la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
レオンという名のチワワのために
一昨日、昼下がり、住宅地の路地で。
高校生か大学生くらいの、バレー部のアタッカーのような印象の若い女性が、まっすぐに私と目を合わせて近づいてきて、いきなり「チワワ見てませんか?」と言った。一瞬、何を訊かれたのかわからなくて、「チワワ?」と鸚鵡返しに言ったのだけど、彼女の質問はつまり、この辺りでチワワ犬を見かけなかったか、という意味なのだった。
数秒してようやく私は、「いえ、チワワはちょっと、見てないです」とぎこちない返事をした。
「あ…そうですか」と低く彼女は答え、そのまま身をひるがえし、いなくなったチワワを呼びながら去っていった。
「レオーン?」と。

チワワという犬種は、あんまり好きではないのだけど、迷子になられてあれほど心配な犬は他にいないと思う。もちろん何犬であれ自分の飼い犬なら心配なのは当たり前だけど、チワワというのは非常に小さく、非常に短毛で寒そうでもあり、非常に目が飛び出ていて非常にぶるぶる震えているので、迷子でなくても世界のぜんぶに対して、非常に怯えているように見える。

愛犬レオンを呼ぶその声が遠ざかるのを耳で見送りながら、どこかからちっちゃなレオンがそれに応え、尻尾を振って駆け寄ってきますように、と、祈らずにいられなかった。

大丈夫、きっと今頃は飼い主のもとであったかくしてる。
そう信じてはみるけれど、あったかくしてても、チワワというのはやっぱり怯えたような顔をしてぶるぶる震えているんだろう。

うーん、チワワ、この薄倖なる生き物。
いや、チワワはチワワ的に幸福なんだろうけどもさ。

ともあれ、私はあのとき間違いなく、レオンという名の見知らぬチワワのために、真剣に祈ったんだ。

(“a dog who named Leon”)
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正しい猫の描きかた/どくしょきろく
「彼はいま、闘争という重大事に従事していて、パパとのめぐりあいなどに関心は持てなかったのだ。」
(『夏への扉』/ロバート・A・ハインライン)


そうなんだ。
これが、「正しい猫の描きかた」なんだよ。
たとえ懐かしい飼い主が現れたって、目の前の闘争をやめるわけにはいかない。
それでこそ猫だと、私は思うんだ。
お涙頂戴の絆って、それははっきりと、猫の領分じゃなく犬の領分だと。

ということで、どくしょきろくです。

有川浩『旅猫リポート』(55点)
面白く、読みやすく、笑えて泣ける、非常によくできた物語。それでも何かどこかが不愉快だと思いながら読んでいて、「いつか夏に繋がるはずって扉を開け続けた猫」ってああピートのことだ、あいつは猫文学史(?)上、最高の飼い猫だったよなあ。なんて思っているうちに、気がついた。これ、作為的すぎるんだ、と。この物語は猫(雄猫ナナ)の一人称=猫目線の語り、という体裁をとっているのだけど、この猫、とことん人間目線で解体+再構築された、「人間にとって理想の猫」なのだ。
人間→猫、という一方的な視線を双方向に通わせようなんて、試みるべきじゃない。そんなことをしたって一方的な視線が一方的な思い込みに変わるだけだ。だから私はこの物語に出てくる猫たち犬たちを、ぜんぜん、好きになれない。
ちなみに決定的な間違いを指摘してみれば、ピートは「扉を開け続けた猫」ではなくて「(飼い主に)扉を開けさせ続けた猫」だ(極めて重要な相違!)。

堀江敏幸『回送電車』(90点)
読み始めた瞬間、「最愛の随筆」の一冊にオンリストしてしまった。堀江敏幸はここで、「どうでもいいことであること、どうでもよくあること」の意味というかむしろ意義みたいなものを語っている。この人の、すごくどうでもいいことをすごく真摯に見つめる独自のレンズを通すと、「どうでもいいこと」が俄かに魅力的に息づくから面白い。つまりこの人の手にかかると「どうでもいいこと」は読み手にとって「ものすごく魅力的なこと」に変異してしまうので、結局この人の書く対象は「どうでもいいもの」であり続けることはできない(だからこそ私はこの人の本を読み続ける)。著者本人は、もしかすると、それを不本意だと言うかもしれないけれど。

アントニオ・タブッキ『黒い天使』(挫折)
何としたことか、タブッキが最後まで読めなかった!
他の訳者さんの翻訳に親しんできたので、これまで「タデウシュ」と表記されてきた名前が「タデウス」になっていたのが何だか歯がゆかった(決して拙い翻訳ではなかったと思うけど)。もう少し時間を置いて、再チャレンジしたい。

マルグリット・デュラス『アウトサイド』(70点)
社会の「外側」の人々に直接会って取材したインタビュー集。服役中の犯罪者とか。「外部とは内部である」という、解るような解らないような哲学者の言葉があった気がするけれど、この「アウトサイド」というタイトルの持つゆらぎが絶妙(単に社会の外側、という意味にも取れるけれど、「彼ら」にとっては社会こそが外側であり、取材者であるデュラスと彼らの関係にも同じことが言えるし、あるいは読み手にとっての、ということも言える)。派手に心を動かされたり、深い共感を覚えたり、讃嘆したりといったことはない。それでも、デュラスという作家に興味を抱くきっかけになった。

ミック・ジャクソン『穴掘り公爵』(75点)
イギリスやフランスで「爵位」のついている人に対して私は勝手なイメージを抱いていて、上から順番に公・侯・伯・子・男、となっているのを下から順番に解説すると、男爵は成り上がり者で品位に欠けたり胡散臭かったりする人が多く(どこだかの国で、男爵位だけはお金で買える時代があったせいだと思う。そうでなくても、文学において木から降りてこなくなったり大ぼらを吹いたりして世間を騒がせるのは大概この「男爵」だ)、子爵はスマートな気取り屋タイプ、伯爵は尊大で一癖あって(吸血鬼だったり、屋敷に謎めいた部屋を持っていたり)、侯爵は厳めしく融通の利かない感じ。そんで公爵になると、これは完全に突き抜けてしまって、凡人には想像もできないキャラクターになる(でも、どんな奇行に走ってもそれなりに愛され許容される)。とまあ、これは本当に勝手なイメージなのだけど。それにしてもこの『穴掘り公爵』は、突き抜けかたが半端ではない。素晴らしい。のらりくらりとした語りにはかなり苛々させられたけれど、書き手が狙ってやってることなのは明らかだし、最後は「そこまで突き抜けてたのか!!」と、呆然とした。まさに彼こそは「公爵」の典型だ。ただ穴を掘るだけなら公爵より男爵のほうが適任かと思うのだけど、この規模の突き抜けかたは、「公爵」にしか成し得ない偉業だ。

佐藤亜紀『醜聞の作法』(65点)
『金の仔牛』と似た系統の小説。余裕綽々で書かれた感じ。嫌いではないし、巧みなのだけど、あまり、後に残るものはなかった。佐藤亜紀に対する期待度がちょっと度を越してるのかもしれないけど、「これを書くなら別に佐藤亜紀でなくたっていいじゃん」と思ってしまったり。

シオドア・スタージョン『輝く断片』(60点)
何だろう、タブッキ挫折以来、ちょっと読書のボルテージが下がってるのかな。短編集の編み方として、私の嗜好と少し違っていただけなのかな。どうにも乗り切れなくて、あんまりよくわからなくて、消化試合みたいにして読んでしまった。あーあ。

ジェラルド・カーシュ『廃墟の歌声』『瓶の中の手記』(ともに90点)
短編小説にしかできない完璧な曲芸。どこにも、何にも属さない、奇妙な物語たち。下手をすると悪夢の原因になりかねない不気味さもあるのだけど、ウッドハウス調の軽妙さもあり、かなりバラエティに富んだ、充実した二冊だった。特に心に残ったのは『無学なシモンの書簡』、『豚の島の女王』、『ブライトンの怪物』、『時計収集家の王』(あと「カームジンもの」と呼ばれる一連の作も大好き)。度を越えて珍妙に思われるような奇抜な着想が、描き込まれる心理のリアリティと絶妙に絡み合って、読み終えたあと「人間」とか「運命」とかについ思いを馳せてしまう。もっと読みたい。

ウィリアム・ギブスン『パターン・レコグニション』(再読。85点)
この本は一見、すごくつまらない小説のように見える。ブックデザインと、表紙の見返しのあらすじのせいだ。「よくこれだけつまらなそうに仕立てられるなぁ」という印象。ギブスンは「80年代サイバーパンクの旗手」というイメージが強すぎて、コアなSFファンの目にしか止まらない、というハンディキャップを負わされているような気がする。だからこそ、現代アメリカを舞台にしたこの作品は、もうちょっと間口を広げる方向で出版されれば良かったのに、と思う。ともあれギブスンの小説では、何故だか男性より女性のほうが印象的かつ魅力的に感じる。『カウント・ゼロ』のマルリィ(この『パターン~』は、ある意味で『カウント・ゼロ』からマルリィのパートだけを抜き出して、舞台を現代に移してリライトしたような印象もある)、『モナリザ・オーヴァードライヴ』のチェリィ、『フューチャーマチック』のシェヴェット。敢えて言うなら、男性陣では『カウント・ゼロ』のルーディとスリック=ヘンリィが好きかな(ああ、変人好きがバレてしまう)。ともあれ、ギブスンには、長生きしてまだまだ新作を書いてほしい。

セネル・パス『苺とチョコレート』(75点)
これは、映画のほうが有名だろう(私は観てないけど)。革命の機運高まるキューバで出会った、革命家の青年と素性の知れない同性愛者の物語。ハッピーエンドではないにせよ、やりきれない思いで終わるわけでもない。つまり彼らの関係において、どちらの側の裏切りも裏切りとしては機能しなかったのだ、奇跡的に。これがロシアや東ドイツの物語ならこうはいかない(間違いなく、かなり陰惨なことになってた)だろう。何はともあれ、ラストの苺のアイスクリームが、見事なまでに鮮やか。

アクセル・ハッケ『冷蔵庫との対話』(70点)
いいね。ユーモア溢れる軽妙な語り口、字数の限られた「コラム」のまさにお手本と呼びたくなる巧みさ。毎回、最初の一行で読み手を惹きつけ、引き込んで続きを読ませ、適度に驚きや疑問を抱かせ、くすりと笑わせ、最後はキレイに落ちる。一冊の本にまとめられて何篇も一度に読むと、その計算され尽くした感が鼻についてくるけれど、新聞のコラムとしてはまさに「プロの仕事」。巧いなあ、と。

アリス・ウォーカー『勇敢な娘たちに』(90点)
強く、明るく、たじろがずに生きよう、と思わせてくれる一冊。プリミティヴに自由を求めること、生きることは本来、楽しまれてしかるべきだと確信すること。思い通りにならない日々の中ではとかく否定されがちな「楽観主義」を、生命のベクトルとして肯定すること。陳腐な言い方だけれど、生きる勇気を、その原動力を、あらためて提示してもらったような印象。小説ではないので90点だけれど、もし同じ気持ちをここまで鮮明に抱かせてくれる物語(フィクション)があったら、私はためらわずに100点をつけるだろう。そのくらい、今の私にとっては大きな糧となる読書だった。
バッドトリップの効用
「わたしはかなり間違えている。わたしは間違える権利を要求する。」
(『アウトサイド』/マルグリット・デュラス)


間違える権利は、本来、誰にだってある。
生まれてから死ぬまで一度も間違えることのない人なんて、絶対にいないのだし(間違えたことに気づかない人とか、気がついても認めない人とかは、たくさんいるけど)。

だからもうそんなに、怖がらなくていい。
大作家デュラスに向かって言うのではなく、他の誰に向かって言うのでもなく、私は自分に向かってそう言い聞かせる。
大切なのは、「かなり間違えて」しまった時に「かなり間違えている」と気づいて、それを認めることなんだ。
私はまだ、そのタイミングが、ほんの少し遅い。
頑固だし、思い込みは激しいし、いったん決めたら他のことは目に入らなくなるし(ほんの少しどころかめっちゃ遅いやん、という突っ込みは、入れるにしても最短で半年後にお願いします)。

でも、ほんとに怖いのは間違えることじゃなく、間違えることを許されないことなんだ。「間違えたくない、常に正解を選びたい」と願うのは、それ自体は別に悪いことでも何でもないし、むしろデュラスの引用を単なる「開き直り」と誤解されてしまうとそっちのほうが性質が悪い(「要求する」って、この言葉をここだけ引用してしまうとちょっと印象がきつすぎて誤解されやすいとも思う)。

それにもちろん、間違えないに越したことはない。

でもたぶん、自分が間違えなかった瞬間よりも、間違えたことを誰かに許された瞬間のほうが、ずっと深く心に残るものだ。表面的な心地よさとは別の次元で、もっと言えばはっきり痛みを伴う次元で(それでも否定的に言うのではなく)、「ずっと深く心に残る」んだ。

自分の間違いに対して開き直るのじゃなく、単なる許容/肯定を相手に求めるのでもなく、そう、たとえば心から「ごめんね」と言ったとき「うん、いいよ」と答えてもらえる、そんな感覚。

ここまで書いて、ああ、高山なおみのエッセイが読みたいな。と急に思ったので、読んでから寝ます。読んだら例によって泣くのかもしれないけど、たぶん、それも今の自分に必要なことなのだろう。
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