la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
狼が目覚める夜/時計に蟻がたかる夜
「…、自己の存在を頑なに保持し続けることが結果として他者に徳をなすのであり、人間のこの本質的な性向のうちに自己の幸福は見出されるのだと。」
(『不在者の祈り』/タハール・ベン・ジェルーン)


狼が唸る。
本当に、毛を逆立てて唸る。
感情が暴走するというよりは、かなり理性的な判断によって、私は私の感情を解放する。
安心してるんだ結局、と思う(解放しても大丈夫だと思うからそうする、という意味で)。
同時に、警戒してもいるんだ、と(解放する時にも子供が駄々をこねる風を装ってしまう、という意味で)。
本心を言えば、私はこの狼を飼い馴らしたくない。
むしろ、この狼の気の向くままに、「闘争」の領域へスイッチを切り替えたい。
やってみれば、できるかもしれない。
私になら。
まして、今なら。

けれど、リスクがないということは、安心材料であると同時に不安材料でもある。
暴走の危険性。
今のところ、いちばん身近にいる相手が極めて理性的なので、狼の首にはリードつきの首輪がついていて優しく引き止められている。
それでも、うなじの毛は逆立つし、唸り声は止められない。
狼的には、引っぱられると余計に反抗したくなる。

そんなややこしい夜なのに、いま私の部屋のサイドボードの上で、目覚まし時計がしゃっくりを起こしている。
電池が切れかけてるんだろうと思って新しい電池に変えると、ぴたりと静止してしまう。
ささくれだった気分に任せて(お約束的に)時計の側面を何度か、手のひらでパン、と叩いてみる。
動かない。
あらためて注視して初めて、蟻がたかってることに気づく。
かなり小さくて赤っぽい蟻。
色的には、きわめて美しい蟻だ(私の大好きなガーネット色~暗褐色へのほとんど神秘的なグラデーション)。
行列を作って食べものを運んでいる様子はない。目覚まし時計の底あたりと、文字盤の中にだけ、数匹いる。
数えたところ四匹。
たった四匹じゃ「たかってる」と言うほどのことはない。周囲をくまなく調べても、他のどこにもいないし、どこからやって来たのかもわからない。
何故?

私は、時計のいわゆる「コチコチ音」が子供の頃から苦痛だったので、「コチコチ音のしない時計」が徐々に市民権を得ている昨今、「ああ苦痛なのは私だけじゃなかったんだ、供給する側が無視できないくらいの需要があるんだ」とありがたく安堵している。というわけで、私の部屋にあるのは「コチコチ音のしない時計」、つまり不眠がちな私の夜をあの「貴重な休息の時間を削ってゆく焦燥感あふれるリズム」から解放してくれた初めての時計だ。

秒を「刻む」ことをやめ、ゆっくりなめらかにすべってゆく秒針。
時の流れを「カチ、コチ」という脅迫的な心拍から解放し、「途切れることなく流れ続ける」という本来の時間の概念に寄り添う、画期的な機能。

その時計がいま、蟻にたかられてるんである。
そんで挙動不審というか、不整脈というか、「ジジ、ジジジ…」というような音を立てて苦しげに遅れがちになっている。

とりあえず、目に見える蟻を(しばし観察したのち)駆除してみる。
すると、何事もなかったかのようにまたなめらかに動き出す。

蟻のせいなのか?
そうなのか?

元来、私は自然豊かな(つまり虫も豊かな)木造住宅で幼少期を過ごしたので、今さら蟻ごときには動じない。
でも、蟻というのは食器棚にしまってある蜂蜜瓶なんかにたかるもんだと思っていて、そういう場合は蟻の通路を輪ゴムの切れ端で遮断してやれば良いという田舎的知恵も備えている。

しかし、時計にたかる蟻というのは初めて見た。
もしかすると私の時計は、私が思っている以上に、甘くて美味しいんだろうか。
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幸福の技法
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」
(日本国憲法第十二条)


憲法第十二条、意外と知られていない事実。

だって、憲法が保障しているものを保持するために不断の努力をしている人って。
普通、身近にいます?
思い浮かぶのは九条を守る会くらいで、家族や友人や職場の人とか見まわしても、そんな人いない(反原発のデモに行くくらいはあるけど、だって「不断の努力」だよ?)。
それ以前に、憲法によって「自由」と「権利」が保障されてると、ちゃんと思えてる人って。
むしろ憲法によって「戦争する自由」と「戦争する権利」が阻害されてると思ってる人のほうが多いのじゃないかと、昨今は思ってしまったりもするわけで。

でもね、国同士のいざこざを腕ずくで解決したいなら、代表者同士が腕相撲かなんかして決めればいいと思うんだ。
国と国とで勝ち負けを決めるのに何十万人とかが死ぬ必要はないし、これ以上、地球環境を汚染する必要もない。

ひとつ、私が改憲に反対するのは、戦争が嫌だから。
ひとつ、何で戦争が嫌かというと、そこには苦痛と狂気しか見えないから。もっとぶっちゃけて言うと、無駄なことが多いから。

無駄な恐怖、無駄な苦痛、無駄な死。

「憲法がこのままでは、やられたらやられっぱなしになってしまう」という理屈に対しては、人間愛&風土愛には満ちているけど愛国心だけ皆無な私はこう指摘する。「死人の量が少なく済むならその方がいい」。
だって、やられてやり返したら、死人の量は倍じゃ利かない。
戦争の特需が欲しいのは解るけど、人を殺すための経済活動ってどうなのかね。
人口抑制とか背筋の冷たいことを言い出す人もいるけれど、賢い気でいるんだろうか(ああいう人たちって、自分や自分の大切な人が死ぬっていうことに対して何の不安も恐怖も感じないのかな。既にそんなもの超越した神様目線で生きてるのかな)。

とりあえず、「不断の努力」ができずにいるへたれな私は、ここで「憲法九条にノーベル平和賞を」という活動の、ネット署名できるページへのリンクを貼っておきます。
とても、とても面白く、有意義で、今まさに必要な活動だと思います。
賛同して頂ける方はこちらから。

※当ブログから賛同された方は、メールにてご一報いただければ幸いです(管理人の自己満足のため)。
ほとんど知り合いだけだと思うのでアドレスは載せません。アドレスご存じない方&匿名ご希望の方は、良ければコメント欄でお知らせください。
暮らしを共にする、諸々の生きものについて
引っ越しと言えば、幽霊話がつきものだ。
というのはもちろん嘘で、したがる人は多いけど滅多に体験できないのがその手の話だ。

私が昨年末に引っ越した先は結構な田舎で、春を迎えたこの頃は木々のざわめきと鳥たちの囀りで目を覚ます日々。もともと私は田舎好きなので、この環境はかなり嬉しい。囀りを聴いてそれが何という鳥か解ったら素敵だろうな、と、野鳥について調べたりもしている(目が悪いので、裸眼でバードウオッチングができないのが歯痒い)。

そしてそろそろ、冬のあいだ姿を消していた生きものたちが、目を覚まして活動を始める時期だ。
まずはヤモリ。
ルックスがかなり可愛いので、私はヤモリを(たとえ「家守り」という名前でなくても)「暮らしを共にする仲間」として既に認定している。カーテンを開けた時に窓のサッシから慌てて姿を消されたりすると、驚かせてごめんね、と申し訳ない気持ちになる。
それから、タカアシグモ。
昆虫類にずいぶん寛容な私でも、蜘蛛と蛾はどうしても苦手だ。でも、タカアシグモはどことなくユーモラスな姿をしていて、実害もないし、楽しく共存できそうだ(「最強のゴキブリハンター」の異名もあるし)。

だから、田舎に引っ越して困っているのは、ヤモリや昆虫や蜘蛛のせいではない。

実は、幽霊なのだ。
夜な夜な私の部屋を訪れる、どこの誰とも知れない幽霊。

ヤモリやタカアシグモ同様、実害はない。
むしろ、生身の人間よりずっと礼儀正しく、おとなしい。
控えめに私の部屋のドアをノックして、こちらが返事をしなければ決して入っては来ない。
招き入れてやると、私の勧めた椅子に座って、「こんばんは」と言う。
でも、何故だか夕立に遭ったみたいにびしょ濡れなので、床にぽたぽた雫が落ちる。どことなく愛おしい感じがするので無碍に追い払う気にもなれないのだけど、これは困る。

基本的に私は、どうしても嫌だと思うことは、はっきり相手に伝えることにしている。だから、ほんの少し会話をした後で「これ以上、床が濡れると困るので…」と丁重にお引き取りを願うのだけど、幽霊は嫌な顔ひとつせず、「すみません、それじゃ、また」と言ってはにかみがちな笑みを浮かべながら姿を消すのだ。

「それじゃ、また」。
そんな挨拶のせいで私はいつの間にか、彼? 彼女? が再びドアをノックするのを、ひそかな楽しみにしている。

そんな4月1日。
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