序盤だけど、意外に読みやすくて(ちょっと児童文学風?)、面白くなりそうな気配。
あとは読書欲が低下する直前に読んでいた本の備忘録(「どくしょきろく」にまとまる前のメモ書き)を載せておきます(ラインナップでバレるかもですが、夏の盛りに読んでた本)。
[かくも愛に満ちた残酷小説/どくしょきろく]の続きを読む
スポンサーサイト
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。