la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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チェロ・アンサンブルの愉しみ@アルティ
チェロ5台。
チェロだけチェロだらけ。
男性奏者(日本人)5人。

昨日、アルティ(京都府民ホール)に聴きに行ったコンサート。
地味と言えば地味な編成で、チェロばかり同時に5台も鳴ると曲によっては「もやもや」した感じに聴こえる難点もあり、何故か曲の合間に長いMC(!)が入ったり奏者の皆さんがこまめに入退場されたりでなかなか音楽に没頭できないという難点もあり、何より席が二階の下手側ギリギリのところで、座るとバルコニーの手すりがちょうど目の高さにきて舞台が極めて見づらいという難点もあり(アルティ、綺麗だし京都らしい雰囲気もあって良いのだけど、あの二階席の手すりだけは何とかならないものだろうか)。

でも、終わってから振り返ると、良かったなと。
けっこう手頃な価格のチケットだったのに、チェロの音色が意外なくらい美しかったのだ。

プログラムはバッハのソナタ、カザルスのオリジナル、ウィルヘルム・フィツェンハーゲン(誰?)、シューマンのカノン風小品集、という些か玄人向けの内容で、アクセントにピアソラの『タンティ・アンニ・プリマ』(これがまた良かった)。

最初のバッハが始まった瞬間、あ、いいチェロだ、と思った。
あまり国内の演奏者には詳しくないので、咄嗟に「楽器の高級さ」に目が(というか耳が)行ってしまったのはかなり失礼だったかもしれない(後からプログラムを見て、わぁすごいメンバーだったんだ、と悟った次第)。
それで、ああ来て良かった、風邪引かなくてよかった、と思いながら聴いていたのだけど。
バッハが終わって、楽しみにしていたカザルスだ、と思って身を乗り出したら、皆さんいったん退場されて。演奏者のひとり、河野さんが空手で戻って来られて、ご挨拶と、おもむろに曲の解説を始められて。

まあ「親しみの持てる感じ」とか「クラシック初心者にも親切なわかりやすい解説」とかも、それなりに意義のある良いものだと思う。数年前にびわ湖ホールの「弦楽四重奏講座」的なコンサートに行ったことがあって、それぞれの曲をパートごとに分解して聴かせてくれたり、「ここでこの技法を用いなかったら、この曲がどんな響きに変わるか」というのを実演してみせてくれたりと、とても面白い体験をしたことがある。でも昨日は、私は飽くまで「チェロ・アンサンブル」を「愉しむ」ために足を運んだのだ。ただひたすら、チェロの音色が聴きたかったのだ。

だから、解説が長くて、せっかくの音楽の余韻が散り散りになってしまうのが惜しくて、かなり苛々してしまった(最初からそういうコンサートだと解っていれば楽しめるトークだっただろうに。まあそこら辺は、事前のリサーチが足りなかった、ということで。終盤、もしかしてびわ湖ホールでお話されてたのと同じ方なのでは…という疑念が沸き上がって来たけど、今のところ確認はしてない)。

でも、チェロってほんとに良い音がする。
ヴァイオリンはもっと独善的(と言ってしまうと身も蓋もないけど)で派手な感じ。激しい歓喜とか激しい悲哀とか、どこか「過剰なもの」を含んで響く。それも時にどうしようもなく聴きたくなる音色ではあるのだけど、普段の私は、チェロの音色のほうが好きだ。
チェロは、深い思索から紡ぎ出される緩やかな感情を秘めて響く。ヴァイオリンの緊張とは対照的な、穏やかであたたかい音色。歓喜というより慈愛。悲哀というより哀愁。

私が苛々してしまったトークの一部によると、演奏者の方々のチェロはほとんどが1800年代に制作されたイタリアの楽器だそうだ。プログラム終盤の下手側の二台の音色が、ことに印象的だった(いちばん端はたぶん京響の主席ソリストの方で、含みのある豊かな低音がとても美しかった。その隣はたぶんいちばん若い方で、メロウなテノールを思わせる響きに「チェロってこんな音も出せるんだ」と感動した)。

だからね、アンケートには散々なこと書いちゃった(「話が長すぎる」)けど、振り返ってみれば行って良かったし、いい音を聴けたし、いい時間を過ごせた。
ほんとに、「行って良かった」と思うんだ。それから、「また行きたい」とも。

魂の洗濯って、「心が洗われる」と同じ陳腐な言葉だけど、やっぱり音楽には何かしらの浄化作用があって、今日の私はずいぶん晴れ晴れとした気持ちだった。
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みたび、生きることの再確認
「私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
(『グスコーブドリの伝記』宮沢賢治)


宮沢賢治を読んでいる。
厳密には、再読している。
『春と修羅』は冒頭を暗誦できるくらいに好きなのだけど、何故か、宮沢賢治が好きだ、と人に言うのはちょっとこそばゆい感じがして、なかなか表明できずにきた。
どうして、宮沢賢治を好きだと言うのがこそばゆいのだろう。

思えば私も昔、「晴耕雨読」というのは勤勉さを表す四字熟語だ、と勘違いするのと同じような勘違いを、宮沢賢治に対してしていた(「宮沢賢治」というのは田舎くさく純朴で説教じみた童話や詩を書く人だ、という)。『春と修羅』を一読すればわかるのだけど、本当は、かなりの鮮烈な詩情と激情を秘めた人なのに。

たとえば、あまりにも有名な『銀河鉄道の夜』のカムパネルラの言葉「みんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」。普通、何て立派な少年なんだろう、と人は思うかもしれない。崇高な自己犠牲の精神、無私の境地。けれど、本当のことを言えば、カムパネルラのからだを百ぺん灼いたとしても、みんなの幸を購うにはまったく足りないのだ。現実には、ただひとりの人間の命が、そのひとりを除くすべての人間の幸福を購うことはできない。私は確信を持って言うのだけれど、宮沢賢治はそのことをはっきり理解していた。人の命の軽さと重さとを、よく解っていた。だから、崇高な自己犠牲としてではなく絶望とほとんど同義の慨嘆として、或いは報いられることのない叫びとして、この言葉を書いたのだ。

グスコーブドリは迫りくる飢饉から人々を救うために、火山の爆発を誘引する。最後のひとりはどうしても逃げられないというその計画の、最後のひとりであることを選ぶ。まさにカムパネルラが夢見たことを、グスコーブドリは実現したのだ(その意味で、私は『銀河鉄道の夜』よりも『グスコーブドリの伝記』のほうが好きだ)。もしそうすることで他の人たちが幸福になるのならば、この物語は掛け値なしのハッピーエンドの物語として(私には)読める。何よりグスコーブドリは誰かのために強制されて犠牲となったのではなく、人が止めるのにも耳を貸さずに彼自身の望みを叶えたのだから。

宮沢賢治の理想であり、憧れであり、届くことのない祈りとしての『グスコーブドリの伝記』。人に自己犠牲を強いるための権力の小道具にもなりかねない物語ではあるけれど、それを避けるための布石もちゃんと打たれている。そして私もまた、多くの人の無事を購える命を持ったグスコーブドリに、憧れと届かない祈りとを抱く。

つまりこういうことだ。私が自分の命を犠牲にしても、誰も幸福にならない、ということ。
もしかすると、だから私は生きているのかもしれない。
それに、もしかすると、私が生きていることで、誰かを幸福にすることはあるかもしれないから。
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