la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
デイ・アフター・トゥモロウ
「言葉に出せない思いのために お前に渡そう風の笛/言葉に出せない思いの代りに ささやかに吹け風の笛」
(『風の笛』中島みゆき/アルバム『常夜灯』所収)


辛いこと、不安なこと、傷ついたこと、腹の立つこと、どうしようもないこと。
そういうものを誰にも言えずに抱え込んで、どうにもならなくなってしまうこと。

何であれ、それを口に出せないことは、現実の苦しさ以上の負荷になる。
掛け値なしの幸福でさえ、それを誰にも言えないときは苦痛を伴うものなのだ。
まして、辛いことを辛いと言えないとき、その息苦しさを思うとほとんど気が遠くなる。

世の中を巧妙に切り抜けることだけが、生きることじゃない。
それを、伝えたかった。

もっと早くに気づけたら。
もっと気軽に話せる空気を作っていたら。
もっと気軽に話せる時間を作っていたら。
きっと、今日という日は誰にとっても違った一日になっていただろう。

誰よりも、私が気づくべきだったのだ。
別に、いたずらに自分を責めているわけではない。でも「そのことの辛さ」を、私はとうに知っていたはずなのだ。
だから、不遜な物言いかもしれないけれど、気づくことができるとすればそれは私だったのに、と思うのだ。

ここひと月ほど自分のことばかり考えていたわけでは、決して、ない。
けれど目の前の忙しさに紛れて、誰に対しても「自己責任」を押しつけて突き放してしまう冷やかな環境を、半ば是認しかかっていたことは事実だ。
たかが私の力ではどうにもできない、そういう領域も確かにある。でも、もっと何か、できることがあったはずだ。

これまでに出会った無数の小説や漫画や歌の中で繰り返されてきた主題(ドミニク・メナール『小鳥はいつ歌を歌う』、吉野朔美『恋愛的瞬間』の最終話、そして引用した中島みゆき『風の笛』)。

私自身のことを言えば、楽器や歌よりはまだ言葉(話し言葉ではなく書き言葉、それもいくぶん冗長な)のほうが使い慣れているので、こんな形での表現になった。

自分の感情や意志を、外へ解き放つこと。
誰かに伝えること。
たとえ目の前にその相手がいなくても、或いは相手がいないからこそ。

言葉にできないのならば、言葉に代わる何かを。

最初は、意味を為さない悲鳴に似たものかもしれない。
けれど多分、それが救いの糸なのだ(実際、『風の笛』のラストで響くホイッスルの音は悲痛な叫びのように聴こえるけれど、言葉の代わりに得た手段で誰かに何かを伝えるための明白な意思表示として強靭に響きもする)。

言葉に代わるもの(そう、たとえばピアノ)を通して、「解き放つこと」。
どんな形であっても、他者から見れば無益なものであっても、その「手段」を持つことははっきりと「必要」なことだ。

たわごとに過ぎなくても、誰にも届かなくても、不器用でも、お金には換えられなくても。
「解き放つこと」は大切で必要で、たぶんそれだけで充分だ。

そのための手段がひとつでもあれば、大丈夫。
うまくいったこともいかなかったことも、ホイッスルの長いひと吹きに託して、あとは眠ってしまおう。

目が覚めればまた新しい一日。
そして、その一日があなたを怯ませるものではなく、希望につなげるものでありますように。
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担ぐものと担がれるもの
「専制君主の絶対権力がついにはかならず彼を狂わせてしまう理由が、いまおれには分かる。」
(『魔王』ミシェル・トゥルニエ)


以前、上巻だけを借りてきたら訳注が下巻の巻末に載っていたせいで読めずに返したのだけど、先日やっと上下巻を一緒に借り直して、3日くらいかけて読了。

凄い小説だった。

「シューベルトの魔王とはたぶん無関係」と書いたのは間違いで、「シューベルトの歌曲の元になったゲーテの詩の元になったゲルマンの古い言い伝え」を通奏低音にして語られた、第二次世界大戦の物語(『ブリキの太鼓』と並ぶ幻想戦争文学の金字塔、なのだそうだ。昔『ブリキの太鼓』は数ページで気分が悪くなって投げ出したのだけど、何より「幻想戦争文学」というカテゴリーが存在することに私は驚いた)。

物語は、主人公アベル・ティフォージュが書いた一人称の「左手の手記」から始まる。パリにガレージを持つ自動車整備工ティフォージュが、己の魔性と不滅を信じる、そして自分は「気の触れた男ではない」と(傍点つきで)書き記した手記だ。少年時代の回想、寄宿学校での苛烈な虐待と奇妙な篤い庇護。些か生理的な不快感は禁じ得なかったものの、そこで読むのをやめてしまわなかったのは、高度な知性(それこそ狂気を思わせるほどの)を窺わせる文体に強引に引きずられたから。

彼はある日、少女に対する暴行の嫌疑を掛けられ投獄される。だが、まさにそのとき第二次世界大戦が勃発し、ティフォージュは釈放=徴集されることになる(それはちょうど寄宿学校時代、とつぜん起きた火災のために罰を免れた体験と重なり合う)。

従軍中、そしてドイツ軍の捕虜となり強制労働に従事する間、彼の「左手の手記」は中断し、彼が再び書き始めるまで物語は三人称で進行する。

作家は主人公を肯定するものだ、という意識が私の中には根強くあって、それがしばしば誤読につながってきた。この頃になってようやく、そういう思い込みが自分にあることを意識しながら本を読むようになって、この物語についての私の感想はつまり、こういうこと。
「ここで語られている思想の根幹は、揺るぎなく肯定されるべき。けれど、どんな思想にも『悪性の価値転換』は起こり得るということを、忘れてはいけない。」

この「悪性の価値転換」というのはたとえば、宗教的な情熱(=純粋な善への志向)が異端者への苛烈な弾圧へ向かったり、秩序の維持(=純粋な規律への志向)がそこからはみ出す者を徹底して迫害したりする、そういう現象を指すのだと思う。

そして、重要なモチーフであるクリストフォルスの伝説と、「担ぎ」について繰り返される記述。読んでいて、ドゥルーズ=ガタリの使う「機械」の概念を思い出したのだけど、著者のトゥルニエはドゥルーズと長年の親交があったのだとか。つまり、この二人が同じ概念を共有していたことは充分にあり得るのだ。

「いっさいが徴(シーニュ)だ」と書くティフォージュは、初めから善悪の価値判断を放棄している。与えられる「徴」は彼をしてナチス・ドイツの悪に加担させるのだけれど、それが「悪性の価値転換」であることに、「左手の手記」の書き手であるティフォージュは気づかない(彼は『魔王』の書き手=トゥルニエではない。ナチ幹部の所業を「反担ぎ」と定義して憎みながらも、自分のしていることに対して疑いや嫌悪を抱くことはないのだ)。だから物語の結末でそれが「良性の価値転換」を迎えたことさえ、ティフォージュ自身には理解されないままだったろう。

「作者」と「主人公」の関係をあらためて思い知った。

引用したのは、ティフォージュがナチス・ドイツの崩壊を前にして「左手の手記」に書いた文章。「無制限になんでもできる権力と、限界のある手腕とのあいだにある不均衡ほど、残酷なものはない。運命が、貧しい想像力の限界を突破させ、ぐらつく意志を踏みにじってくれないかぎり、どうしようもない」。

そう、自己に対する批判を完全に拒絶するというのは、とても危険なことだ。
それが「自己」であっても「企業」であっても「国家」であっても。
天道虫を探して
「そもそも風邪をひくことは、必ずしも悪いことではないように思います。」
(『風邪 と ごはん』/渡辺有子)



wildstrawberry


今年のベランダ。今のところ平和です。

数年前のように謎の鳥に全喰いされたり謎の小動物に掘り返されたり謎のキノコが生えたりすることなく、植物たち、無事に育ってます。

日々の変化をあまり見ていてやれないのだけど、休日の朝ふいに花が咲いていることに気づくのも、嬉しいもの。
で、しゃがみ込んでしみじみ観察しました。小さいのに律義なくらい精緻で、それが何だかいじらしい感じ。隣では銀色のにこ毛に覆われたアップルミントの葉が、水を弾いてキラキラ。

しばしうっとり眺めていて、植物を間近でじっくり見るのがすごく久しぶりなのに気づきました。

とても、とても綺麗で、「奇跡」って本当はこういうものを指す言葉なのかも、と思いながら。

あっ。
アブラムシ。
…しかもけっこうびっしり。
そうか、今年の敵は君たちか…。

でも、ここでやっと引用した言葉に結びつくのだけど、鳥が食べたり獣が掘り返したりアブラムシがたかったりするのって、「必ずしも悪いことではないように」思うんだ、うん。
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