la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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真夜中の幸福論(酔いどれバージョン)
「こういう味のものが、丁度いま食べたかったんだ。」
(武田百合子『ことばの食卓』)


幸福で幸福で、不幸。
不幸で不幸で、幸福。

いま私は自己完結型の自虐趣味に酔っている。

どういう意味かって?
欲しい本がありすぎるのだ。
ただそれだけ。

自虐趣味というのは、欲しい本をリストアップして「欲しさ」を比較検討して候補を絞り込む作業のこと。

前にも書いたけれど、私は基本的に、読んだことのない本は買わない。
それでも、何かの待ち時間とか通りすがりとか買い物のついでとかで本屋さんに立ち寄り、つい衝動買いしてしまうことがままある。
買って読んでつまらなかった、という本が部屋に溜まると、まとめてブックオフに二束三文で売り払う。そして売り払いに行くと必ずカウンターの人に「本日はキレイな本をたくさんお持ち頂きましてありがとうございます」という決まり文句を(つっかえずに言えるよう何度も練習したみたいな口調で)言われるのだけど、これが何故だかちょっと快感。たぶん「キレイな本」の価値を、自分が買った値段に頓着せずあっさり30円とか50円に見替えてしまうこと、その本を自分の趣味的理由だけでバッサリ切り捨ててしまう不遜な行為が、あんまり認めたくはないけれど、どこかしら快感であるのだろう。

でも、やっぱりそんな無駄遣いはできるだけ避けたいわけで(だって私は「お金持ち」じゃないから)、私の欲しい本リストには「読んだことがあって、もう一度読みたいと思う本」、「自分の本棚に置いておきたいと思う本」だけが連なることになる。

既に面白いことが解っている本。
もちろん装丁も好きなことが解っている。
買うのをあきらめる理由が解らない。
むしろ、まだ買っていない理由が解らない。

私は服とか靴とかバッグとかアクセサリーとか、そういうものにはまったく興味がない(それにしても最近じゃどこに行くにも履き古したダンロップのスニーカーだから、もうちょっとちゃんとしなきゃな、と思いはする。でも、次に靴屋さんで買うのは「新しいダンロップのスニーカー」だろうと思いもする)。だから基本的にはお金のかからない人間で、そうでもなきゃ薄給の身でやっていけるわけがないのだけど、物欲の無い人間、というのでもない。ただ、その物欲が「本」と「ワイン」にしか向かないだけ(ワインにしてもセラーは持ってないので、やれ何年物だグランクリュだスーパータスカンだと目の色を変えることはなく、ひたすら「ロワール地方のシュナン・ブラン」とか「南仏のカリニャン」とかに入れ込んでいる。ちなみに、カヤックは物欲で買ったのではなく、目的のための手段としてやむを得ない出費と判断して買ったものだ)。
って、また脱線した(「酔いどれバージョン」の酔いどれ具合)。

とりあえず、いま欲しい本。
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』
ウィリアム・ギブスン『パターン・レコグニション』
ロジャー・ゼラズニィ『伝道の書に捧げる薔薇』
ウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』
ビル・ビュフォード『厨房の奇人たち』
斉須政雄『十皿の料理』
スチュアート・リヴァンス『ウイスキー・ドリーム』
オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』

…意外と少ない?
でも、これが大問題なのだ。
ほとんど単行本。
もう置くとこ無い。
でも欲しい。
散々削ってここまで減ったのに、ここからまだ何か除外しろって、そんな。

というか、大好きなパワーズの『Goldbug Variation』、大好きな若島正の訳で出るはずなんだけど、かれこれ十年近く「翻訳中」のような…。バッハのゴールドベルク変奏曲絡み、あんまり根拠のない噂ではグレン・グールド絡み?という、一刻も早く読みたい作品なのだけど。

…まあ、考えても仕方ないか。
酔いどれ具合が頂点に達したので、そろそろ寝ます。
これまた「酔いどれバージョン」の酔いどれ具合。
何ともお気楽。
つまり、幸福で幸福で不幸。
不幸で不幸で幸福。
…落ち込んだりもしたけれど、私は元気です。

追記、最近『魔女の宅急便』を再観しました。面白かった。
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真夜中の幸福論(素面バージョン)
「ポキンと折れてしまう前に、曲がってしまいましょう。」
(前の職場を辞めたとき先輩がくれたアドバイス。未だに実践できない。)


まずはジャック・ケルアックに倣って、「現代詩」ならぬ「幸福」の技法を幾つか(ただしごく個人的なもので、決して普遍的なものではありません)。
・人に優しく。
・自分に優しく。
・頑なに思いつめない。
・自分の瑕疵を笑って受け入れる。
・譲れないことのために傷を負うのは、それはそれで仕方ない、と思うこと。
・傷ついた時は、おとなしく巣穴に籠って傷が癒えるのを待つこと。
・あまり酔っぱらわない。
・季節の移ろいを肌で感じ、それを呼吸し、愛すること。
・秘密の砂糖菓子を、こっそりたくわえること(食べるときは分量に気をつけること)。

さて、本題。
幸福と不幸のベクトルは、どうも等しくはないらしい。
一本の紐を左右から引き合っているのでもないらしい。
だから不幸でありながら同時に幸福であることも、幸福でありながら同時に不幸であることも、充分、可能なのだ。

幸せに「なる」、という言いかたに私は常々嫌悪に近い不信を抱いていて、というのも「幸せ」というのは別に、ある時点からずっと続いてゆくことが保証されるものではないからだ。だから厳密には、幸せになる、ではなく幸せであり続ける、と言うべきで、幸せになりたい、ではなく幸せであり続けたい、と言うべきなのだ。
言い換えてみるとどことなく欲深いような、「それってけっこうハードル高いよね」という響きになるのは、意図したわけではないけれど興味深い。「幸福という状態の維持」が実はけっこうハードルの高いものなのだ、という認識は、とても大切なのじゃないかと思う。

不幸は、どちらかというと幸福よりも持続性が強く、連鎖したり伝染したりする力も強い(ように思える)。おまけに人を弱らせる瘴気のようなものまで持っている(不幸を乗り越えることで結果的に強くなる人もいるにはいるけれど、だからと言って私は「人は強くなるために不幸を経験すべきだ」とは思わない。叩いて鍛えるというのは人が剣に対してやる行為、つまり軍隊における兵士の鍛錬であって、それで兵士の身につくのは生きるための強さではなく殺すための強さなのだ、そして両者がイコールになってしまうような場を、私はどんな意味であれ肯定する気はない)。
けれど、バルブ・ニコル・ポンサルダンに言わせれば、「人はいつまでも不幸でいられるものではない」。つまり不幸についても幸福の場合とまったく同じことが言えて、不幸になること、ではなくて不幸であり続けること、つまり「不幸という状態の維持」もまた、実はけっこうハードルの高いものなのだ。

物語が、「完」とか「どっとはらい」とかいう風に断ち切られて初めてハッピーエンドかそうでないかを判断されるように、幸福や不幸は、結局「終わり」つまり「死」が訪れて初めて可能になる人生の総括、みたいなものだ(中には歌劇『ドン・ジョヴァンニ』のように幕が下りても喜劇だか悲劇だか判然としない物語もある。私は「幕が下りた時点で登場人物たちがほとんど誰も幸福でない」という点で「これは悲劇だ」と判断するけれど、友人は「石像がいきなり喋り出して主人公を地獄へ引きずり込むなんて、観ている側はもう笑うしかない」という点で「これは喜劇だ」と判断している。或いは「喜劇的悲劇」なのか「悲劇的喜劇」なのか、ご意見お待ちしてます)。だから今この瞬間とかここ数日(数年)とかを「幸福だ」「不幸だ」と言うことはできても、ある時点から「幸せになった」とか「不幸になった」とか言うことは、生きている限りぜったい、誰にもできない。

ところで最近の私は、そこそこ幸福で、そこそこ不幸。
それなりに満足で、それなりに不満。
どちらにも、さほどこだわらずにいられるのが、今とても幸せ。

生きることは世界の肯定に他ならない。幾らかの躊躇と幾つかの留保つきで、迷った挙句に何度も、私は選ぶ。
世界を肯定することを。
そして、生きることを。
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