la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
図書館の悪魔/どくしょきろく
「You can’t judge a book by looking at the cover.」
(表紙を見て本を判断しちゃいけない。)
(Bo Diddleyの曲「You Can't Judge A Book By The Cover」の歌詞)


信じがたいことに、世の図書館には神様だけじゃなく、悪魔も潜んでいる。
今回はその、悪魔のほうの話。
というか、その話を含めた、どくしょきろく。

トマス・ピンチョン『LAヴァイス』(85点)
図書館の悪魔の仕業で、『重力の虹』が見つからなかった。こちらは何だかドライヴ感あふれるホットな探偵小説で、意外と普通に読めるな、と思いながら読んでたら、訳者のあとがきに「ピンチョンなのに普通に読める」と書いてあって笑った。ピンチョンって「がさつなウンベルト・エーコ」みたいなイメージを勝手に持ってたけど(なんじゃそりゃって、壮大で難解で謎解きし甲斐のある感じ、それのがさつバージョン。なんじゃそりゃ)、今回、これだけの構想を少しも失速せず駆け抜けるように読ませる文体力(?)のほうが印象に残った。翻訳も良かったんだろう。うん、面白かった。

パオロ・マウレシング『復讐のディフェンス』(65点)
図書館の悪魔の仕業で、ありふれたミステリだと思い込んでしまった。もちろんチェス小説だから借りたんだけど。「現在=死体発見」から始まっていったん時間軸を戻し、「事件に至るまでの数時間=列車での対話」が進行してゆく傍ら、「過去=『私』による回想」が語られる、という凝った構成。「私」の回想も現在から時代を遡ってゆく形で、物語の半ばまで来てようやく焦点となる時代が語られ始めた瞬間、読み手は突然ダッハウに始まる強制収容所の悪夢に引きずり込まれる。私は、読み終えた時にはもうボロ雑巾みたいになってしまった。ちなみに事件の「why」は明かしても「how」が謎のまま(読者の想像に任せるということなのか、私が暗示を読み落としただけなのか)。ミステリには分類できないと思うのだけど、邦題や表紙がミステリっぽすぎる(原題は“リューネブルグ・ヴァリエーション”)。

ジュリアン・バーンズ『太陽をみつめて』(挫折)
図書館の悪魔の仕業で、表紙が良かったので借りてみた。ことさら嫌な感じはしなかったのだけど、何故か、半ばまでもたどり着けなかった。悪魔の仕業とはいえ、不甲斐ない。

ジャック・フィニィ『レベル3』(60点)
図書館の悪魔の仕業で、正味の採点(75点)から15点マイナス。短編集。情緒豊かでノスタルジックな雰囲気(あ、『ゲイルズバーグの春を愛す』の作者だった)、ユーモアと人間愛に満ちていて、読んでいて気持ちよかった。じゃあ15点マイナスって何なんだというと、単に、私が高所恐怖症だから(ごめんなさい)。この本に入ってる『死人のポケットの中には』という短編が、もう、手に脂汗が滲んで目がくらんで動悸・息切れがするくらい怖かったのだ。ただそれだけ。※著者にも翻訳者にも出版社にも、いっさい落ち度はありません。

バルガス・リョサ『都会と犬ども』(90点)
ペルーの士官学校レオンシオ・プラドの日常を描いた物語。厳格なはずの士官学校で繰り広げられる完全な弱肉強食の世界。生徒たちは過激な暴力や残酷な狡猾さによって他者を踏みつけ、煙草や酒を買い込み、賭博をし、殴り合い、盗み、脱走し、売春宿に通う。そして、そんな実態を「将校たちは知らない」。物語は寄宿舎での日々と、三人の少年の生い立ちや外出時のエピソードとを、交互に描く。三人称で書かれる章段に時折、一人称のモノローグを挟んで。
最初は読了できないだろうな思っていたのだけど、彼ら(生徒たち、将校たち)がすごい力で私の腕を引っつかんでぐいぐい先へ連れて行くものだから、振り切れず、一気に読み切った。全体にいわゆる小説的な「仕掛け」まで施されていて(自伝的小説には珍しいかも)、驚いたのと興奮したのと。リョサがアレクサンドル・デュマを「理想」として挙げていることを知って、納得。面白かった、と言ってしまうにはあまりに強烈な一冊だったけれど、でも、面白かった、凄かった。

アントニオ・タブッキ『レクイエム』(95点)
リスボン、七月最後の日曜日、白昼夢のような手触りの物語。語り手が真夏の街を彷徨いながら、たぶん亡霊だったり生身の人間だったり夢だったり記憶だったり象徴だったりする人々と出会ってゆく。冒頭に「この本で出会うことになるひとびと」というページがあって、ジプシーの婆さん、タデウシュ(死んだ友人)、若き日の父親、模写画家、灯台守の奥さん、物語売り、などと列挙してある(ぜんぶで23人)。そして本編ではその一人ひとりについて、語り手が行き会ってまた別れるまでの一幕が描かれる。時には短い会話、時には長い語らい、或いは食事、昼寝、ビリヤード。ところが、23人中ただ一人、会っている間のことがまったく描かれない人物がいる(ページを飛ばしてしまったのかと一瞬、思う)。驚いたことにその、「描かれなかった人物」と「描かれなかった場面」こそが、他のどの場面よりも深く記憶に残るのだ(小説は印刷された言葉で成り立っているものなのに、印刷されていない場面のほうが鮮烈だなんて、凄い)。
「描かれた場面」の中ではアレンテージョ会館のボーイ長との一幕がいちばん好きだけれど(対話もいいし、ビリヤードの賭けもいい)、物語全体の中では、この「描かれなかった」場面、そしてその場面が「描かれなかったこと」が、いちばん好き(感傷的な見方をすれば、一度は書かれたのかもしれない)。
たぶんこの作品が、タブッキの著作の中では、私の最愛の一作になるだろう。
(まだ全作読んでない。というか、タブッキが2012年に死んでたことをさっき初めて知って、かなりショック。68歳、まだ若かったのに、と思う。ちょうどタブッキの小説を三冊借りてあったのが、何だか「追悼特集」みたいになってしまった)。

アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(85点)
「この本のおかげで私が作家になるとは、気がついていなかった」とタブッキは振り返っている(「第二版への注記」から)。つまりこの作品がタブッキの第一作。でも、「エピローグ」から始まる構成とか詩的な章題(「十年の歳月とひとつの時計」「公式には、夜の七時に」「ふたりに三つの占い」などなど)とか、イタリアの歴史(広場のモニュメントに象徴される)に対する視線とか、それに対峙する人々の描きかたとかが、既に完成された作家タブッキのもので、驚嘆する。
他のすべての作品の要素が含まれている、「素晴らしい作家の処女作」らしい一冊。
あともう一冊、『黒い天使』が手元にあっていま読んでいる最中。
未読の作品は、邦訳出版されてる小説だとあと二冊くらいしかなさそうで、悲しい。

ひとまず、今回はこの辺で。
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迷走アルトワークス/羊狼は何処へ
車の運転を始めて4日経った。
うち3日は1人で乗った。
そんで、迷子になる率が、100%なんである。

カーナビはないけど、ルート確認してあるし、行きは、ちゃんと目的地に着ける。
なのに何故だか、毎回、家に帰れないんである。
同じ道を戻ればいいのに、正しく戻れない。
引っ越したばかりで土地勘がないのは確かだけど、これはたぶん、そんな問題じゃない。

車に乗って迷子になるというのは、当然ながら、徒歩で迷子になるのと規模が違う。
交差点で右折と左折を間違え、「〇〇線」という標識だけ確認して(道は合ってる)安心したまま、家とは逆方向へ走ること数分。
なんか見覚えのない景色だな。
あらら。他府県に着いちゃう。と気づくんである。

ぶきっちょにUターンして、引き返す。
もとの交差点まで戻って来て、そのまま直進すれば良いものを、何故だか曲がってしまう。
もう、あとは方向音痴の本領発揮。
曲がるべきところをまっすぐ通過し、直進すべきところで曲がる。
あちこち走り回ってやっと遠くに見慣れた大きな橋が見えて、そこ目指して走って行って、この橋を渡ればおうちに帰れる、と思ってたら、あらら、この橋、T橋じゃなくってY大橋だ、渡った先の交差点はどっちに行くんだっけ、っていうかここ左折レーンだから左にしか行けないじゃん。

もちろん、正解は右折なんである。

南に行かなきゃならないのに、北へ向かってまっしぐら。
間違ってるのは解ってても、徒歩みたいに「回れ右」ってわけには行かない。
左側にUターンできる場所が見つかるまで、北へ走り続ける。
「私は、おうちに帰りたいだけなんだ!!」
心の中で絶叫しつつその「おうち」からどんどん遠ざかってゆく感じが、かなり情けなく心細かった。

けっきょく、昨日は一時間半くらい(!)迷走してた計算になる。
同居人いわく「最初からナビに頼ると、ナビがないとどこにも行けないドライバーになる」。でも私、「ナビがないとおうちに帰れないドライバー」なんじゃないだろうか。

うーむ、不安だ。
チーキィ・ピーキィ・トリックスター
「大量生産されるクルマといえども、自分の手に渡るクルマというのはそれしかない、この世でただ一台のクルマではある。」
(神林長平/『魂の駆動体』)


引用は、数年前にたぶん不本意な引用をしたことのある作家の、本来引用したかった本から。この一文のあとには、でもそれは理屈の上での話で、ただ一台のクルマとはいえ同じ形式のいわばコピーがたくさんあるのだ、と否定的な流れになるのだけれど、私は今ここで、この部分に対して肯定的に捉えて引用している。

ちなみに、私の免許はゴールドだ。
もちろん、ペーパーだ。
いや、ペーパーだった、十数年ものあいだ。

車そのものは嫌いじゃない。ただ、自分が運転するとなるとちょっと手に負えないというか、それなりに大きさも重さもある金属のカタマリをそれなりのスピードで操作するというのは、私には荷が勝ちすぎると思っていた(今でもまだ少し思っている)。自力では制御しきれないエネルギーを扱うこととか、それに伴うプレッシャーとか。ちょっと人類の、原発に対する感覚と似ているかもしれない(この記事の途中から私は車の運転を肯定することになるけれど、その辺は原発とは決定的に違う、と念のため、先に書いておく)。

それが、人生というのは摩訶不思議なもので、「車の運転なんて絶対しない/できない」と思っていた私が、ついに(?)「自分の車」を持つことになった。

教習所のペーパードライバー講習を受けること三回。一度目は教習所内を、ブレーキを緩めただけのAT車でのろのろと、ぐるぐると。二度目で少し慣れてきたところに、いきなり「じゃ、路上出てみましょう!」と教官の能天気な提案。広い道路だけをぱーっとヤケクソ気味に走って戻って来て。三度目の教習では、自分の生活圏を回らせてもらった。「はい、ぐーっと踏んで」。踏むって、もちろんアクセルをだ。「ぐーっと踏んで」って言われたって、あの、狭いんです、道が。電柱あるし、対向車来てるし、路肩に止まってる車あるし、通学路減速って書いてあるし、自転車走ってるし、おばーちゃん歩いてるし。
冷や汗かきつつ、「そこ左に入ってくださいー」って言われて初めて、教習所の前に戻って来てることに気づいたり。

車を買うことになったとき、もちろん新車なんて経済的に論外だし、中古の軽自動車、というのは絶対条件だった。そんで最初は、ぜったいワインレッドの車にする!と決めていたのだけれど、「運命の一台」だと感じたのは何と、白い車だった。
これらの日々を、確かに、したたかに
「…、こちらが何かすれば、向こうも何かして返してくれる、これでこれからもどうにか生きていかれる。」
(フリーライター森まゆみ氏のブログから)


最近、たまに覗きに行くようになった森まゆみ氏のブログ。
引用した部分は、「地産池消」に始まって「自給自足」を終点とした食文化の文脈で語られている。たぶん。

外でタイスキを食べたら美味しかったけど高かった、という話のあと、材料を買ってきてうちで作ってみた、という話になって、知人の手料理にも触れ、「この方がずっと嬉しい」と。

それから、「地域通貨などとわざわざいわなくても」と、引用部分が続く。

「これでこれからもどうにか生きていかれる」という言葉が、とても、とても、素敵。
そう、そうなんだ。
「どうにか生きてゆける」と実感する/確信するのって、まさに「ごはんを食べる」そのひとときなのだ。

まあ、単に食い意地が張ってるだけかもしれないけど。

高級なものを食べたいわけじゃない。ただ、ちゃんと素性の知れたものを食べたいと思う。
産地偽装なんて当たり前の世の中だから、それだけのことでも難しいのは解ってるし、そこにこだわると「贅沢」と紙一重のとこに行きつくのも解ってる。

でも、生きていく以上、不可欠かつダイレクトに摂取するのが「空気」と「飲食物」なわけで。
それだけのことが最終的には「社会」にかかってるのだ、というのを、このブログは思い知らせてくれる。

うーん、酒飲み&煙草吸いに言う資格はない、かもしれないけど。

森まゆみという人は、wikipediaでは「ノンフィクション作家」とか、「編集者」とか「市民運動家」と説明されている。
私の印象では、「地に足をつけて生きること」を徹底し、そこからの情報発信に尽力し、浮足立ったことや無駄なことをはっきり糾弾し、いちばん重要なのにないがしろにされたり踏みつけにされたりしている事柄を自分の足で確かめ、追及し、はっきりと世間に問い続けている人だ。

福島の原発事故のその後を、自分の五感と足と頭を使って追いかけ、考え、発信し続け、二度目の東京オリンピックについては誘致そのものの云々より関連施設の立地や規模を、その「必要性」を主軸にして、開催後の「未来」を踏まえて現実的に論じることのできる人。

ちょっと感傷的に言えば、誤解されやすく、攻撃されやすい人。
知性も強さも身につけていて、それでも繊細さを失わない人。
苦しみながらも闘い続ける人。
ついでに言えば、匿名で悪意を垂れ流すのが当然の「ネット」という魔界にあっても、その意欲を失わない人(余裕であしらってるように取られかねないリアクションをしてるけど、ぜったい違う)。

過剰な賛辞だろうか?
本人にとってはたぶん。
世間にとってもたぶん。
でも、私にとってはそうじゃない。

この人の文章を読むと、「今・ここ」で生きることの意味とか、「守らなければならないものを守ること」の重要さや大変が、すごくきちんと伝わってくる。

ただ漫然と平穏な日々を過ごせれば良し、というのじゃなく、日常の「大切さ」「貴重さ」プラス「脆さ」を自覚して、ちゃんと生きること、そんで「守るために闘う」こと。

何だか、最近傾倒している作家ル=グインと、共通するものを感じるのは私だけだろうか。
森まゆみとル=グインの対談なんて、読んでみたいな。
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