la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
どくしょきろく番外編/カラマーゾフの兄弟姉妹
高野史緒の『カラマーゾフの妹』。
相変わらずの「今さら読書」ではあるけれど。
ふつうに「どくしょきろく」を書いててどんどん激昂してきたので、独立してこれだけを記事にしてしまう。

あの『カラマーゾフの兄弟』のフョードル殺しから13年、イワンとアリョーシャが帰って来た(そして事件の真犯人が暴かれる)! というのでものすごく期待して読み始めたのだけど、読み進むにつれて幻滅が重なり、最後は「なんじゃそりゃ」と目をむいてしまった。

万が一、というか万が一にもなさそうだけど、未読のかたでこれから読むかもな場合はスルーしてください。ネタバレ配慮、しようとしたけど無理でした。


『カラマーゾフの妹』(高野史緒、45点)

タイトルだけなら90点なのに結局その「妹」が本筋とぜんぜん関係ないとか。

真犯人がアリョーシャ、というのは「ああ! それアリ!」だと思えるのに、あのアリョーシャに勝手なヘンタイ嗜癖を付与するとか(そんな設定いらんっつうか、「無垢」と「狂気」のセットはちゃんとドストエフスキー的に「アリ」なんだから、そこにわざわざそんな風味をプラスするなんて無意味だ。ドストエフスキーが知ったら絶対、泡吹いて卒倒する)。

そんで唐突にバベッジの計算機械とか!! まあ、これは高野史緒らしいと言えばらしいけど、趣味に走りすぎというか、時代の一致ってだけでそれをカラマーゾフに持ち込むか?

最悪だったのが「え? 乗って飛んで行ったの?」っていうあのオチ(いま手元に本がないので、これは私が誤読した可能性もゼロじゃないけど、私の記憶の中では皇帝暗殺のための多段式ミサイルみたいなのに「乗った」??ことになってる。何で弾道計算されたミサイルに人が乗る必要があるの? 操縦しなきゃならないミサイルだったの?)。

著者の原典の読み込みっぷりはハンパじゃないし、謎解きとしても「ぜんぜんアリ」だと思えるのに(「三千ルーブリなんて最初からどこにもなかった」という説が特に面白い)、個々の登場人物がものすごく雑な読み替えられかたをしてる気がする。「人間」が類型的な「キャラクター」に嵌め込まれてしまったというか。原典をミステリとして楽しむ人もいるみたいだけど、ドストエフスキーの作品の魅力ってとことん「人間」だと思う(その「人間」を肯定するとか評価するという意味ではなく)。ミステリにおいては「事実」の整合性が大切なんだろうけど、ドストエフスキーを読むときに何時何分に誰それはどこにいて何をしていたか、なんていう事情聴取的な読み方をするのって、あんまり意味のあることじゃない。原典に書かれた各人の供述に辻褄の合わないところがある、というのも、ミステリなら致命的だけど、ドストエフスキーなら「そもそも人間の記憶なんて曖昧なものだし、思い込みやズレはあって当然」という観点からわざとやってても不思議じゃない。

しかしこのタイトル、この小説にはあまりにももったいないと思う(もとのタイトルは『カラマーゾフの兄妹』だったらしくて、そのほうが正しいのだけど)。趣味的に、「同タイトルで他の人に、できれば島田雅彦か佐藤亜紀に書いて欲しい!」と熱望してしまったり。

うーん、私ならどう書くかなあ。
もちろん、書けないよ。書けないけどね、このタイトル、あまりにも「妄想欲」をそそるんです。だからちょっとだけ妄想。

真犯人がアリョーシャ、という解釈を引き継ぐとしても、タイトルが『妹』なんだから、その妹が鍵にならなきゃ嘘だろう。
グルーシェニカが実はフョードルの娘で、「妹」というのは彼女のこと、というのはどうだろう?
たぶんミーチャは知らなくて、ひょっとするとグルーシェニカも知らなくて、知っていたのはスメルジャコフだけだったり(フョードルが知っていたかどうかでトーンが分かれる)。ある時スメルジャコフからそれを知らされたアリョーシャは、フョードルとミーチャにその事実を伝える。フョードルは鼻で笑うだけだが、ミーチャはショックのあまり幾らか錯乱する(派手に金を浪費したりするのはこのせい)。アリョーシャの動機は飽くまでもグルーシェニカを救いたい一心、ということで問題ないだろう(「無垢」と「狂気」がこの辺りから混ざり始めるのはアリ)。事件後はミーチャもイワンも、実はスメルジャコフさえも、アリョーシャを庇うために行動したのだと解釈する(ミーチャが負った罪は飽くまでも、「知らなかったとはいえやらかしちゃった」自分の罪で、父親殺しの罪はついでに被ったに過ぎない)。スメルジャコフは自分を実行犯だとし、イワンにはそれを唆した役を与えて罪を共有し、うーん、スメルジャコフに限ってあり得ない気はするけれど、自分が実行犯だということを世間に知らしめるために自殺したと)。

あ、でもグルーシェニカってけっこう歳いってるんだっけ?
その辺は、原典読んだのがもう十年近く前なので、極めてあやふや。

でもアリョーシャが将来革命に走るからと言って、それが間違った動機である必要はない。まあ、私はアリョーシャ好きだしアリョーシャは『白痴』のムイシュキンの系譜だ(と信じている)から間違ってもヘンタイのレッテルは貼りたくない、というだけなんだけど。

そう、何がいちばん頭に来たかって、どうしても狂気を描く必要があったにせよ、せめて美しく描いてほしかった、ということなんだ。
って、そこかよ、自分。

↓追記、近況報告↓
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為す術もなく、見ているだけの痛みと欺瞞
今日のこの日が、将来、不戦への誓いの記念日になればいい。

集団的自衛権、容認。
あまりにも大きなものを無視して。
あまりにも大きなものを踏みにじって。

国民を守るためには、ちゃんと個別的自衛権というものが、もともとの憲法で認められているのに。

いったい、何のために。

もちろん、その答えは薄々、解っている。
少なくとも、それが「国民を守るため」でないことは。

この閣議決定は、たとえば明日にでも戦争が起こるとか生活が一変するとか、そんなものではない。
けれど、これまでずっと大切に守り、誇りにしてきた「理念」を、卑俗な権力や利益の泥沼に引きずり降ろしてしまった。
腰が抜けるような奇妙な空振り感を味わいながらも、これで終わりじゃない、と、強く思う。思おうとする。
いちばん強い箍が外れてしまった、という、絶望的な衝撃はあるけれど。
それでも、まだ終わりじゃないんだ、と。

引きずり降ろされたって理念は理念、泥に塗れたって日本国憲法は日本国憲法だ。
私たちが守るべきものは、まだすっかり失われたわけじゃない。

だから。
だからこそ、守るべきものを守るために、今、何かしなきゃならないんだ。
デモに参加する人たちの動機がどうとか、知識がどうとか、やれ感情的だの自己満足だの、そんなことはどうでもいいのだ。
問題はただ、何かするか、何もしないか。

本当は首相官邸に行きたかったのだけど、遠くて行けないので、近日中に京都府内のデモに参加したいと思う。
一人で行くのはかなり勇気がいるけど(家人が「行かない」と断言したのに半ギレになりつつ、でも強制するもんでもないしね)、ここで行けるか行けないかが、何だか今後の自分のありかたを規定してしまうような、そんな気がしている。

行けますように。
誰だか知らないけど、私に力をください。
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