la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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フェアリィ・スクエアを夢みて
「気まぐれによる服従。」
(『パンセ』ブレーズ・パスカル)


失業して一ヶ月。
私が何をやっていたかというと、自慢できるようなことは何もしてない。
ベランダの植物に水をやって、自分にはごはんをやって、洗濯とか掃除とかして、あとは本を読んでた。
驚くべきことに、日々はそれでも過ぎてゆくのだ。
とても無為に、とても夢想的に。

たまにハローワークに行ったり、遊びに行ったり、実家に行ったり。
社会的な立ち位置は、紛れもなく「プー」(これは数日前に行った元・取引先の展示会でそこの人に言われた。実は先月末で退職しまして…と挨拶したら、目ん玉ひんむいて「それじゃ、プーじゃないですか!」という大仰なリアクション。でも不愉快な感じは全然しなくてむしろ清々しい感じ。なので私も思わず笑い出して、「そうなんです! プーですよ!!」と大仰に返事をした)。

半端な貯金が目減りするのは不安だし、「自分に半端な猶予を与えられるだけの蓄えがある」というのが良いことなのかどうかも確信が持てないけれど。
でも、今この時、「お金」よりは「時間」のほうが貴重なんだ。
自分のために使うもの、という基準で見るならば、圧倒的に、時間>お金、だ。
人のために使うのが容易なのは、お金>時間。
普通は逆、みたいだけれど。

だから、私は時間を惜しむ。
なんか実のある活動をしてないと自分の存在価値が揺らぐ、ということかもしれない。
それで、フェアリィ・サークル(アイルランドで、森の茸が円環状に生えるのを「妖精の足跡」として名づけた素敵な伝説)ならぬフェアリィ・スクエア(長方形に区切ったガーデニング用地)を、何だか祈るような気持ちで耕したりした今日この頃(そこにハーブガーデンを作ろうと勝手に夢想しているのだけど、あんまり勝手すぎるかも、と思いつつ今後の試行錯誤に任せる感じ)。

もとい、そういうこと(仕事についてぐたぐた言う奴がいたら何もさせないでおいてみろ、すぐに前言撤回するから、というようなこと)をパスカルが言ってたっけ、そういやパスカルって何で死んだんだっけ、と思って、『パンセ』を読み返したり(そうだよね、こんな生真面目で厳格なクリスチャンに自殺はできないよね)。
その分厚い文庫本のあちこちに、昔の自分が鉛筆で線を引いたり疑義を呈したりしていて面白かった(過去の自分が今よりもっとずっと、攻撃的で刺々しかったのを悟る)。

最終的には、自らの信仰を全肯定してしまっていることで、かつての私はパスカルを拒否したのだけれど(「原典と解釈の歴史…手に負えない」とか「奇跡を求める心理を否定しておきながらこの言い草は何だ!」とか「裸の王様!!」とか、汚い字で書き込んであって赤面する)。

それでもこの稀有な学者の一言一言には、徹頭徹尾、真正面から他者と対峙し、自分と対峙し、物事を突き詰める力が籠っている。
痛いけれど、自覚しておくべき言葉たち。

読み返して、鉛筆の線を何本か付け足して、最終的に訳者のあとがきでやっとすべてが落ち着いた。
「パスカルの比類のない誠実さと、読む者に突如として人間性の深淵の前に自分を見出させる力を持った驚くべき表現力と相まって、今でもなお、パスカルの結論に服さない者をも含む無数の人々の心をゆさぶり続けているのである」(太字強調は私)。

そう、私は確かに「パスカルの結論に服さない」。キリスト教の教えには共感するところが多々あるし、他のどんな宗教よりも「好き」だけれど、全肯定はできない。

それでも、パスカルは今でもなお、私の心をゆさぶる。

生真面目であることの病。
とうの昔に引き受けたはずの負荷だけれど、それは今でもなお、私の心を苛む。

うん、でも、そうなんだ。
それって、「とうの昔に引き受けた」ことなんだっけ。
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愛だけじゃ足りない/どくしょきろく
「結局、すべてはその中にこめられた愛情の問題である。」
(ジョゼフ・デルテイユ『旧石器時代の料理』/フィリップ・ジレ『フランス料理と美食文学』より孫引き)


予期していたこと。予期されてもいたこと。
久々に、素面のままのバッドトリップ。
淋しさを紛らわせる唯一の方法は、その淋しさを言葉に移し替えること。
丁寧に、ひとつずつ。
書くことで、その感情は分析され、整理され、固定される。
どんな恋も、どんな至福も。
どんな不安も、どんな絶望も。
言葉にしさえすれば、消化できる。
それでも消化しきれないものは、涙という「感情の嘔吐」にして流してしまおう。

さて。唐突に本題。久々の「どくしょきろく」です。

『フランス料理と美食文学』フィリップ・ジレ(85点)
美食についての本ではなく、美食文学についての本、のはずだった。
でもやっぱり、美食についての本でもあった(「食物を面前にすると、幼くなり、とりわけ食卓につくと俗事のすべてをけろりと忘れて放り出せる」というジレの定義に従うならば、私にも充分「グルマン(美食家)」を名乗る資格があるのだろう)。
この本に出て来たジョゼフ・デルテイユの『旧石器時代の料理』という本が、ものすごく面白そう。邦訳は手に入らない(というか出版されてない)ようなので歯痒いのだけど、原著は布巾の布地で装丁されていて(編集者曰く「本を開く前に手をふくために」「食べる前に断じてこれで手をふかないように!」)、キッチンに吊るせるように金属の輪っかがついてるらしくて、ああ、こういうのを「エスプリ」と呼ぶのだな、とニヤニヤ(あのプチ独裁者アンドレ・ブルトンから早々に破門状を叩きつけられたシュールレアリストらしい出版物)。

『天才シェフ危機一髪~世界一流レストランの舞台裏で起きた40の本当のお話~』キンバリー・ウィザースプーン&アンドリュー・フリードマン編(75点)
“エル・ブジ”とか“トゥール・ダルジャン”とか、『厨房の奇人たち~熱血イタリアン修行記』に出て来た“バッボ”のマリオ・バターリとか『キッチン・コンフィデンシャル』の著者アンソニー・ボーデインとか。
些か低俗なゴシップ的タイトルは残念だけれど、盛りだくさんで楽しかった。
“ル・シルク”のアラン・セイラックが語った兵役中の物語(「戦場のコーヒー」)、ジョナサン・アイスマンが雇った、腕に人工装置をつけた料理人の話(「サンドイッチづくりの達人」)、横着して一気に作ろうとした八リットルのメレンゲがボウルから溢れ出して襲ってくるクラウディア・フレミングの「メレンゲの大逆襲」(すっかりパニックになった彼女に「ミキサーの電源を切れよ」と冷たく言い放ったペストリー・シェフが後の彼女の夫だというのも素敵)、アンソニー・ボーデインのいかにもアメリカンな厨房狂騒曲「恐怖のニューイヤー特別メニュー」なんかが特に印象的だった。

『ウスケボーイズ~日本ワインの革命児たち~』河合香織(90点)
故・麻井宇介氏の著作『ワインづくりの思想』を読んでから、ずっと読みたいと思っていた本。きちんと読み手を意識したメリハリのある文章で、構成も上手く、引き込まれる。
麻井宇介氏は、メルシャンのトップ・キュヴェ「桔梗ヶ原メルロー」の生みの親だ。国産ワインというと輸入した濃縮果汁とかバルクワインとかを使って国内で瓶詰めする(或いは生食用に向かない「屑ブドウ」を掻き集めて醸造する)、というのが当たり前だった日本のワイン産業に、初めて「本当のワイン造り」の道を切り開いた人だ。
高温多湿=ワイン用の葡萄づくりには向かないと言われてきた日本で、ワイン用の品種を栽培し醸造することには、多大な苦労があった。ブドウ栽培の技術的な問題以前に、何より周囲の偏見やためらいや諦めとの闘いが必要だったのだ。
「ウスケボーイズ」というのは、麻井宇介氏の信念に共感し、彼を慕って「自分の」ワイン造りを模索し、ワイン造りにすべてを賭けた三人の若者たちのこと。
今、彼らのワインは「日本では手に入らない」とさえ言われている。
ワインは悪魔だ。人に取り憑き、メフィストフェレスよろしく貪欲にその魂を貪る。
けれど、持てるものを惜しみなく注ぎ込んだとき、かけがえのない宝石のような葡萄とどんな形容詞も追いつかない「奇跡のワイン」が生まれる。
日本人だから、というのでは決してなく、彼らのものづくりに対する情熱と信念とが、私を魅了する。
ああ私は今まで何をやってきたんだろう、と思いさえするけれど、まあ、自分が肯定するものは揺らがない、という確信を養ってきたというだけで(今のところは)良しとしよう。

『我が名はコンラッド』ロジャー・ゼラズニィ(70点)
ゼラズニィ熱がすっかり不完全燃焼を起こしていて(読み返したい短編集が手に入らない。ネットとか取り寄せとか、たぶん方法はあるのだろうけど、何となくそういう形で手に入れたくはないのだ。あるとき不意に古書店かブックオフで巡り合う、というのが理想)、それを気遣って(?)敬愛する職人Tさんが貸してくれた本。あさりよしとおの漫画『宇宙家族カールビンソン』(大好き!)にこれのパロディ/オマージュがあったな、とか懐かしく思いつつ読んだ。
汚染の果ての世界に生まれた異形の生きものがケンタウロスを思わせる神話的形態をしているのが、美しくも些か欺瞞的に思える。でもゼラズニィの魅力というのはまさにその神話的な生きものの描きかたにあって、語り手であるコンラッドが彼らのために笛を吹く一連の場面はとても、とても魅力的だった。
あのシーンだけを切り取って短編にしたら、きっと素晴らしかったろう。
もしかしてゼラズニィは、長編ではなく短編でその本領を発揮する作家なのかも。

『ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突』アマーラ・ラクース(75点)
図書館でのテーマ借り。テーマは「長いタイトルの本」。
この物語について何か書こうとしても、何も書けない。
何故ならそこで描かれているのは「ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突」なので、もうこのタイトルだけですべてが言い現わされているから。
裏表紙では「ミステリー仕立てのイタリア式喜劇」と紹介されているのだけれど、喜劇的要素はあまりない。エレベーターで起こった殺人事件をめぐる11人の証言が、そのままイタリアの移民問題をめぐる11種類のアイデンティティと政治的思想になっている。もちろん幾らか戯画化され誇張されているので、その辺りが喜劇と言われる所以だろうか。
「ああ、なるほど戦争がなくならないわけだ」と、私はかなり絶望的に読んだけれど。

『聖者と学僧の島~文明の灯を守ったアイルランド~』トマス・カヒル(45点)
「長いタイトルの本」二冊目。
このタイトルを見てアイルランドの歴史にちょっと興味を持った(「聖者と学僧の島」って、自分がファンタジー小説を書くなら絶対そういう島を作ると思うから)。でも、原題は「アイルランド人は如何にして文明を守ったか」くらいの意味で、中身はローマ帝国の終焉とアイルランドにキリスト教を布教した聖パトリックの話だった。
…空振り。

↓ここからは、ちょっと古い記録です↓
灼熱のオン・ザ・ロード
『ぼくがあげられるものは混乱した自分しかない。』
(ジャック・ケルアック/『オン・ザ・ロード』)


強い衝動と昂揚感に満ちた、無敵のロード・ストーリィ。
30も半ばになって、しかも失業中に読むべき本じゃないのは解ってる。
だけど、読んで良かった。

感想としては、「あまりにも無防備」。
サル(主人公サルヴァトーレ・パラダイス、著者ジャック・ケルアックの化身)は決して愚かではないし、無力なのでもない。
ただ、その感受性を世界に対してこうも無防備に開け放つことは、無上の歓びや至福と同時に、苦しみや痛みもまた、同じ鮮烈さをもって体感せざるを得ない、ということなのだ。それなのに、そのことに対する怖れや覚悟みたいなものが、一切、書かれていない。

ここにあるのは、ただひたすらな「疾走する生命」だ。
疾走する悲しみ、というのはモーツァルトのレクイエムに対して小林秀雄が名づけたものだけれど(ちなみに私はモーツァルトのレクイエムが嫌いだ。どことなく、これみよがしに悲しんで見せている、という過剰さを感じる)。

「ぼくがあげられるものは混乱した自分しかない」と、サルは言う。「なにもかもごちゃごちゃになって崩れはじめていた」パーティの夜に。

彼は苦しみも痛みも、ちゃんと体感している。
それでいて、躊躇したり後悔したり、自分を閉ざしたりはしないのだ。
強く、鮮やかで、憧れる。

そして、私はこの小さな爆弾=河出書房の文庫本=を胸に抱いて、思う。
「僕が僕でいられる場所は、この世のどこにも無い!」と。
黄昏は逢魔が時
敢えて軽く報告します。会社辞めました!
そんで今日から名実ともに、夢の(!)引きこもり生活を開始。
いや、一時的にですが(というか、一時的であることを願っていますが)。

いつもならまだ仕事をしている時間に、スーパーに行く。
平日の昼下がり(というよりは夕方)。何だかお洒落な爺さんがたくさんうろうろしていて、ちょっとときめいてしまう(私には何故か、「お洒落な爺さん」を見ると片端から捕まえて今までどんな人生を送って来たのかインタビューしたくなるという困った性癖がある。もちろん実際にやったことは一度もないけど)。

そんなこんなでお洒落な爺さんたち(ハンチング帽とステッキとか、釣り人っぽいベストとか、生成りの麻のシャツとか)の間をすり抜け、私の中で「タコだらけの海」として認識されている「モーリタニア」産の湯ダコ(どこのスーパーでも湯ダコはほぼ100%モーリタニア産なので、かの地の海はよっぽどタコだらけなんだろうと思う)が安かったので、マリネにしようとカゴに入れる。
トマトが半分残ってるし。バジルはベランダにあるし。
この辺で、抑えがたい欲望が沸き上がってくる。
ああ、スペインの北の方の白ワインが欲しいな。チャコリ・デ・ビスカヤとか、飲んだことない(というか売ってるのを見たこともない)けどきっと最高だろうな。
でも失業中なので、そこはぐっとこらえて(いや、売ってたら買ってたけど)。

帰り道、いつもなら自転車でそそくさと往復していた道をのんびり歩きながら、ものすごく唐突に、幸福感と平常心とを取り落とす。
あらら。何だこれ。
挙動不審は覚悟の上で、思わず立ち止まった。
油断すると涙があふれてくる。
生ぬるい風。空は暮れがたのブルーグレイ。
何とか再び歩き出して、参ったな、と思う。
どうやら私は、淋しいのらしい。

何だかんだ、8年半働いた職場だ。
毎日パニックになったり激怒したり泣いたりして、まともに上司に喰ってかかったことも一度や二度じゃない(周囲を凍りつかせ、後輩が狼狽のあまりタイムカードを押し忘れた大バトルはまだ記憶に新しい)。何度も、もう無理、と思って(しかも初めて「もう無理」と思ったのが転職初日だったのだから呆れる)、それでもその度に何か新しい課題とか目標とか変化とか天変地異とかがあって、結局ずるずると今まで続けてきた。

同じ部署で、長いあいだ一緒に仕事をしてきた人たちは、もう既に好きとか嫌いとかの価値判断の外側にいる。
長所も短所も、(たぶん)お互いぜんぶ知ってる。
怒鳴り合いしたり、泣いてるのを見られたり、体調が悪いときに黙ってても心配してくれている気配が伝わってきたり。

ああ、私は案外、幸福だったのだな、と。
「生きること」の手応えはありすぎるくらいあったし、「必要とされること」という無上の歓びもあった(結局はそれが過負荷になって折れてしまったのだけれど)。だから思いがけず、この決断が「挫折」の意味合いを帯びてきたりして、動揺している。

もう会うこともないかもしれない、と思うと、無性に「淋しい」。
慕ってくれている同性の後輩とかなら、これからも連絡を取って気軽に会えるのだけど、相手が異性だと、こちらの思い入れをぶつけてしまうと微妙な空気が漂ったりもするので(「気がかり」とか「(嫌いというよりは)好き」とか「会いたい」とかいうのをすぐに恋愛感情に結びつけてしまう習慣ってほんとに鬱陶しい)、自重せざるを得ない。

たそがれは逢魔の時間。
大島弓子の漫画のタイトルだったっけ。
そんなことを思い出しながら、夏の黄昏どき、スーパーの袋を片手に下げて、涙を堪えながらうちに戻った。

自分でも、びっくりした。
きっと、時間が悪かったんだろう。
昼の終わり、夜の始まり。
逢魔の時間。

「これから」のことに目を向けなきゃ、と思うのだけど、「これから」のことがあまりにも曖昧模糊としていて、どうすればいいのかがさっぱり解らない。
まあ、カオスは得意分野(?)なので、気持ちを切り替えて立ち向かってゆこうか。

そんな8月1日。
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