la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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世はなべて、こともなし。
「あげひばり空を舞ひ/かたつむり枝を這ひ/神 天にいまします/なべて世は 事もなし」
(劇詩「ピパ、過ぎゆく」/ロバート・ブラウニング/wikipediaに載っていた原文と上田敏の訳詞から孫引き?孫訳?)


hutahoshitentou.jpg


「なべて世はこともなし」という一節はいろいろなところで引用されていて、前々から、目にするたびに軽やかな満たされた気持ちになる「好きな言葉」のひとつだった。
それが今回、ここに引用するためにインターネットで出典を調べてみて、驚いた。
聖書か何かだと思っていたのが、ロバート・ブラウニングの詩だったのだ。

ブラウニングのことはよく知らない(ちゃんと読んだことがない)のだけど、とても近しい慕わしい気持ちがするのは、この詩人が以前「どくしょきろく」で触れた本(ヴァージニア・ウルフの『フラッシュ』)で、エリザベス・バレット(後のブラウニング夫人)の愛犬フラッシュにふくらはぎを噛まれ「闖入者」扱いされていたあの「ブラウニング氏」だからだ。

そんで、上田敏が「lark」の訳語とした「揚雲雀(あげひばり)」は、私の祖母が自分の句集につけた名でもある(祖母がこの詩を知っていたかどうか、今となっては確かめようもないけれど、訊いてみたかったなぁ)。

本題と脱線が逆転してしまったけれど、「なべて世はこともなし」という言葉を思い出したのは、昨日の朝、アブラムシ駆除のために(セロハンテープ片手に)ベランダに出たときのこと。

それまでワイルドストロベリーにだけたかって、ミントには見向きもしなかったアブラムシたち(ミントの香気を嫌うのだとばかり思っていた)が、急にワイルドストロベリーを見捨ててミントに密集していたので、吃驚仰天。
しかも傍若無人に繁茂するイメージしかなかったミントが、何だか元気がない。
ようし、いま助けてやるからな。
と、勢い込んでぺたぺたやっていて、葉っぱをひっくり返したとき。

黒くて艶やかな、プラスティックの半球が目に飛び込んできた。
咄嗟に、「ああ今年もまた招かれざる客(正体不明の昆虫か正体不明の病気)がやって来た」と、慄いて手を放してしまったのだけど。

おそるおそる、もう一度観てみると、黒い半球にはふたつ、赤い斑点がある。
これはもしや。
そう思って、駆除もそこそこに部屋に引き返してパソコンを起動。

やっぱり。
フタホシテントウだ。

アブラムシを捕食するテントウムシの仲間。

思いがけず、強く感動する。
こんなちっぽけなベランダなのに。
ここもちゃんと、自然の摂理みたいなものの内部にあるんだ、と思うと、奇妙な安堵に満たされる。

私自身は、自然の摂理を全肯定できるほど強い生きものではないのに(弱肉強食の世界に抛り出されたら早々に淘汰されてしまうだろうから)。

でもね、「なべて世はこともなし」。
食べるもののあるところに、生きものは集う。
アブラムシはミントに集い、テントウムシが訪れる。

ほんとに、ちっぽけなベランダなのに、ね。
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フォリ・ポルタンファンと私
「素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。」
(長田弘「なくてはならないもの」/詩集『世界はうつくしいと』所収)



繰り返しますが、こいつ、重いんです。毎回、背負うたびに重くなっていく気がするんです。
クリストフォルスの伝説じゃあるまいに。

そんで、でかいんです。
毎回、見るたびにでかくなっていく気がするんです。
親戚の子どもじゃあるまいに。

もとい、今日はマイカヤックのアリュート(本名フォリ・ポルタンファン)と、初めてテート・ア・テートの湖上散策をしてきました。

行きも帰りも自力。
組み立ても撤収も自力。

朝起きて、ちょっと体がしんどいかな、と思ったんですが、いま何かを「補給」しないと明日からが「持たない」ような気がして。

そんで、決行です。
船体布とシートを背負って、骨その他はカートで引っ張って駅までの5分をよろばい歩き、バスに乗ります。
乗り口でちょっとつっかえます。
カートを持ち上げると、脚力が足りずステップが上れません。
それでもどうにか乗って、降りて、湖岸までの5分をまたよろばい歩いたら、さぁ、今度は組み立て。

「組み立て」と一口に言っても、照りつける太陽のもと、40分に及ぶ汗だく血まみれ大格闘です(ジョイントにちょっと親指の腹を挟まれただけなのに、血がポタポタ滴ってなかなか止まらなかった)。おまけに最後の最後、スターン(後ろ側)のカバーがやっぱりちゃんと閉まりません。

モンベルの人がセットアップすると惚れ惚れするほど完璧な艇だったのに、私がやるといつもこれ。
しかも指に巻いたミニタオルは鼻血を押さえたティッシュみたいに血だらけだし。

気を取り直し、モンベルの人がやっていたのを思い出しながら、スターンデッキのベルトを力任せに締め込みます。
鳶が頭上で悠然と旋回していて、ぴぃぃぃ、よろろろろぅん。と、呑気に鳴いたりします。
でも今日は私ひとりの時間なので、苛立ちはせずしばし手を休めて、空を飛ぶものの美しさを眺めます。

首筋を伝うのは、幸い血ではなく汗。

ピッタリとまでは行かないながら何とかマジックテープを張り合わせ、仕上げの尻尾カバー(浸水を防ぐために船尾に被せる、小人の帽子みたいなの。どことなく、犬の噛みつき防止の口輪を連想してしまったりもします)を被せると、その鼻面をぽんぽん叩いてやります(フネ的には尻尾ですが)。

さて、水に浮かべて漕ぎ出そう!
と、エアチューブの空気を入れ忘れていることに気がつきます。
蛇腹になった黄色いプラスチックの空気入れ(いつ見ても幼児向けのおかしな楽器みたいです)でアリュートの横腹に空気を入れ、今度こそ。

水辺までの数メートルを、本来の担ぎかた(かっこ良く右肩で担ぐ)が無理なのは解っているので、不恰好なカニ歩きで騙し騙し運びます。砂の上を引きずると船底を痛めるので…。

ああ、厄介な、かくも厄介な代物。
重くてでかくて面倒で疲れる。
何だって私はこんなものを買ったのか、と、自分の酔狂を呪いたくなります。

けれど。
ひとたび湖上に出れば、こいつは一瞬で私を「カヤック担ぎ」の重責から解放し、軽々と私を抱き止め、水に委ねてくれるのです。

パドルの最初のひと漕ぎで、天啓に打たれます。

ああ、私はこんなにも自由なんだ、と。

いっさいを惜しげもなく陸に置いて、アリュートと「漕ぎ出す」瞬間。

戻らなくちゃならないことは解っているし、戻ることを拒否する気もない。でも束の間、紛れもない「逃走」の至福に襲われます。

そしてそのまま、ためらいなく沖へ。

目の前を横切る動力船から、誰かが片手を挙げて合図をくれたりもします。でも、水の上では手を振ることは救助要請にあたるので、適切な応えかたを知らない私はただパドルを置いて波をやり過ごします。

そして今日、初めて、「お気に入りの場所」を見つけました。
意外にも、出艇した地点のすぐ近く(たぶん10メートルくらい)。砂浜ではなく木と葦原とで陸地から隔てられた、格好の「隠れ家」。
アリュートごと木陰に入ってしまえて、去年の初カヤックの時に見つけて勝手に「ロゼッタ」と名付けた水草が浮いていて(冬越しする植物が葉を地面に平たく広げる「ロゼット」という形態に良く似ている。ステンドグラスの図案みたいでとても綺麗)。

木に止まっている鳥が饒舌に囀るのを聴きながら、半ば寝そべるような姿勢で本を読みます。

頭上からすうっと下がってきた尺取り虫を、パドルでそっと受け止めて木の根元の苔の上に下ろしてやったりもします。

若緑の葉。
キラキラする木漏れ日。
静かな水の音。

私をこんなところへ連れて来ることができるなんて。
私にこんな時間を与えてくれるなんて。
アリュート、お前はやっぱり素晴らしいよ!
ま、「水の上」限定だけどね。
そして、アリュートはやっぱり目的ではなく手段なのだということ(幾らアリュートが「私のフネ」で、そのことに子供っぽい喜びを覚えるとしても、やはり私の目的は「琵琶湖」なのだ。「素晴らしいもの」、「誰のものでもないもの」に出会うことが困難になってしまっている昨今、そういう空間へ私を連れて行ってくれる「媒体」として、私は私のアリュートを称賛する)。
地には平和を、人には愛を。
「目的が良きものである限り、我々の魂は幸福と共にある。」
(ノルマンディの林檎泥棒、ジョイ・ミッチェルの言葉)


wildstrawberry2


この場合の「良きもの」というのは善悪の「善」を指すのではなく、従って、正義や主義信条や信仰の類いとは無縁だ。
ジョイ・ミッチェルは林檎泥棒ではあるが、本来の職業は泥棒ではない。彼女は言わば「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」で、そのこと自体が職業として成り立つのはノルマンディの広大な林檎畑においてだけ(厳密に言えば、綿密な計画=充分な補償金と住民の立ち退きと気化式の小さな爆弾=に基づいて作られた、林檎畑の真ん中の人工砂漠においてだけ)だ。「林檎泥棒」というのは仕事場の仲間が彼女(これも厳密に言えば、彼女と職業上のパートナーであるマルリィ・オスタとの二人)につけた綽名。つまり、「パイロット」のマルリィと「調停者」のジョイが、しょっちゅう砂漠の端に不時着しては港までてくてく歩く羽目になり、その途中でしょっちゅう林檎畑の林檎を失敬してはそれを齧りながら帰ってくるからだ。

ともあれジョイは、自分が周囲の林檎畑からときどき林檎を失敬するのを正当化するために、こんなことを言ったのではない。彼女の言う「良きもの」は「善良さ」と同義であり、林檎畑の林檎を無断で捥ぐことは「善良さ」には反しない(林檎農家の人々はとうの昔にこの林檎泥棒の正体を知っていて、巡回中の「銀鼠」でさえ、おどけたビープ音で威嚇してみせるくらいのことしかしない)。

5時間のフライトのあとで延々と(それも重い飛行ブーツで)砂漠を歩く羽目になっても、彼女の足取りは軽い。
相棒のマルリィと二人、でたらめな歌をうたいながら、彼女は歩く。

マルリィが保証した通り、何が「良きもの」であるかについての判断なら、彼女は間違わない。

空の青さ、夏の日差し、靴底の砂の感触。
熟した林檎の匂い、艶やかな赤い実。
銀色に光るのは全線の起点、揺るぎなきホームたる「港」の管制塔。

彼女は無心に林檎を齧る。
いっそ苦しいほどの幸福に満ちて、彼女は歩き、歌い、飛び跳ね、爪先立ちでくるりと回る。
そしてまた、林檎を齧る。

そう、林檎農家の人々がこの泥棒を追い払おうとしないのは、彼女が世界中の誰よりも、林檎の美しさを、手のひらに乗せたその重みを、唇に触れる果皮のなめらかさを、その歯触りを、みずみずしい甘酸っぱさを、愛しているからだ。

ジョイ、この世のすべての歓び。
変えることの許されない「歴史」を前に、決して癒えることのない傷を抱きながらも、善良であること、幸福であることを肯定し続けるジョイ。

変えることが許されないからこそ、そこから学ぶことができる。
どんな歴史も必然だと思ってはならない、と言ったのはブレヒトだったかベケットだったか、今はちょっと思い出せないけれど。
悔やむことは、決して後戻りでもなければ意味のないことでもない。
後悔は、してしすぎることはない。
なぜなら過ちは過ちなのであり、改めることは悔いることと分かちがたく結びついたプロセスなのだから。

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