la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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スコルダトゥーラ、慈雨の如く
「一日は敵意に満ちた挑戦。これに挑むには同等の敵意が必要だ。」
(『終焉』ジョン・アップダイク)


それも確かに理解できる。
理解できるし、これまでの私の生き方はまさにそんな風だった。
でも。
たとえ一日が敵意に満ちた挑戦だとしても、私は私の敵意を捨てよう。
敵意に対して同等の敵意でもって挑むのは、もう止そう。

誰だったか昔、紛争地域を取材していたジャーナリストだかカメラマンだかが、「捕まって銃を突きつけられたら、とにかくニコニコする」というような話をしていたことがあった。戦闘で日常的に人を殺している人でも、ニコニコと親しげな素振りを見せている相手を撃ち殺すのは、想像以上に難しいのだそうだ。
もちろん、万全とは言い難い対策だけれど、比喩としては万全な教訓だ。

今日、自分の中に醜い澱のようなものが溜まってゆくのがどうしようもなく苦しくて、「帰ったらミステリー・ソナタを聴こう、いつもより少しボリュームを上げて、ミステリー・ソナタを聴こう」と祈るように考えていた。
本を読むとか、美味しいものを食べるとかではなく、音楽を聴くことでしか浄化されないものがある。いや、「浄化」という作用は、他の何よりもまず「音楽」に強く備わっていると私は思う。

歌詞があるわけでもない音の連なり、色も言葉も感情も持たない「単なる音」の連なりや重なりが、どうしてそんな力を持つのかは解らないけれど。
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サルガッソーにも風は吹く。
「たいへん長い眠りから覚めて、また生きはじめているような気がしていた。」
(『偶然(帆船アザールの冒険)』/ル・クレジオ)

ベランダ園芸再開しました。

ワイルドストロベリーとアップルミント。
身の程知らずにも(私は植物の世話がとてもとても下手)、初の多年草にチャレンジ。
土だけの鉢しかない冬のベランダって、寂しいという以前になんか薄汚なく見えるので。

1コのプランターに野苺2株とミント1株。
寄せ植えとかではなく、無計画に苗を買った結果の同居です。何となく、夏頃にミントだけ繁茂している光景が今から目に浮かびます。

恒例のバジルとタイムも種を蒔いてみたけど、一昨年の種なので(おいおい)発芽は期待薄。というか去年既に発芽しなかった種だし(おいおいおい)。
聞いた話では、奴ら(種)は買った年に蒔いてやらないと死んで?しまうのだそうな。でもベランダだと一度に蒔くのはほんの数粒だから、「どんだけバジル畑ができるんだ」ってくらいの残りの種を捨てるに忍びないんです。

芽が出たらびっくり。出なかったら、苗を買ってきて同じ鉢に植えます。種も肥料くらいにはなりそうな気がするので、ね。

でもとにかく、そう、春なんだ!
来週にはカヤックを出す、かも。
永遠の和平条約
「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるかやさしくなるかのどちらかである。」
(ウィル・デューラント/アルフォンス・デーケン『心を癒す言葉の花束』より孫引き)


ちょっと、引用元の本のタイトルを公表するのが気恥ずかしい。
普段この手の本を忌避しているから余計に。

誰かによって何かの意図で既に選別された言葉の群れと出会うことは、常に危険を孕んでいる。それに、「癒しを求める」というのはひどく自己本位な、対象に奉仕を強要するような響きがあって私は嫌いだ。さらには癒しを求めずにいられないとき安直にこういう本を手に取るのも、「泣ける」ということを本や映画や音楽の評価基準にしてしまうのと同じくらい、明白に間違ったことだと思う。

だから気の進まないままページを繰って(この本が手元にあるのは「成り行き上」だ)、「言葉の花束」とやらが果たしてこのぎすぎすした自分を少しでも和らげるものかどうか、ちょっと意地悪な気持ちで試してみたのだけど。

結構、知っている言葉が多かった。
それでも、忘れていた言葉ばかりだった。

自分がどういう人間なのかを思い出すことは、少し苦しい。
強さを纏わなければ生きていけない時に、自分の弱さを認めるのは。
まして、「弱さを認めることが大切だ」と説かれることは。

それは癒しなんかじゃなかった。
求めていたものでもなかった。
でも、今まさに出会うべき本ではあったのだ。

解決のできないことを、解決のできないままに受け入れること。
あきらめること。
認めること。
赦すこと。
張りつめて震える糸を、そっと断ち切ること。
それで初めて、人はその先へ進めるのだ。
自己愛という病の肯定

「すべての出来事には時があり、季節がある。生まれる時、死ぬ時、愛する時、憎む時、抱擁する時、抱擁を避ける時、…」
(旧約聖書『コヘレトの言葉』、もしくはザ・バーズ『TURN,TURN,TURN』より)


自分の葬式の計画をしている。
別に近々死ぬ予定があるわけではないのだけど、もし死んだら、私のお葬式では弔問客の入退場の際にザ・バーズの名曲『TURN,TURN,TURN』を流して欲しいと思う。あと、牧師には聖書のこのくだりを、文語訳で朗読して欲しいと思う。

引用した言葉は、もしかすると既に一度書いたことがあったかもしれない。

そもそも自分なりの「箴言集」、というのがこのブログの位置づけで、過日、たまたまそういう「言葉を集める」ということが話題になって、その話をしていた相手に過去の記事の中から何か糧になりそうな言葉を贈ってみよう、と思ったのだけど、読み返すとどうしようもなく戦闘態勢な言葉が満載で、おまけに自己愛の強さが見え見えで、我ながら辟易してしまった。

よろしい。私は自己愛の強い人間だ。
自分が生きることに不器用だということは自覚している。垢抜けていると言うことはとてもできない。緊張すると必ず馬鹿げたことをやらかす。世の中の悪意や不幸に耐えられない。そして、役に立つ美徳は何ひとつ持っていない癖に、何の役にも立たない美徳だけは無数に持っている。
でも、そんな自分を、私は決して否定する気になれないのだ。
救い難い、のだろうか?

最近、倫理とか常識とかいう明白であるはずの領域が、無神経に侵犯されていると感じる。私はただ「生き延びる」ことを目的として、そういう侵犯に黙って耐えるべきか? それとも、徹底抗戦を宣言して討ち死にすることを選ぶか?

大袈裟な。
でも、私は盤上の駒ではないのだ。
自分のチェス盤を前にした「対局者」なのだ。

春の訪れを目前にしてさえ、私の臨戦態勢はどうやら、まだ当分は解けないらしい。
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