la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
リュウグウノツカイを食べました。(実話)
いや、以前も書いた通り、私は決してゲテモノ喰いではないんです。
ただ、未知の食材に対する好奇心を抑えきれないのと、「舌の経験値」という言葉に弱いだけで(まあ、結果的にゲテモノを食べてしまう確率はかなり高いと言えます)。

「竜宮の使いの塩焼き」。
カヤックで迷惑をかけたお詫びにと、両親を誘って実家の近所の(けっこうお気に入りの)お店に出掛けたのですが、そこで普通にメニューに載っていて。
しかも470円くらいだったので(あんがい安い)。
ちなみにうちの父は正真正銘のゲテモノ喰いで(アジア某国の山道で焚火で焼いたネズミを食べたことがあるらしい。よくこの歳まで生きているな、と思う)、このメニューに真っ先に食いついていました。
そして私は「リュウグウノツカイ」のことを、名前のせいもあって記憶の中で勝手に美化していたので(短めのタチウオみたいな感じで、頭から綺麗な虹色のヒレみたいなのがひらひら靡いてて、なかなかに優雅な魚、というちょっと間違ったイメージが頭にあった)。

出されたそれは文庫本よりひと回り小さいくらいの切り身で、見た目はタチウオそっくりの銀色。結構こんがり焼けていて、「あ、これはきっと味もタチウオだな」と思った。
それが、お箸の先でつつくと、妙にブヨブヨしている。
勇気を出して割ってみると、中には何だか正体不明のほぼ透明なゼラチン質が詰まっていた。
勇気を出して食べてみると、何だか正体不明のほぼ透明なゼラチン質の味がした。
強いて言えば、牛テールの骨の回りについてる、コラーゲン的なアレ。

メニューには何と「刺身」も載っていたけど、さすがにそこまでの勇気は出ませんでした。
そして、「お詫びにご馳走する」というコンセプトだったはずなのに、何故かご馳走してもらってしまいました(甘やかされるとつい甘えてしまうこの身が歯痒い)。

もし「リュウグウノツカイ食べてみたい!」という方がいらっしゃったら、まずはウィキペディアで外観や生態などを調べてみてください。きっと、「…、やっぱりいいや」と思うはず(ちなみに私は、うちに帰ってから調べて気分が悪くなりました)。
ちなみに『古今著聞集』には食べても命に別条はなかった(そして極めて美味であった)旨が記されているらしいのですが、当時は人魚伝説の元になった魚でもあって、人魚の肉を食べると不老不死になるという言い伝えもあったりするので、「不老不死になったらどうしよう」と無駄な不安に駆られたりもしています(笑)。
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どくしょきろく番外編(えいがきろく)
最近、良くも悪くも生活が充実して/煩雑になっていて、仕事もそれなりにバタバタしてあまり文化的なことを書けずにいるので、この辺で一度「えいがきろく」を公開してみます。かなり長いです。前々から書いてたものがほどんどで、つまり観たのもずいぶん以前、ということになるのだけど。
タイトルの前についている人名は監督の名前(映画好きを自認する人に私はつい「誰が好き?」と訊いてしまうのだけど、監督じゃなく俳優の名前が返ってくると少々がっかりする)。名前がついてないのは、監督の名前を忘れたか、特に意識すべき映画だと思わなかった映画(つまらなかったわけではなく)。


アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』

敬愛するタルコフスキーの遺作。観るのは三度めにして初スクリーン。映画館の音はやっぱり私には大きすぎたけれど(『サクリファイス』が基本的に静かな映画で、その静かさを標準値に定めてしまったせいで結果的に最大音量がものすごいことになったのだろうか)、冒頭で少し泣いた。終わってからも少し泣いた。感動して泣くのではなく「静かに沁み入るように泣く」ような、うまく言えないけどそんな感じ。
武満徹が言っていた通り、たぶんこの映画を撮った時、タルコフスキーは自らの死を意識していたのだろう。映像にも台詞にも風景にも仕草にも、善悪とか生死とか人間についてのありったけの思想が注ぎ込まれていて圧倒された。
タルコフスキーを観るとき、私はまず「映像の、息の詰まるような完璧さ」に気を取られて字幕を読むのを忘れる。だからストーリーを追うのに苦労するのだけど、三度観てやっと、全体の意味が掴めた(初めて観た時など、「え? 何でいきなり放火するの?」などと、観終わってから首を傾げたくらい何も解っていなかった)。
これは、誰にも気づかれることなく行われた奇跡の物語だ。
そして、その奇跡の真の代償が何であるかを知ったとき、言い知れぬ不安と絶望の気配ははっきりと晴れてゆく…つまりこの物語は揺るぎのないハッピーエンドであり、私の解釈では、これもまたひとつの『グスコーブドリの伝記』なのだ。
ちなみに以前タルコフルキーのことを書いた時、スローモーションで床にぶちまけられるミルクのイメージに触れたのだけど、そのシーンは『鏡』じゃなくて『サクリファイス』の一場面だった。おまけにしっかりスローモーションだった(お詫びして訂正します)。


デレク・ジャーマン『ブルー』

エイズで亡くなったデレク・ジャーマンの、これも遺作だっけか。
青かった。
ただひたすら青かった。
それでも最後まで観ることはできたので、これもまたひとつの「すごい映画」なのだろう。


『魔女の宅急便』

特にジブリのファンだというわけではないけど、「自分の力で暮らしてゆくこと」を明るく解りやすく描いていてとても好きな映画。ナウシカよりラピュタよりトトロより、私はこれが好き。


『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』

アメリカ映画だと思ってたらドイツの映画。ハリウッド映画をお子様ランチだと決めつけている私は「道理で面白いわけだ」と思った。
不治の病で死を宣告された二人の若者。病院の厨房で深夜に痛飲するジンだかウォッカだか。そして二人は病院を脱走し、車を盗んで海を目指す。「死ぬまでにしたいこと」。
盗んだのが曰くつきの車だったせいで彼らは警察からもギャングからも追われる羽目になるのだけれど、とうに保証された死のために彼らはむしろ無敵だ。
面白いし、音楽も良い。
しかしこの二人の「死ぬまでにしたいこと」が、実に通俗的で拍子抜けした。もうちょっと独創的なことを望んでほしかったけど、でも、それだと主人公二人の造形が「ごく普通の、どこにでもいるような青年」ではなくなってしまうのかも。
ちなみに日本を舞台にして主人公二人を男女にしたリメイク版があるみたいだけど、ちょっと行きゃすぐ海に出るようなこの島国じゃ、「海を見たことがない」というのがあまりに普通でない生い立ちに聞こえてしまう。物語が感傷的な恋愛悲劇になってなきゃいいけど。


ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』

かなり好きな監督、ヴェンダースの映画(大学時代『ベルリン・天使の詩』を「つまらなかった」と酷評した先輩に軽く殺意すら覚えたことが懐かしく思い出される)。観るのは二度目。ものすごい低予算&短期間(16日間!)で撮られた映画でもある。
9.11以降、米国を守るという使命感とアラブ人への敵意に取り憑かれたベトナム帰還兵の叔父と、母からの手紙を彼に届けるためパレスチナから十年ぶりにアメリカへ帰ってきた二十歳の姪。再会は路傍での無意味で象徴的な殺人(裕福な米国人の若者が遊び半分でホームレスのアラブ系移民を殺してしまう)によって果たされる。姪はせめて遺体を遺族に引き渡したいと願い、古びたバンに遺体を乗せての、叔父と姪とのアメリカ横断の旅が始まる。
何より、ラナ(ミシェル・ウィリアムズ)の笑顔が忘れ難く胸に残る。不信と敵意に満ちた現代社会への明確なアンチテーゼ。希望も、愛も、信頼も、癒しも、贖罪も、まだ可能だ。そう思わせてくれる(そしてそれは思い込みより確信に近い)、とても、とても良い映画だった。


黒澤明『白痴』

私の最愛の小説(ドストエフスキーの『白痴』)を、黒澤明が舞台を日本に移して撮った映画。ムイシュキンが森雅之でラゴージンが三船敏郎、ナスターシャ(役名が「那須妙子」なのには参ったけど)が原節子、という鉄壁の超豪華キャスト。監督も含めて、これ以上は望めないほどの贅沢な顔ぶれだ。ただタルコフスキーが『白痴』を撮ろうとしていた事実を知ってしまっている以上、この黒澤版に満足することは私にはできない。長大な物語の序盤を要約せざるを得なかった冒頭の説明字幕とか、どうしても日本人の気質やビジュアルが『白痴』には馴染まない点とか(特にアグラーヤのキャラクターが、原作に忠実に再現されているようでいて受ける印象が全く違ってしまっていた。数年前びわ湖ホールで上演された歌劇『サロメ』で侃々諤々の議論が沸き起こったのを思い出す。海外の演出家が「サロメの衣装は現代の典型的なハイスクール・ガールの服装で」と言ったのを日本側が「セーラー服」にしてしまったが故の悲劇だ。「女子高生」と聞いて大人の欧米人と大人の日本人がイメージするものが、あまりにも違いすぎたのだろう)。
とにかく『白痴』はどこまでもでロシア的な小説で登場人物もひたすらロシア的なので、総括としてはやっぱり「タルコフスキーに撮ってほしかった!」ということになる。

『日の名残り』
カズオ・イシグロの原作が好きで、アンソニー・ホプキンスの執事姿にも興味があったので観てみた。でも、アンソニー・ホプキンスは何を演ってもハンニバル・レクターにしか見えないという致命的な欠点を持っていて(俳優としての欠点ではなく観る側の私が創り出してしまった欠点だと思うけど、あの立ち姿は絶対に執事の立ち方じゃない。ちょっと猫背?だし)、結局アンソニー・ホプキンスは「従僕」にはなり得ないのだ、と私は思った。

ともあれ、原作は執事スティーヴンスの一人称なので、いつの間にか彼に共感して「主人の政治的判断に口を挟むのは執事の職域ではない」という理屈に(本心では断固ミス・ケントンと同意見でありながら)納得してしまっていたのだけど、映画はそれが「過ち」だとはっきり伝わるように撮られていて驚いた。今さらながら、原作の意図も同じだったのたと気づいた(高校の現代文のテストで問われてたら間違いなく誤答してた)。
でもスティーヴンス役は、別の俳優が良かったなあ。


『スティング』

漫画家オノ・ナツメの初期短編集にちらっと出て来たのを、ずっと観たいと思っていたもの。漫画のほうは、とある町の腕利きシェフが、町の有力者(それも逆らうと危ないタイプの)に結婚記念日のディナーを依頼されて断るという話。シェフがその日に上映される映画を観るために自分の依頼を蹴ったと知り、有力者はもちろん怒るのだけど、その日に劇場の前でシェフをとっ捕まえた時、上映される映画が『スティング』だと知った彼はこう言うのだ。「…放してやれ。『スティング』なら仕方ない」。
で、当の映画のほうは極上のエンターテイメント、私の大好きな「詐欺師」もの(他にはコメディ映画『ペテン師と詐欺師』とか、海外ドラマ『ホワイトカラー』とか)。
何よりポール・ニューマンのあの青い瞳が、もうめろめろになってしまうくらい饒舌だった。他の出演作も観たいな。
共演のロバート・レッドフォードは、あんまり好きな俳優じゃないのだけど、この役はなかなか良かった(ダイナーでひとり食事をするシーンで、右手に持っていたフォークを逆さにしてその柄でカフェオレのマグをぐるっとかき混ぜ、マグの縁でカンカン、と雫を切ってからひょいと口に含んで舐めてしまう、その一連の動作が、適度なやんちゃさと育ちの悪さを見事に表現していた。あれってアドリブなんだろうか)。
ただ、いくら男同士の絆を描くにしても、あの女優陣のアグリーさはちょっと行きすぎだろうと思う。役柄としてはどちらも助演女優賞ものなのだから、もう少し魅力的な女性にして多少の未練を感じさせるくらいの描き方をしてほしかった。
※ちなみに後日、ニューマン&レッドフォードの『明日に向かって撃て!』を観たのだけど、こちらはバート・バカラックの音楽があまりにもミスマッチでそんな名作だとは思えなかった(だって西部劇にバカラックて、刑事ドラマでボサノヴァが流れるようなものじゃ…)。

ジャン=リュック・ゴダール『アワー・ミュージック』
泣く子も黙る(?)ゴダール作品。タイトルに惹かれて観たはいいけど凄惨なモンタージュに目を覆ってしまった。直視すべき現実に、どうやら私は耐えられないのらしい。何と脆弱な。でも、『ベトナムから遠く離れて』と同じく、直視すべき作品。価値ある作品。私としては、『勝手にしやがれ』のほうがずっと好きなんだけど。

水と光と空とツバメと/カヤック@海津大崎
「沈したらラッキーだと思って下さい。」
(カヤックツーリング@海津大崎、出発前のガイドさんの言葉)


アリュート380T


昨日モンベル主催のカヤックツーリングに参加して、「念願の初シングル艇セットアップで自由気ままな一人漕ぎを満喫してきた」と、すごく晴れやかに言いたいのだけど。
実際は行程のほとんどが仮借ない強風との闘いで、ひたすら漕いで漕いで、たまに漕ぐのをやめてわざと流されてみたりもして(結構きれいに、すべるように流されるので面白怖かった)、今日は未曽有の筋肉痛に襲われている(どのくらい未曽有かというと、まあ「未曽有」に程度なんかないと思うけど、スープをすくったスプーンが口まで持っていけないのですっぽんよろしく首を伸ばしてスプーンからスープをすすっていたくらい)。

海津大崎は、桜の時期は過ぎてしまったけれど私には案外それはどうでも良くて、心配なのは予想以上の寒さと強風だった。小柄ながら頼もしい相棒アリュートがそんな簡単にひっくり返るようなヤツじゃないとは解っている。それでもやっぱり、ひっくり返ったらどうしよう、という不安はあった。
おまけに一人での乗艇は私だけ(6連勤+飲み会明けなのに同行してくれたUさんは、奇数名での参加だった他のグループの方と一緒に乗るようガイドさんから言われて、こういうイベントで一人で漕ぐのが「イレギュラー」なのだと私は初めて悟った)。たぶん見るからに体力も根性もなさそうな私が心配だったのだろう、ガイドさんからの「厄介事は御免ですよ」「足手まといにならないでくださいよ」的な無言の圧力が辛かった(声と目つきでそんな露骨に侮蔑オーラを発散されちゃ、こっちとしては委縮するかムキになるかしかない。私はまず委縮して、それからムキになった)。

見ず知らずの素人たちの命を最終的に預けられてしまうガイド役としては、強風で多少ピリピリするのも無理はないし、過去にいろいろ面倒なこともあったんだろうし、何より私に「ドジ=厄介事」の気配を感じるのは「ご明察」としか言いようがないのだけど。体力のない初心者が一人で漕ぐのはちょっとしんどいかも、と思うなら、ストレートにそう言ってくれれば素直にタンデムにしたのに…と、ちょっともやもやしてしまった。

もとい、カヌー・カヤック用語で「ひっくり返る」というのは「沈(ちん)する」と言う。
「沈したらラッキーだと思って下さい」。
イベント中、私がいちばん嬉しかったのは、出発前に「侮蔑オーラ」の人とは別のガイドさんが言ったその言葉を聞いた時だ。沈してもパニックにならないこと、パドルを放さないことなどを念押ししてから、「ラッキーだと思って下さい。自分が今いちばん目立ってる、と思って、笑顔で『助けてー』と叫んでください」と、このガイドさんは実に快活に、そう教えてくれた。
ああ、この人は、初心者が巻き起こす厄介事を「迷惑」とは思っていない。誰かがひっくり返ってもちゃんと対処する自信があるだけでなく、そのハプニングを「ちょっとした余興」として快く、笑い話にしてさえくれるのだ。

参加者が安心して楽しむことを一緒に「喜んで」くれるこの人は、両親と参加していた三人兄弟の末娘とタンデムで漕いでいた。たぶん小学校中学年くらいの女の子を前に乗せて、漕ぎ方とか、何に注意したら良いかとかを丁寧に教えながら、時々自分のパドルを置いてその子にすっかり船を任せたりもしていた。
きっとあの子は嬉しく、誇らしかったと思うのだ。新しいことを体験し、新しいことを学ぶ喜びに満ちて、自分の意志で船を操る誇らしさに満ちて。

そしてそれはそのまま、私の体験であり、学びであり、嬉しさであり誇らしさだった。

お昼過ぎに雲が切れて青空の広がる一時があって、風は相変わらず強かったけど私は幸福だった。湖面すれすれに飛び交うツバメの羽が私の耳のすぐ横を掠め、波立つ湖水に委ねられた私のアリュートは心地よい浮遊感に包まれ、湖の身じろぎに同調して見上げる空はくっきりと青かった。青みを帯びた深緑の湖水に両手を浸し、春の陽射しを身体に浴び、目眩を覚えるほどの速さで流れてゆく雲を見上げながら、私はもう、ひっくり返ることを恐れてはいなかった。

自分の幸せを許せるようになろう。
人の幸せをつくれるようになろう。
あらためて、そんな風に思った。

漕ぎ終えて上陸するのは、少し悲しかった。
もっとずっと、アリュートと一緒に揺られていたかった。
だから、名前はつけずに「アリュート」と呼ぶことにしていた私のフネに、やっぱり何か名前をつけようと決めた。
暴走する調味料たち/コンビニ不味いもの列伝
「グラタンコロッケ(パン粉、バターミルク、その他)、小麦粉、植物油脂、ソース、トマトケチャップ、砂糖、ショートニング、パン酵母、脱脂粉乳、食塩、乳等を主原料とする食品、卵、ぶどう糖、加工でん粉、pH調整剤、グリシン、乳化剤、増粘剤(加工でん粉)、調味料(アミノ酸)、膨張剤、卵白リゾチーム、香料、ビタミンC、(原材料の一部に大豆・りんごを含む)」
(某コンビニエンスストア、というかセブン・イレブンで購入した「グラタンコロッケパン」の原材料表記)

「一人だと、ついカップラーメンでいいや、という気分になってしまいますが、体を作るのは食べ物。一人になってからのほうが、食事管理は大切です。」
(『自分定食』行正り香)


もとよりコンビニのパンに「美味しさ」は期待していなくて、ひどく不味いのでなければそれだけで許容範囲なのだけれど。
これは常軌を逸して不味い、というか露骨に、普通の食べ物ではない。

昼休み、職場の電子レンジで温めてから一口かぶりついた途端、その代物が「何だか得体の知れない物体」であることに気づいた。条件反射で「おえっ」となって、一口めはティッシュに吐き出してゴミ箱行きにして、それから袋の表示をまじまじ見つめたのだけど。

食べ物としての実体が、どこにもない。
辛うじて読み取れるのは「粉類と調味料と化学調味料と薬品」。
というか、これのどこにどうやって(どんな魔法の所業で)大豆とりんごが含まれているのか、是非とも教えてほしい。

でもまだあと6~7時間は仕事しなきゃいけないし、他に食べるもの無いし、私は空腹にはめっぽう弱い体質なので(しかも燃費が悪い)、至上命令は「カロリー補給」だ。
結局、我慢して最後まで食べた。
何となく、フォアグラを思い出した。
フォアグラそのものの味ではなくて、鵞鳥への強制給餌を。

コンビニの食べ物に対してはもともとマクドナルドと同じくらい警戒しているのだけど、何せコンビニは「コンビニエンス」だ。お弁当を作るガッツが頻繁に尽きてしまう「なんちゃって弁当派」の私は、週二回くらいはお世話になっている。
でもさすがにこの「グラタンコロッケパン」で、「もういいです、コンビニエンス・ストアなんてものには二度と頼りません」と言い切りたくなったのだけど、最近比較的マシなクロワッサンが新発売になったので、原材料を注視しつつ、上手に付き合ってゆこう、と半端な結論に落ち着いた。
失われることのない時の狭間で
「ねえきみ、空がきみにとっていつまでも青くありますように。」
(『失われた時を求めて』/マルセル・プルースト)


無数の「記憶の絵画」のひとつずつが、丁寧に取り上げられては言葉で語り直される。時間は既に切り取られ静止しているはずなのだけれど、それらの一場面ずつが言葉の力で再び生命を吹き込まれ、束の間、鮮やかに息づく。肖像画(「スワン氏の肖像」「薔薇色のドレスの貴婦人」)、風景画(「サン=ティレールの尖塔」「タンソンヴィルの午後」)、戯画(「ウーラリとフランソワーズ」「アドルフ叔父の逢瀬」)、静物画(「木苺とサクランボのある食卓」「祭壇のサンザシ」)。これらの絵画が純粋に言葉だけで語られ、言葉のみの力によって解き放たれる。

季節の空気、陽射しや色彩や匂いや温度や湿度までもが、魔法のように立ち現われては消えてゆく。それは読み手である私が見たことのないはずの風景、聞いたことのないはずの音、つまり、覚えているはずのない記憶だ。
それでも、気紛れに再生されるそれら無数の過去の断片は、ひどく慕わしく、懐かしい。

きっと、これは忘れられない読書体験になる。
一巻目の半ばでそう思った。
これから、ゆっくり大事に読もう。
そしてどこか途中の一冊を、湖の上で読めたら素敵だな。
カヤック練習記@道の駅
琵琶湖の水、湖北ならともかく琵琶湖大橋の辺りじゃそんなにきれいとは言えないのだけど、それでも秋よりは春のほうがずっときれいで、たぶん藻とかプランクトンとかが夏を謳歌したその残骸みたいなものが秋にはまだ湖にひしめいているのに比べ、春の湖水は冬の静謐な浄化作用の名残りを留めているからなのだろう。
頭で考えれば容易に想像のつくことではあるのだけれど、緩やかなさざ波にまるごと身を任せ、青みを帯びた深緑の湖水に両手を浸して感じるその事実は、圧倒されるほどの「湖の呼吸」を伝えてきた。

最近ようやく暖かくなったと思ったら何故か私の休日にだけ天候が荒れる、という日々が続いて、昨日、ようやく「曇り時々晴れ、風速5m以下」の「素人カヤック許容範囲」な予報が出ていたので、カヤックを出すことにした。

初のシングル艇セットアップ、の予定だったのだけど親が無駄に心配して、何だかよく解らないうちに子育て中の実兄を前に乗せる羽目になり(あ、「羽目」とか言ったら怒られるや。車を出してくれた上に組み立て&解体まで手伝ってくれたのだから)、ぎゃあぎゃあと喧しく組み立て喧しく漕ぎ出し、喧しく漕ぎ回って喧しく撤収。一応、慣れている人間が後ろに乗るというのがカヤックのお約束なので(膝を使って船のバランスを取るという大事な仕事があるのだ)、そんなに慣れてはいないけど私が後ろに乗ったので、目の前にずんぐりしたのが乗ると視界が遮られるわ船が前傾して進みにくくなるわ(おまけに兄は「渋々」乗っている!)、進水式でUさんが乗ったときよりずいぶん喫水が深くて不安だったりもして、途中から風が出て来て湖が波立ち、おまけに寒くなってきたので、あまり長い時間は漕げなかった。

でもまあ、組み立ては慣れてきたし、自分の体力についても概ね把握できたので、良かった。
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