la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
どくしょきろく④
久々に読書記録。


『奇術師のハンドブック』クレイグ・クレヴェンジャー(65点)
想像していたのとは違っていたけど、まあ面白かった(タイトルとブックデザインからミルハウザー的なものを想像していた)。何でもアーヴィン・ウェルシュがこの作品を絶賛しているとのこと、でも私としてはウェルシュの『トレイン・スポッティング』のほうがずっと楽しかった。

『マイノリティ・リポート』フィリップ・K・ディック(70点)
今さらながらディックの短編集。ブックオフで投げ売りされていて、いたたまれなくなって買ってしまった。ディックくらいの大御所になれば「外れかも」という不安がないので安心して読めるのだけど、「期待通り」というガッカリ感が否めない、何とも我儘な読後感。

『不思議な羅針盤』梨木香歩(85点)
これは実家の母からのクリスマスプレゼント。包みを開けた途端、思わず悲鳴を上げたくらい嬉しかった。ちょうどその日、兄の名を騙ってYさん(兄の妻とか義理の姉とかいう呼び方もある)が投稿した文章が雑誌『danchu』の読者欄に採用されて『danchu』の最新号が送られてきていたのが実家に回ってきていて(ああ面倒くさい説明)、そこに載っていた平松洋子さんの文章が「ちょっと良いな」と思っていたら、この本に平松洋子の文章に触れた素敵な一章があって、おまけに別の章で以前「どくしょきろく」に記したゼーバルトのことも書いてあったりして、すごく、自分の芯のところが「祝福」されているような気持ちがした。
冷静になってみると何だか「らしくない」タイトルだな(「羅針盤」という名詞がではなく、「不思議な」という形容と、そのふたつの幾らか浅薄な結びつけ方が)、と思うのだけど、これは連載誌からのお題だったらしい。でも梨木さんはこのタイトルを気に入っているようで、そう、この人は大抵のことを善意でもって肯定することのできる人なのだ(批判ではなく感嘆として)、とあらためて嬉しくなった。
梨木香歩という人は、底抜けに「繊細で優しくてまっすぐに善良」だ。映るものをあるがままよりいっそう美しく反射して見せる目というのがあるけれど、この人の目はまさにそれなのだ。
けれど今の私は、その優しさに触れた途端、ぷつんと何かの糸が切れて一人では立っていられなくなりそうだ。シロクマはハワイで生きる必要はない? 本当に? でも、ハワイにいるシロクマは、どこへ行けば良いんだろう?
今の私はこの人の語る優しさに、甘えてしまいたくなる。だからいっそう、辛い。

『天の光はすべて星』フレドリック・ブラウン(90点)
読むのは三度め、知人に貸そうかと思い立って、その前に読み返しておこうと。どこでどんな風に裏切られるかをあらかじめ知っていての読書だけれど、それでも面白い。これをアポロの月着陸前に書いたって、凄いなあとしみじみ思う。文庫新装版の解説はかなりどうでも良かったけど、唯一、このタイトルが「マイベスト・タイトル」にオンリストされるというところには共感。ただし「ロマンティック」という形容は的外れだ。ここで言われる「星」というのは、空想的な象徴としての星ではなくて一個の「惑星」とか「衛星」、見たい・知りたい・行ってみたい・支配したいという、どこまでも「男の子」的な星のことだから。それが欠点といえば欠点。どこまでも「男の子」のための物語だということが。

『シャンパーニュの帝国』ティラー・J・マッツエオ(70点)
こちらは兄からのクリスマス・プレゼント。鮮やかなヴーヴクリコ・イエローの装丁。クリコ未亡人ことバルブ・ニコル・ポンサルダンの伝記だ。ルミュアージュが彼女の発明だったとは知らなかった。でも、今のヴーヴ・クリコ・ポンサルダンのシャンパーニュは当時のそれとは別物で(当時のシャンパーニュは極甘口のスウィーツ的な飲み物だったのだ)、そうなると「当時のそれを飲んでみたい」という、あまり有意義とは思えない欲求が湧き起こってきて困る。

『夜中にジャムを煮る』平松洋子(80点)
前述の雑誌『danchu』で偶然、ほんの一編のコラムに触れたのがきっかけ。それは「待つ」ということについてのとても充実した文章で、「待つ」時間の過ごしかたとその大切さについて書かれていた(ビジネス書や何かでよく書かれる「隙間の時間を無駄にしない」などという強迫観念めいたものではなくて、「隙間そのものを尊重し、楽しむ」といった趣き)。
待つことのできない人は料理に向かない、という意味の一文に、「いらち」の私ははっとさせられた。焼くのも煮るのも、私はじりじりと付きっきりでつつき回してしまう(アクを取りすぎてすぐ煮汁が足りなくなる)困った性格で、タイマーが鳴るまで出来上がりをのんびり待てた試しがないのだ。
ずいぶん昔、JRの駅で落ち合ってそこからバス、という予定で待ち合わせた友人が「バスの時間に遅れる」と連絡してきた時、私は激怒して予定していたバスに一人で乗った。友人を待たずに。そもそも私は時間を守らない人が許せないし、「バスは一時間に一本しかない」と事前に伝えてさえいたし、一時間も遅くなったら現地で過ごせる時間がほとんどなくなってしまう。けれどその時、私の頭の中には「自分が行きたい場所」と「自分がそこで見たいもの、過ごしたい時間」のことで一杯で、「相手が望んでいること」とか「誰かと一緒に過ごす時間」、「誰かと体験を共有すること」は一切、眼中になかったのだ(基本的にそういう性質は今も変わっていないのじゃないかと、思わなくもないけれど)。あの時、「待たされる」ことに短気を起こすよりも、「待つ」ことを楽しめる大人の余裕があれば良かった、と、つくづく思う。
ともあれ「食」にまつわる文章は、何であれ、生きることの原点を思い出させてくれて楽しい。もし梨木香歩の『不思議な羅針盤』で触れられていなかったとしても、『danchu』で出会ったからには遠からず、私はこの人の本を手にしていただろうと思う。
楽しく、とても楽しく、読んだ。

『アシェンデン』サマセット・モーム(70点)
アシェンデン、優しいなあ。スパイ小説なのだから身も蓋もないくらい非情な側面もあるんだけど、その非情さが「触れない、踏み込まない」という前提のもとにさらりと流されてしまっているのが良い。軽妙洒脱、というのだろうか。モームは、他の作品をちゃんと読んだことがないけど、何となく「敢えて読まないでおこう」と思った(でもそのうち読んでしまうのだろう)。

『幽霊船 ほか一編』ハーマン・メルヴィル(80点)
恐いよ、バートルビー。
表題作はかなり読み応えのある海洋冒険譚で、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の番外編的に映画化してくれたら楽しいだろうな、と思う(モンティ・パイソンの、会計事務所だか地方銀行だかが暴走する無茶くちゃな短編映画をふと思い出したけど、内容は全然リンクしてない)。
それにしても恐いよ、バートルビー。いや、昔どこかで一度読んだことがあったのだけど、あらためて思う。これは戦慄のホラー小説だ、と。

『舟を編む』三浦しをん(75点)
最近、事あるごとに「読む本がない」と嘆く私を気遣って、職場の後輩が本を貸してくれる。畠中恵の『アイスクリン強し』(70点)に続いて借りた一冊がこれ。非常に嬉しくありがたく、ページを繰る。三浦しをんは娯楽作品と純文学作品の両方をそれぞれ高度に書き切るという稀有な作家で、「POPカルチャー界から送り込まれた文学界への刺客」と私は勝手に名付けている(でもこの人の純文学系作品を、私は「何となく後味が悪そう」とかそんな理由で忌避し続け、未だに読んだことがない。なのでここからの記述は飽くまで娯楽作品に限っての感想)。あらゆる文化を貪欲に/軽々と吸収し、極上のエンターテイメントに織り交ぜてしまえる人。読んでいると声を立てて笑ったり、感動してちょっと泣いちゃったりもする。そしてこの『舟を編む』はブックデザインがまた、心憎い限りなのだ(終盤になって初めて気づく)。
読書体験としては違和感を覚えるほど漫画的/TVドラマ的な、「キャラクターの造形」や「演出」や「テンポの良さ」が少々「できすぎ」な感じはあるけれど、それも稀有な才能だ、と思って感服する。

と、この辺りで早くもネタ切れ。
最近、本をあまり読んでいないので。
その代わり(?)レンタルDVDで映画を渉猟しているので、そのうち「えいがきろく」をつけるかも、です。
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人待ち顔のアリアドネ/テセウス異聞
迷宮。石造りの。鈍色をした冷たい壁にきらきらと石英が光る。
はるか頭上に穿たれた小さな採光窓から、月光が洩れている。
手の中には白銀の糸玉がある。そこから伸びた細い糸の先端は、迷宮の入り口の扉に結ばれている。
白銀にきらめくその糸は、か細く、それでいて強く、いかにも誘惑的だ。
脅迫めいて。
いっそ狡猾なほど。
肩に負った深手に、冷たく湿った夜気が染みる。半ば凍え、彼は体じゅうの関節を軋ませながら、手から伸び暗闇へ溶けるその糸を目で追う。
この糸をたどれば、俺は生き延びることができる。
だが、本当に?
外には彼女がいるだろう、人待ち顔のアリアドネが。
彼女の目に不安は宿らない。気のない様子で時折、迷宮の入り口を見やる。
夜の寒さに両肩を抱き、小さな声で歌う。
 これであなたはわたしのもの。
 それこそが逃れられぬさだめ。
白銀の糸はいよいよ蜘蛛の糸に似て、手繰り寄せるその手に絡まる。
闇の奥底から、彼を浸している迷宮の闇ではなく彼の胸に沈む内なる闇の奥底から、鋭く囁く声がする。
 その糸を切れ。
 切って終え。
血の滲むようなその声はごく低く、それでいて強く、いかにも確信的だ。
神託めいて。
いっそ邪悪なほど。
自由の効かぬ両手で短剣を引き抜くと、彼はその柄を口にくわえ、自分を引き寄せ縛めつつある糸に刃を当てる。恐怖よりは怒りのために、その刃先は小さく震える。
だが、彼は迷わない。
人待ち顔のアリアドネ、おまえが俺を追って来るなら、そのときは応えよう。
ついに彼は白銀の糸を断ち切り、短剣を迷宮の床に振り捨てる。
迷宮の壁に背を預け、目を閉じて闇にその身を浸すと、冷えた汗が首を伝う。

そしてテセウスは闇に留まり、再びアリアドネにまみえることはない。
与えられたものと培ってきたもの、そして守ってゆくもの
「君は三十を過ぎてから魅力的になるタイプだ」
(うろ覚え、キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』だかその続編の『ドラキュラ戦記』で、チャールズ・ボウルガードが新聞記者のケイトに言った台詞、だったと思う)


「パッケージ」という表現がいちばん相応しい。
人間の顔立ちとか骨格とか、持って生まれた外見について。
はっきりと否定的な意味で、それはお仕着せの「ラッピング」みたいなものだと私は思う。

先日、仕事帰りに焼き鳥屋さんで飲んでいた時のこと。
私の職場というのはけっこうな田舎にあって、天然酵母のハードパンを焼くパン屋さんがオープンしたと思ったら開店半年で「ふわふわパン」に転向してしまうようなガッカリな土地柄なのだけど、この焼き鳥屋さんはメニューも内装もそこそこ垢抜けていて、まともな食材を使っていてちゃんと美味しくて気さくなサービスも嬉しい、という稀有なお店だ(赤ワインのボトルが冷え冷えで出て来たのは減点だったけど、混み合ってたのにクラッカーとチーズとポーク・パテをサービスしてくれたので帳消し)。

って話が逸れたけど。
その焼き鳥屋さんで、私は後輩から「男を手玉に取って楽して生きればいいんですよ」というようなことを言われたのだ。若干ムッとして「そんな生き方、ぜんぜん憧れてない」と答えたのだけど、もちろん彼女はちょっとした冗談として言っただけ、それから私が今「モテ期」にあると伝えたかっただけらしい。
うーん、この歳になって今さら「モテ期」とは。
嬉しいかって? いや微妙、というかはっきり言って、嬉しくない。
だって、どうせ被った猫がモテているだけだと解っているのだ。

頼むから、私の「羊的パッケージ」に勝手な妄想を重ねるのはやめてくれ。
そして私が料理好きだからといって「家庭的な女」にカテゴライズするのはやめてくれ。
とは言っても、この猫は私の「防具」でもあるので、被るのをすっかりやめてしまうには相応の勇気と覚悟が要る…。

ところで子供の頃、私は自分の顔が大嫌いだった。心底、なんで私はこんな顔なんだろうと思って悩んでいた。小学校の中学年くらいの頃、卒業生の寄贈だとかで校舎の階段の踊り場に等身大の鏡が設置されたのをよく覚えている。以来、階段を上り下りするたびに自分の寄る辺なさそうな、情けなく不安げな顔がちらりとこちらを見返すのが、とても腹立たしかった。
親の知人などに「かわいらしいお嬢さん」だと言われても、自分では自分のことを正真正銘の「ブス」だと思っていたのだから、「ああ大人ってどうしてこんな見え透いた嘘を言うんだろう」と、愛想笑いのひとつもせずに人間不信を募らせるばかりの子供だった。

本来、子供は成長するにつれて自分の性質と周囲とのバランスの取りかたを覚え、だいたい十代の半ばくらいまでには安定した「自分らしさ」を確立するものだと思う。けれど私には、なかなかそれができなかった。

今でさえ、それができているのかどうか確信は持てない。
この羊的パッケージに抗う狼の性質と、どこまでも羊的な羊の性質が、どちらも私の中には存在している。
果たして私は羊の皮を被った狼なのか、羊の皮を被った狼の皮を被った羊なのか、羊の皮を被った狼の皮を被った羊の皮を被った狼なのか、未だに判然としない。

けれどひとつだけ、羊も狼もひっくるめて「これが私だ」と言えるものがある。
それは、私の部屋の本棚だ。
狭い部屋にひとつきりの小さな本棚。既に容量オーバーでぎちぎちになっている。
ことあるごとに間引いてブックオフに売ったり捨てたりしてきたせいで今やすっかり選び抜かれた「精鋭揃い」になってしまい、これ以上は間引けないところまで来ている。

でも、ここにある本が私を育てて来た。
何度も手に取り、何度も読み返してきた本たち。
パッケージがどうあれ、羊や狼がどうあれ、私の「本質」はこの本棚にある本によって培われてきたのだ。

サン=テグジュペリ、ドストエフスキー、エミリ・ディキンソン、アルチュール・ランボー、チェーホフ、トルストイ、トーマス・マン、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、P.G.ウッドハウス、リチャード・ブローティガン、神林長平、大原まり子、G.A.エフィンジャー、ウィリアム・ギブスン、丸山眞男、保坂和志、堀江敏幸、梨木香歩、山尾悠子、吉野朔美、三原順、ゆうきまさみ、曽田正人。
書き切れないうえに脈絡があるのかないのかよく解らないけれど、私にとっての「精鋭」たちが、この本棚には揃っている。

年齢を重ねるということは、「与えられた」パッケージをどう変化させるか、ということだ。だから、私は歳を取ることを厭わない。それは「与えられたもの」より自分自身が「培ってきたもの」を試されるようになることだからだ。

もし今、ここに来て私自身が「培ってきたもの」、そしてこれからも「守ってゆくもの」が誰かに愛されるなら、そんな幸せなことはない、と思うのだけれど。
けれど当面、まだ私の「与えられたもの」が私の本質を歪めているという思いはどうしようもなくここにあって、それ故に、私は今の自分が「愛される」ことには耐えられそうもない。

だからどうか、目に見える幸福を選ばない私を、心配しないでください。
傲慢な物言いかもしれませんが、私には、今ここでそういう幸福を選べない理由が、はっきりとあるので。
そして、私は私だけの価値判断で、自分が今「幸福」なのだと万人に対して請け合うことができるので。
旅はまだ、終わらない
「白の手は、すべて、偽りの展開でした。」
(フレッド・レインフェルド/『チェス マスター・ブックス② 勝ち方の基本戦術』)


再び、チェスの日々。
というのも、冬の間はカヤックを禁止されているので(別に冬に漕いでも良いのだけど、万一ひっくり返った時に水温が低すぎると死ぬので)。

そして、うどんの日々。
というのも、私はこの歳になって初めて、自分が無類の「うどん好き」だということに気づいたので。

今日、夜9時前に帰宅するや否や(as soon as)、ご機嫌で鍋に湯を沸かしながら(最近の私は残業が全く苦にならなくなるくらい体調が良い。もしかすると世間的にはこれが標準のポテンシャルだったのか? 今までの私はずっと何かの病気で、それが治ってこんなに元気になったのか? と、戸惑いつつ喜んでいる)、年越しそば用に母が揚げた天ぷらを冷凍してもらっていたので、市販の白だしベースに卵とほうれん草とネギを入れて天ぷらうどんを作る。麺は加ト吉の冷凍麺、変にもちゃもちゃしていたり粉っぽかったりせず、煮込めば素直に「へたって」くれるので好き。煮ても煮ても頑固にゴムみたいなコシを保ち続ける麺を私は憎んでいるが、スーパーの冷蔵ケースに平積みされているぐんなりした茹で麺もまた憎んでいる、というかアレはいったん別茹でして水にさらしたくなる! とそこまで考えて、あっそう言えばお昼に食べたのはカップうどんだった、と思い出したのだけど、それでも特にがっかりはしなかった(たぶん私は三食うどんでも平気)。

いや、うどんのことはどうでもいいのだ。
ちょっと、誰かに向かって「私はうどんが好きだ!」と言ってみたかっただけで。

もとい、チェスの話。
以前にも書いた「チェス入門β」の戦績ではレーティング1180となかなかに上達した感じがあるのだけど、白番でしか指してないし人間相手には最近まったく指してないし(というのも唯一のチェス友達と会えなくなってしまったので)、定跡もぜんぜん覚わらないし、引用した本にしても「すべて偽り」とはまた必要以上にドラマティックな翻訳をするのだな、なんて変なところにばかり気を取られて、勉強の方にはぜんぜん身が入らない。

うーむ。まったくもって無為な記事になってしまった(だいぶ以前から、このブログが「生きるための独白」ではなく「たぶん読んでいるだろう誰かへの近況報告」に変わってしまっていることは自覚していて、何となく忸怩たるものを感じてもいるのだけど、所詮ブログはブログ、それに今の私が生きるために必要としているのはこの「誰かへ向けた近況報告」に他ならないのだ、と開き直っています。

ともあれ、私は当面チェスと戯れながら、そしてうどんを食べながら、春の訪れを待ちます。
春が来て、水温が上がるのを。
水温が上がって、ひっくり返っても死なない季節が来るのを。

そんな冬の過ごし方も、また心楽しいもの。
2013年、非現実化する現実の前で
「(a) だれにでもいかなることでも起こりうる。/そして/(b)心してそれにそなえよ。」
(『小さきものたちの神』/アルンダティ・ロイ)


非現実化する現実、というのは、決して戦争のゲーム化を憂えての話ではない。戦争がゲーム化していることに対して、そのこと自体を憂える必要はないのだ。というのも権力が戦争を望んだとき、どんな形であれ虐殺は起こる。その場合、人が殺されるという事実はそこに厳然とあって、それを既に権力が肯定してしまっているのだから、何もそれ以上に、たとえば標的にされた町が焦土と化したり罪もない人々が不特定多数として虐殺されたりする以上に、徴兵され前線へ駆り出された自国の前途ある若者たちが心的外傷によって再起不能になる必要はない、というわけだ。

だから、銃剣で生身の人間を突き刺すことを強要するよりは、モニタに映る赤い点に照準を合わせてコントローラのスイッチを押させるほうが、その当人と権力側の罪悪感も軽減されるというもの。よりいっそう、戦争が肯定されやすいというもの。

それは解る。とてもよく、理解できてしまう。
ただ私が憂えるのは、権力が戦争を肯定することそのものなのだ。

過日の選挙で自民党が圧勝したことは、「民意」=「国民の自民党への支持」を表してはいない。ただひたすら、「民意」=「政治になんて興味ないんだよ」を表している。選挙に行かなかった理由、或いは自民党に投票した理由を、周囲の人に訊いてみれば明らかだろう。

私とて、投票後にフリーライターの森まゆみ氏のブログを見て、「ボートマッチ」なるものの存在を知った。vote mach、自分の考え方と一致する政党(自分の政治的思想と一致する議員がその政党に何割いるか)を試算してくれる、WEB上のシミュレーション。
遊び半分にやってみたところ、普段なら投票するはずだった政党から高い数字が返ってきたのはまあ当然なのだけど(ここが当て外れだったらよほど勉強不足というものだ)、過日に自分が投票したのは愚かしくも別の政党で、一致の割合は4割を切っていた。

言い訳をすると今回の選挙では、私は原発に対する意思決定が最優先だと思っていたのだ。だから、とにかく原発にして最も一途な意思表示をしていた政党に一票を投じた。
それが蓋を開けてみたら、圧勝した自民が早々に打ち出したのは「改憲」。

そう、憲法さえ改正してしまえば、日本にも「戦争」ができる。
戦争ができれば、特需で経済も潤う。
どこかの原発が爆撃されてどこかの県が人為的に汚染されてどこかの一帯が死の領域になっても、経済さえ潤えば「残った」日本人は立ち直れる。
「勝ち組が勝てればそれでいい」。
そんなシナリオを読んでしまうのは、果たして被害妄想だろうか。

これが「民意」なんだとしたら、日本人は相当に馬鹿だ。とは言え、そもそも選挙の争点を見誤っていた私も、相当に馬鹿だったということは認める。けれど、この選挙は過去最高レベルで馬鹿げた結果になった。

きっと「民意」の示し方を知らない日本人が多すぎるんだろう。

これが「民意」だ、と言われる度に、私はどうしようもなく腹が立つ。
もし本当にこれが民意なら、私は民ではないのだろう。
きっと「国民ではない」=「非国民」だ。
けれど、もしこれが本当に「民意」なら、私は自分が「非国民」であることを誇りに思う。

そう、生憎、私は「日本国民」であることに誇りも何も感じない。日本の気候風土や自分の住んでいる土地に対する愛着は持っているし、日本という国家のありかたについてあれこれ思案したり憂慮したりもするので、無関心な大多数の人よりはよほど国のことを考えているとは思うのだけど、国家を権力と同義に捕らえた途端、そういう思いは嫌悪に変わってしまうのだ。

さて、ようやく引用した言葉に触れるけれど、これは2013年の私の座右の銘だ。
アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』は、インドの因習的な田舎を舞台に、その因習のゆえに運命を狂わされてゆく双子の悲劇を描いた物語。

いつもながら、縁起の良い引用でないことは解っている。
これは多数派である過ちに対して少数派である正しさを貫くということが、決して幸福とは結びつかない社会の物語だからだ。カースト制度は廃止されてなお絶対的価値観を後世に残し(ヒトラー政権下でユダヤ人虐殺に加担した母親が、戦争終結後、年老いてなお「私は間違ったことはしていない」と語るヘルガ・シュナイダーの手記『黙って行かせて』を彷彿とさせる)、その禁忌を破った者には容赦のない制裁が加えられる。この物語は、その制裁を「容赦なく」描くことで、そのことの過ちを糾弾しているのだ。

読後感が陰鬱でないのは、決して著者の乾いたユーモアや淡々とした語り口のためではない(解説にはそう書かれていたが)。読者の主観が圧殺される側の意志や闘志に共感するからだ。

積み重ねられてきた歴史の中では、正しさが突き詰められ純化されることは、決まって権力の定義した正しさのみが絶対化される独裁の悪夢に結びついてきた。この物語で語られるインドの数世代の物語も、まさにそのことを描いている。けれど、読み手が共感するのはその権力の側ではなく、圧殺されたマイノリティの主義信条のほうなのだ。

たとえば基地を沖縄に押しつけて平和を保っている本土は、沖縄が焦土と化しても本土の経済が潤うならそれで良しとするだろう。

けれど。正しくあろうとする意志は、そう簡単に消え去るものではない。

新年、私は毎年の恒例行事と化している「びわこ詣で」に行ってきた。元旦には浮御堂の近く、ゆりかもめの浮かぶ湖面が穏やかな冬の陽射しに輝くのを眺め、そのゆりかもめたちが互いに交わす声のない声に耳を傾け、一羽一羽が何かの信号を受け取って/送って羽ばたくのを眺め、二日には護岸工事で無惨に削り取られた真野川の河口を眺め、そこに水鳥の一羽さえ見当たらないのを眺め、春になったらここからカヤックを出そう、と思っていた当てが外れたのを悟った。

合理的であることは、非情なことだ。

当て外れの多いのは私の人生の常として受け入れるとして、それにしても、不穏すぎる。
あまりにも、目的が的外れだ。

新しい命が身近で誕生するのに出会うたび、私は祈らずにはいられない。

この子たちに希望がありますように、と。

生きる歓びを、全身で感じる時がありますように、と。
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