la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
籠の中の(重すぎる)小鳥
アリュート380T

マイカヤック初披露(@実家)です。
ちょっと皮がしわしわです(そして後ろ側はちゃんと閉まってません)。

私が住んでいる部屋は狭いので、このアリュート380Tは琵琶湖にほど近い実家に、買って以来ずっとパッキングされたまま鎮座してました(もちろん立地条件をいいことに実家をカヤックの拠点にする気でいる親不孝者です)。

昨日ようやく、「果たして一人で組み立てられるのか?」という問題を検証しに(ふつう買ってから検証するようなことじゃない)、無人の実家(両親はただいま放浪中)へ行ってきました。

結構な重労働の末、骨はそれなりに組み上がったんですが、骨組みを皮の中へ突っ込んで全体をピンと張らせる(「テンションをかける」)際、テコの原理でそんなに力はいらないはずの所で、そのテコが動きませんでした。無理に体重をかけるのも怖くて、かと言ってバラしてやり直すだけのガッツもなく、そこでいったん諦めて解体、再度パッキングしました。
多分KパイプとGパイプをつなぐ時にヘマをしてGパイプが伸びてしまった(それで骨組みの全長がちょっと長くなって、皮に収まり切らなくなった)んだろうなと、説明書の注意書きを見ながら反省。

でも、意外と「やればできるじゃん!」という感じでした。
もっと天井の照明をぶち割ったり和室の襖を突き破ったりという大惨事を予想していたので(おいおい)、だからこそ両親の留守にやったんですが(ああ、パパママごめんなさい)。でも実家も無傷、自分も無傷(手のひらの肉をパイプの繋ぎ目にちょっと挟んじゃったのと、今日やっぱりちょっと筋肉痛、という程度)だったので、非力でドジな私としてはかなり上首尾だったのではと。

所要時間は、組み立て開始から断念まで(途中トラブル込みで)30分くらい。これなら完成まで1時間かかるってことはなさそうです。
しかも、組み立ては、大変なんだけど楽しかったし。
折りたたまれたアルミのパイプが、だんだんフネの形になっていくのが。
そして、これが私のフネで、私が自分の手で組み上げてゆけるんだということが。
とっても嬉しかったんです。

毎年わけのわからない旅愁に苦しめられる10月なのだけど、あの胸をふさぐ金木犀の切ない香りも、今年はカヤックのおかげで甘やかな期待に変わったみたい。

来月、進水式をする予定です。
もうずいぶん寒くなったし、お天気次第では来年(春以降)になるかもという、気長な話ですが。
とりあえず、皮は背負って、骨その他の装備はカートで引っぱる、という「分離式運搬法」(私の考案)でいこう。もちろん当面は同行者を募って、ですが。
カヤック部は(無理やり?)二名になったので、新入部員Uさん、進水式よろしくお願いしますね~。
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陽気な狂気の行きつくところ
「実際にはおまえたちが押しつけようとしているときに、私を説得しているなどとは思ってほしくないね。」
(『耳ラッパ』/レオノーラ・キャリントン)


まずは原語の「ヒアリング・トランペット」を「耳ラッパ」と訳した野中雅代氏に、長い拍手を。

さて、主人公マリアンは御歳92歳。息子夫婦と末の孫と一緒に暮らしているが、ある時、親友のカルメラから「耳ラッパ」なる贈り物をもらう。これを耳にあてると、すっかり遠くなってしまった彼女の耳にも周囲の話声や物音がはっきり聞こえるのだ。
そこでさっそく(カルメラに唆されて)家族の会話を盗み聞きしてみると、彼らは何とマリアンを「施設」へ入所させる相談をしている。

もしやこれは気の滅入る家庭争議小説か、それとも虐げられた老婆の恨みごと日記か、悪くすると非人道的な施設への告発本か、と怯んでしまうのだけど、そんな心配は無用だった。

とことん暴走する妄想癖の持ち主・カルメラのキャラクターが破格だ。マリアンの施設行きを知った彼女は、11階に閉じ込められたら長いロープを伝って逃げろとか、機関銃を調達して助けに行くとか、40匹の警察犬が追い掛けてきても「犬の群れは格好の標的よ」とか言う。変装(それも昔の牧童に!)して面会に行く計画を立てたり、窓に鉄格子があった時のためにこっそり小さなやすりを差し入れたりする。

実際には、マリアンが入所した施設“同胞愛の光の泉”はカルメラの妄想ほどひどい施設ではない。ただ、どこかしら絵本の中に迷い込んだような、奇妙な非現実感がつきまとう。それから経営者たる精神科医が魂の救済のためと称して的外れな規則を押しつけてきたり、同じものを食べているはずなのに肥満している入所者がいたりする。

そんな展開だったから、物語が途中でいきなり中世へ“跳んだ”時には面喰った。
妄想が、あり得ないやりかたで現実と交わったのだ。
施設の食堂に飾られた、謎めいた尼僧院長の肖像画がその鍵。
尼僧院長の聖杯探求や異端の儀式が語られる挿話は、すぐに老女たちの生活と結び付けられることはない。もしや耳ラッパが聖杯だったりするのだろうか、と思ってしまったりもするのだけど、そんなこともない。

すべてが収斂する「点」は聖杯でも耳ラッパでもなく、「自由のための闘争」だ。
ここでは異端が断罪されることなく、むしろ闘争そのものと重ね合わされる。どう見ても火あぶり確定の尼僧院長(敬虔なクリスチャンなら真っ青になって十字を切るなり卒倒してしまうような異端者ぶりだ)も、マリアンに言わせれば「いずれにしろ並外れた女性だったに違いない」。

つまり、ここで語られているのは「何が正しく何が間違っているのか」ということではなく、異端を罪として問答無用に弾圧したキリスト教の“権力”批判であり、引いては個人の精神を馬鹿げた理屈で矯正しようとする精神分析の“権力”批判なのだ。

もちろん、傍目には「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」の物語でしかない。
物語として厚みのあるほうではないし、周到な仕掛けがあるわけでも技巧が凝らされているわけでもない。
けれど、「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」にしかできない闘争と、「ちょっと頭のいかれた婆さんたち」にしか語れない言葉が、そこにはあった。

天晴な力技(特に終盤、秘教的な世界観をためらいなく祝祭のイメージとして迸らせるくだり)。

風変わりで、突拍子もなくて、そして力強く晴れやかな物語だった。
暮れてゆく空の色を、ただ見つめるということ
伸びやかな青に澄んだ秋の空が、それまでの照明にセロファンをかけたように、ふっと色合いを変える。落日の始まりに気づくのは大抵そういう感じで、そのセロファンは懐古趣味なセピア色とは程遠い、ほとんど透明に近いくらいの淡いトパーズ色だ。

地平線に近い空は白々としたシャンパン・ゴールド。夜明けなのだと言われればそのまま信じてしまいそうだ。傾いた太陽の光を受けて、ちぎれ雲が金色に光る。やがて空はゆっくりと彩度を落とし、残照のきらめきもまた色褪せて、すべてが薄紫と薄墨色との無限の境界へ溶け込んでゆく。
その移ろいがあって初めて、ああ、これは夜明けではなく日没だ、と私は確信する。

秋の日暮れは時に切なく、時にたとえようもなく美しい。
創造主たる神様は「天にまします」のだから、暮れてゆく空を地上から見上げたことはきっと、ないだろうに。
そんな風に思ってから、私は少し怯む。
私は神を信じてはいないのに、と。

祈りを叶える神、逆境から救う神、思いがけない“ギフト”をもたらす神。
或いは信仰を試す神、試練を与える神、天罰を下す神。
そして、変えられない宿命を司る神。
それらの神を、私は一切、信じていない。
善も悪も、試練も逆境も、喜びも幸福も、すべて人間のものだと思う。
自己責任という非情な言葉の、それが本来の意味なのだと。

そのくせ、私は空の色を見つめる時、そこに何か大きな力のはたらきを感じる。
善悪の基準、報酬や懲罰、身体や魂、宿命や意志とも無縁な存在。
いや、恐らく存在という概念とさえ無縁な、何かの“力”。
それはきっと、宇宙にはたらく力だ。
人の存在を超越/無視した、巨大なエネルギー。

神であれ何であれ、意志ある何ものかがこの星を回しているのではない。
もし私が何かを神と呼ぶなら、それは重力であり、遠心力であり、熱量であり、質量だ。
それはつまり、ええと、何だ、とにかく“すべて”だ。
この世界にはたらくすべての力。
太陽が燃え、星が凝固し、重力と遠心力とが奇跡的に釣り合い、その途方もないエネルギーでもって太陽の周りをぎゅんぎゅん回る。

その「ぎゅんぎゅん回る」惑星のうちのひとつが地球。

その地球の表面はおよそ1/3が海に満たされ、残りの2/3が陸地だ。海においても陸においても無数の生命が、それぞれの日々を生きている。怒りと憎しみに満ちて殺し合いながら/愛と歓喜に満ちて求め合いながら、互いに嫉妬や侮蔑の念をぶつけ合いながら/感嘆や尊敬の意を交わし合いながら、或いは地球のちょっとした身震いに、その儚い生命を脅かされながら/その唯一無二の生命を固守しながら。

そして潮が満ちてはまた引き、時に狼男が満月に向かって遠吠えする。
もうまったく、気が遠くなる。

でも、そんな地球でほんの一瞬の人生を生きることを、最近ようやく、受け入れられるのかな、と思い始めた。
空の色や、風の匂いや、水の手触り。
生まれて来なければ、生きていなければ、私はそういうものの美しさを知ることはなかったのだろうから。この宇宙というものの存在を知ることも、なかったのだろうから。

水兵、リーベ、ぼくのフネ。
ぼくのフネ。

そう、念願のマイカヤックが届いたんです!

当初の予定ではフジタカヌーの「アルピナ1」のはずだったんですが、いろいろあって(いや、いろいろはないか)アルフェックの「アリュート380T」になりました。

わかる人にはわかるバカなエピソード。
私はある日とつぜんモンベルストアへ出掛けて行って、カウンターでお店の人に「あのう、フジタカヌーのファルトボートって置いてますか?」と訊いたんです。

アルフェックを始め複数の自社レーベルを持つ、アウトドア業界たぶん独り勝ちのモンベル様に向かって。

勝手に脚色したイメージだと、アルフェックはミスタードーナツで、フジタカヌーは職人気質の老舗ドーナツ屋さん。私の好みからすると、やっぱりここはフジタカヌーになっちゃいます。でもフジタカヌーはそうそう気軽に行ける場所にはないので、全国あちこちにショップを構える天下のモンベルならフジタカヌーも置いてるに違いない!と勝手に思い込んで出掛けたんです。

それで「あのう、フジタカヌーの…」とバカを言った後、「いやあ、うちは自社でアルフェック作ってるんで、他社の製品は置いてませんよ」で終わっていれば「ふりだしに戻る」だったんですが。お店の人が親切に、アルフェックの看板ファルト「ボイジャー」(野田知佑とか梨木香歩の愛艇がこれ)の組み立て実演を見せてくれたんです。その時の「フジタカヌーさんよりずっと組み立ては簡単ですよ!」というセールストークもあって、結局、アルフェックに鞍替えしました。

買ったのは少し前なのだけれど、届いたのは昨日。
購入後、最初の組み立てはお店の人がやってくれて、フレームと船体布がフネの形に馴染むまで2~3日そのまま預かってくれます。それからおもむろに解体して梱包して、発送してくれるというシステム。

そして、ついに我が家にやって来たアリュートを前に、私は愕然としましたよ。

こいつ、重くて一人じゃ運べない…。

カタログには「総重量:14kg」って書いてあったけど、絶対嘘だし(セットアップ時間だって「9分」って書いてあったのにモンベルの店長さんは「慣れれば20分くらい」って言ったし!)。

まあ一応、タンデム艇ではあるんですが、一人で運べないなら「好きな時にぷらっと漕ぎに行ける」という最大の魅力があっさり消えてしまうんです。

困ったな。
とりあえず、悪あがきしてカートを買ってみよう。

…というわけで、進水式はまだです。

自艇に「○○号」とか名前を付ける人も多いみたいだけど、私は梨木香歩に倣ってただ「アリュート」と呼ぶつもり。アリューシャン列島の先住民、カヤックを作り海豹漁をしていたアリュート(アレウト)族にあやかった名前なのです。「ボイジャー」もいい名前だけど、「アリュート」もいい名前。

それからもうひとつ、私のフネを店内で組み立ててもらっている時、ご両親に連れられて買い物に来ていた3~4歳の女の子が、アルミのパイプがだんだんフネの形になっていくのを、じっと見つめてました。ときどき姿を消しはしたけれど、完成したときにはちゃんと戻っていて、まるで魔法を見たような顔をして立ち尽くしていたっけ。

あの子は今日ここで見たフネのことを、明日になっても覚えているだろうか。
ひょっとして、大人になっても覚えているだろうか。
いつかあの子が、パドルを握って水辺へ漕ぎ出す日が来たら素敵だな。

そんなことを思いました。
Designed by aykm.