la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
民の声にもまともな声がたまにはある
「天の声にも変な声がたまにはある」
(福田赳夫/再選確実と思われていた総裁選で惨敗したときの言葉)


もう少し政治のことを勉強しなければと思って、それでも頼るツールがgoogleのみ、というところに自分の軟弱さを感じつつ。
そしてインターネットの情報はこちらのメーターが簡単に振り切れてしまうくらい(カルト的に)錯綜していて、ロッキード事件のことを調べていたらいつのまにか「福島の原発事故はアメリカの陰謀だった」とかいう話に紛れ込んでしまってくらくらする。

それでも、偶然たどりついた個人のブログがはっとするほど理知的で地に足の着いた論評をしていたりもして、そういうページに行き当たるとすごく力づけられる。
集団的自衛権の容認とか、原発の再稼働とか、それこそ今後の日本に半永久的な影響を及ぼす(というか、今後の日本のありかたを決定的に変えてしまう)安倍政権のあれこれは、もうほとんど正視に耐えないくらいなのだけれど、いったい本当のところ何がどうなって、どんな人がどんな理由で安倍政権を支持しているのか、いち庶民&いち有権者たる私には実態がさっぱり解らない。

少し前、「今の憲法じゃ、やられたらやられっぱなしになってしまう」という意見について触れたことがある。
私はいくぶん感傷的に「たとえやられっぱなしでも死人の数は少ないほうがいい」と書いたのだけれど、本当は、これはそういう感傷以前の問題なのだ。
つまり、今の憲法でも、やられたらやり返せる(つまりそれが「自衛」だし、それも自衛隊のお仕事のひとつだ)ということ。

だから、安倍政権が集団的自衛権にこだわるのは、別に国民を守るためじゃない。

「憲法の拡大解釈」という手段は、ぐんにゃりしていてとても気持ちが悪い。これは正面から改憲を主張するよりもっとずっとたちの悪いやりかたで、いったんそんなことが可能になったら「憲法」はまるごと有名無実なものになってしまう。
たとえば個人と個人で、「私とあなたはお互いに傷つけ合わない」という不可侵条約的な約束事をしたとする。今の安倍政権がやろうとしているのは、その約束をした後に「私」と「あなた」の定義を問うようなもので、「『あなた』とは何か」を突き詰めることで「あなた」の範囲をたとえば「魂」とか「肉体」とかに限定して、本来「あなた」に属するはずの「あなたの周辺」を傷つけることができるようにしてしまう、そんな行為だと思う。

言葉の意味を愚直に問い直すことは、それ自体はとても大切で有意義なことだ。
けれど、何かの意図があって、しかも解答を先に用意しておいてそれを問い直すのは、とても狡猾で危険なやり口だ。

ずいぶん回りくどくなってしまった。
たぶん、「結局、なにが言いたいのか」は伝わるんじゃないかと期待してはみるけれど。
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どうでもいいことの、どうでもよさとどうでもよくなさ
「香水をつけない女性に未来はない」
(ポール・ヴァレリー)


ココ・シャネルの言葉ではなく、ココ・シャネルが愛した詩人ヴァレリーの言葉。
たぶん、ヴァレリー的に突き詰めると、香水をつけない女というのは(自意識過剰の反対で)自意識が極端に足りない、とか無頓着すぎる、とか、もっと言ってしまえば「無精」ということになるんだろう。
でも消臭殺菌大国たる現代日本において、「香水をつけない女性」が無頓着だったり無精だったりするかというと、そんなことは全然ない。
むしろ、強烈な香水の匂いを漂わせて辺りを闊歩する人のほうが、自意識が足りなくて無頓着だ、と思うくらいだ。

その最たるものが、食事の席に強い香水をつけて来る人。香りの強い整髪料とか制汗剤とかも込みなのだけど、「ごはん」を食べるときにシトラスやらローズやら石鹸やらムスクやらの匂いを振り撒くのって、ほとんど嫌がらせだ。
前の職場で、いつも清潔感のあるシャボンの香りのヘアコロンを使っている人がいた。
本当にいい香りで、更衣室で一緒になると嬉しかったりしたのだけど、一度、飲み会のときにその香りが急に鼻について、以来どうしても受け付けなくなってしまった。
それ単体でなら、間違いなく「いい香り」なのだ。でも、清潔感にあふれていようとエキゾチックで魅惑的だろうと瑞々しくフルーティだろうと甘く誘惑的だろうと、つまりそれらはことごとく、「ごはん」とは相容れない香りなのだ。

駅の構内とか雑貨屋さんとかで出くわすのはまだいい。時には、「なんかこの人いい匂いする」と思って、さりげなく後ろを歩きながら嗅いだりもする(うーん、フローラル&フルーティ)。
でもそれがスーパーの食品売り場だと、途端にげんなりしてしまう。

結局、「いい匂い」とは何か、という問いに行きつくのだけれど。
私にとっては草と土の匂いであり、庭で育ってるバジルやらミントやらフェンネルやらの匂いであり、煮込み料理やら焼き魚やらガーリック&オリーブオイルたっぷりのパスタソースやらの匂いだ。美味しいコーヒーや紅茶、時には(甘いもの苦手な私でも)カカオやキャラメルの香りにうっとりしたりもする。

でも結局、人工的な「香水」の香りというのは、決定的に「食欲」と喧嘩する。
それで私はどっちを取るかと言うと、それはもう、言うまでもなく。

そんなこんなで、私に言わせれば、「香水をつけすぎる女性に未来はない」。
ムスクの香りを嗅ぎながら白身魚のカルパッチョを食べるなんて、悪夢です。拷問です。
華やかなバラの香りを身にまとうなら、スーパーの鮮魚売り場に用はないはず。
赤ワインを買いに来るなら、フレッシュなシトラスの香りなんか必要ないはず。

というか、バジルの香りの香水とかって世に出ないのかなあ。
と、庭のバジルをちぎりながら考えてた。
ブルグミュラーについての悲喜こもごも
ブルグミュラーというのは、もちろん、ピアノを習う子どもたちが小学校くらいで出会う作曲家だ。ヤマハがピアノ教則本として採用している『25の練習曲』は、それぞれに抒情的で曲風をイメージしやすいタイトルがつけられ、実に表情豊かで、難易度は低いものの基本的なテクニックがひと通り盛り込まれた、非常に充実した曲集だ。

私はいわゆる「ピアノ挫折組」だ。子どもの頃は近所にあったピアノ教室に通っていたのだけれど、ピアノを弾くのは全然、好きじゃなかった。しかも「弾けるようになる前の練習を聴かれるのが嫌だから」という、今から思うと「何じゃそりゃ」としか言いようのない理由で練習を一切せず、週一度のレッスンに毎回「初見」で挑んでいた。
『ソナチネ』の途中でさすがに初見では追いつかなくなり、ピアノが苦痛でしかないことを大っぴらに認めてすっぱりやめてしまったのだけれど。

大学時代に、講義の終わった後の教室で、友人がそこにあったピアノを何気なく弾くのを聴いて(ショパンの『幻想即興曲』だった)、「ピアノを弾く」というのは本当はもっとずっと楽しく、豊かで、自由で、満ち足りたものなんだなと思った(その時にそのままそう感じたかどうかは解らないけれど、いま私の記憶の中ではそういうことになっている)。
以来、調律もせず放置されている実家のアップライトピアノを、ちょくちょく弾いていた時期がある。もちろん『ソナチネ』で挫折したクチなので、ろくに弾けはしない。古いバイエルの練習曲をジャズ風に弾いてみたり、『エリーゼのために』を無駄にポップに弾いてみたり、あとは弾けないけど好きな曲(『展覧会の絵』のプロムナードとか、シューマンの『子供の情景』とか、モーツァルトのピアノソナタとか)を、同じ小節をひたすら練習しながら弾いたりしていた。

ピアノは、実は、ちゃんと弾けなくてもそれなりに楽しい。
鍵盤を押さえれば、音は鳴るから。
ペダルを踏みながら単純なアルペジオを鳴らすだけで、うっとりできる。
でも自分がピアノを「習っていた」時は、そんなことには全然、気がつかなかったんだ。

大学時代にピアノを「再発見」した頃、いちばん楽しんで弾いたのはブルグミュラーの『25の練習曲』だった。子ども向けの簡単な練習曲集。それでも、『牧歌』とか『清い流れ』、『さよなら』、『なぐさめ』『小さな嘆き』『アベ・マリア』『天使の声』『貴婦人の乗馬』等々、思いきり情感を込めて弾けばそれぞれに魅力的な楽曲が満載だった(何より簡単なのがいい)。

子どもの頃、ピアノの音がどんなに綺麗なものか、それを自分の指で鳴らすことがただそれだけで歓びになり得るのだということを知っていれば、もう少し続けられたのかな、と思う。

ピアノについては、ほんとに、練習しなかった悔いとかレッスンが憂鬱だったこととか、発表会で『ライオンの行進曲』とか『インディアンの踊り』とかいう曲ばかり弾かされたとか、恨みがましい記憶が満載なのだけど(今ならその選曲をむしろ歓迎したのに。でもピアノの発表会って、なんかベロア地のワンピース着せられたりしてたから、確かにそんな格好でライオンやら何やらを表現するのってちぐはぐだよね。一色まことの漫画『ピアノの森』で、髪シニヨン&ワンピースだった我儘お嬢様が髪を下ろして白シャツ&ネクタイでコンクールに挑む姿、あれは個人的にすごくツボだったなぁ)。

とにかく、何とはなしに、ピアノを弾きたいなあと思う今日この頃。
その欲求が微妙に、「カラオケ行きたいなあ」に変換されてしまう、今日この頃の脳内。
take me home, country road
Country road take me home, to the place I belong...
(『カントリー・ロード』/ジョン・デンバーの歌)


聴くたびに何とはなしに涙の滲む歌というのが、何曲かある。
悲しくて泣くわけじゃなく、淋しさでも憤りでもなく、かと言って歓喜の涙でもない。

たとえば幼い子どもが親とはぐれた場合、不安と緊張に押しつぶされそうになりながら闇雲に親の姿を探し求めている間は、まず泣かない。
子どもが泣くのは無事に親と再会した、まさにその瞬間なのだ。

ちなみに、私が泣く理由はたいてい次のうちのどれかだ。頻度の高い順に挙げるとこうなる。
① 怒りと悔しさ
② 気分転換
③ 安堵
④ 絶望

たちが悪いのは④くらいなものなので、私は私の涙をそれほど重要視していない。基本的に泣き虫なので、たぶん他の人に比べるとかなり日常的に泣いているせいもあるだろう(むしろ私が泣くことで必要以上に周囲を動揺させてしまうと申し訳なくなる)。

結婚式の定番になっている讃美歌「いつくしみふかき」もそうなのだけど、この「カントリー・ロード」も、聴くたびに何故かじんわり泣けてくる歌だ。
いったいどこで泣くのか?
それは、「the place I belong」つまり「自分が属する場所」という一節。
いささか思春期の青少年じみていて気恥ずかしいのだけれど、私には、「自分が生まれ育った場所」を「=ホーム」とか「=自分が属する場所」とする認識がない。子ども時代を過ごした土地が嫌いだとか、自分の家族と折り合いがつかないとか、そういうことは全然ないのだけれど、自分が属する場所というのがいったい何処なのか、いい歳をして今までずっと解らずに来た。

でも最近、唐突に、それが解ってしまった。
土と草の匂い。
樹木の匂い。
川辺の砂の匂い。
それは、私自身の幼少期の原風景とは、厳密にはつながらない。
それでも最近、私は自分がそこにこそ属しているのだと、強く感じる。

生まれ変わりとかのスピリチュアルな話題に抵抗があるんでなきゃ、私は間違いなく、自分の前世は沢蟹かなんかだったと確信していただろう(その昔、コックリさんは私の前世を「土鳩」だと断言したけれど)。でも前世や来世をこれっぽっちも信じていない私は、もう少し理性的に理屈っぽく、こう言おうと思う。「自分の属する場所って、そんな限定された土地とか家族とかじゃなくて、今あるこの『宇宙』だよね」と。
あらら、何だか余計にスピリチュアルっぽくなっちゃうな。

土と草の匂いを感じるとき、
樹木や川辺の匂いを感じるとき、
私は間違いなく、「the place I belong」=「私が属する場所」をそこに見出している。

自家焙煎のコーヒーの香りも、もちろん完全無欠の幸福ではある。
けれど、どんな上質なコーヒーも、土と草の匂いには勝てない。

京都南の某キャンプサイトで、深夜まで騒いでる人がいたり怖くて一人でトイレコーナーに行けなかったりしても、身体の下に地球を、頭上には宇宙を、五感でめいっぱい感じながら過ごす夜は幸せだった。

人間は、もちろん辛くて泣くことのほうが多いけど、幸せで泣くこともある。
何より安堵の涙こそが、世のすべての涙の中で最も祝福されるべき、稀有な美しさを持った涙だと私は思う。
ありふれてはいるけれど、なおかつ稀有な涙。

Belong、所属することについての困難な議論はさておいて、いや、さておかず、つまり私は「自分が所属することを、この宇宙/自然に対してだけ許す」のだ。
ああまた厄介な話になってしまう。
今日のところは、それはさておいて、稀有な幸福の記憶をひとつ重ねて、そろそろ眠ろう。

可能ならば世のすべての人に、不可能ならば一人でも多くの人に、安堵の涙と平和な夜を願いつつ。
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