la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
ギャンビットは受け入れられない
「だって、先に私を拒絶したのは貴女でしょう。」
(アリス・フォーリング『クイーンズ・ギャンビット』)


このブログで二度目ですが、コメントの返事を記事にしてしまいます。

感想として。
実は一瞬、テレビ擁護論かと思いました。「こんな立派な視聴者だっているんですよ」という反論かと…失礼しました。でも語学のために海外ドラマを見るというのはテレビの見方としては悪くない、というか、目的があって結果がついてくるのならそれはなかなか「立派」なことなのじゃないかと…腑抜けの私としては思います(さすがに食事中にテレビを見るのは、番組の内容を問わずその食事が哀れだと思いますが)。

寄り道として。「頑張れ」「頑張ろう」、浅薄な励ましの言葉。掛け値なしの善意が相手にとって負担になり得るということ、哀れで悲痛な齟齬、もどかしさとやりきれなさ、等々。

さらなる寄り道として。人の感情のエネルギーを物理的に利用できたら、というSF的空想が私にはずっとあって、怒りや悲しみ、愛情、優しさ、歓喜、嫌悪、侮蔑、といったもろもろの感情を、「愛は地球を救う」式のお天気で間接的な作用ではなく、かと言って「涙を流しすぎて辺り一帯が海になる」式の無駄な作用でもなく、たとえば激怒している人の怒りのパワーでタービンを回して電力を賄う、というような、質や方向や意味や価値を超えた純粋なエネルギーとして作用させることができたら、これはもうエコの最たるものじゃないのだろうか(安定供給の保証はないけど)、云々。

プレイバック、本題として。
テレビを拒否する心理の一面だけを取り上げるなら、優越感60%、劣等感40%というのが正直なところ。通俗的なもの、下世話なもの、理性や知性を無視するものを見下す心理は明らかにあって、それを否定するほど私は八方美人ではない。

いちばん大きいのは、既に選別され洗浄されたのち脚色された情報な対する猜疑心だ。どこまでが事実でどこからが被害妄想か自信を持って言い切ることはできないけれど、それでも事実80%、被害妄想20%くらいだろうと思っている(私のメディア不信はそれほど根深い)。

そして、40%の劣等感。これは十代の頃、「多数派に属さない」ということが「どこにも属せない」と同義だった時代の名残だ。クラスメイトと話を合わせるために、見たくもないドラマやバラエティや歌番組を(恋愛をしか歌わないポップスターたちの切り刻まれた断片ではあっても、音楽であるというだけで歌番組はまだしも楽しめたのだけど)、じっと見つめていた日々の思い出。

これを書きながら、何故か劣等感が50%を超えてじわじわ膨らんでくるのを抑えられずにいるけれど。

私は劣等感の裏返しとして「大衆」という乱暴な枠を打ち立て、その中に人々を押し込めて侮蔑するのか?
おそらくイエス。そう、イエスだ。
…哀れな私。

でもとにかく、大人になった私は自分の部屋を持ち、そこからテレビを排除することに成功した。
そのことは、単純に嬉しい。この気持ちで太陽光くらいの発電はできそうなほど。そして「テレビ持ってない」という話がネタとしてけっこう盛り上がると気づいた時、私は確かに何かから解放されたのだ。そのことも、(たとえ三葉虫の化石扱いされようと)単純に嬉しい。

大人になるって素晴らしい。
決して自己肯定でも人生讃歌でもないけれど、大人になるって、素晴らしい。
スポンサーサイト
テレビの地平と美食の基準
「しかし暗号を聞いたからといって、われわれが平安に達しうるわけではない。」
(『哲学の学校』カール・ヤスパース)

私の部屋にはテレビがない。

それはつまり、私のうちにはテレビがない、ということだ。

地デジ対応が間に合わなかったとか、NHKの受信料を払いたくないとか、そういうわけではない。
マクドナルドが嫌いなのと同じレベルで、私はテレビが嫌いなのだ(第一にうるさい。第二にくだらない。第三に嘘くさい…1957年にテレビを「『一億総白痴化』運動」と評した大宅壮一に、2011年の私は無条件に賛同する)。

「テレビを持っていない」と言うと、決まって驚かれる。もしくは気の毒そうな顔をされる。近しい友人なら「さもありなん」と思ってくれるのだけど、他の人たちは地雷を踏んだか三葉虫の化石を発見したか、というようなリアクションをする(それが楽しくてわざと言いふらしているくらいだ)。

先日は美容師さんに、「えっ…じゃあ普段、家で何してるんですか?」と訊かれた。うーむ、テレビを観るよりは有意義に過ごしてるつもりだけど、こうもストレートに訊かれると自信がなくなってしまう。

でも。
テレビのない生活を始めてもう数年が経つけれど、実家にいた頃から自分でテレビをつけることはほとんどなかったし、今も「こんな時テレビがあったら…」と思うことは年に一度あるかないかだ。それもほぼ100%、そろそろF1開幕戦じゃないか? そろそろF1ベルギーGPじゃないか? というだけのこと。しかも私がF1に夢中だったのは大学時代で、今ではチームもドライバーもよく知らないし、大好きだったホッケンハイムのロング・ストレート(マシントラブルや事故が多発して「悪魔が棲む」と言われていたコース。深い森を切り裂いてまっすぐ伸びた道をエンジン音を響かせて駆け抜ける赤いフェラーリの美しかったこと!)が改修されて無くなってしまってからは、9割がた熱は冷めている。

たまに余所でテレビを見る機会はあるけれど、最近おもしろいと思ったのはヨーロッパの大聖堂の建築を現代の技術で分析するという、フランスが制作したドキュメンタリー番組くらいだ。

何が面白くて、何を求めて、人はテレビをつけるのだろう。情報? おそらくイエス、けれどリテラシーを伴わないメディア受容は白痴化を促進するだけだ。孤独と静寂に対するアレルギー反応? 完全にイエス…テレビ番組の予告をテレビで見て、そのテレビ番組をテレビで見て、そのテレビ番組の総集編をテレビで見て。哀れな人たち。

私とて、世間に完全に背を向けるつもりはない(そんな恵まれた立場にはいない)。震災と原発事故、そこからの復興の試み、9.11のテロから10年が経ったこと、世界的な財政危機や日本の新内閣の動向。

気になることは山ほどある。知りたい情報も山ほどある。
けれど、テレビは、決してそんな欲求を満たしてはくれないのだ。

私の求める美味しさがマクドナルドにないのと同じレベルで、私の求める情報は、テレビにはない。

脚色や誇張といったことより、今は「隠蔽」という怖さを感じる。必死で隠すというよりは「敢えて触れずにおく」というスタンスの「隠蔽」。

たとえば近ごろ外国人向けの食品スーパーでは、すべての商品に放射性物質の測定値が記載されているのだそうだ。でも、幾らテレビを見ていても、そんな事実は語られない(たぶん)。

これは憶測に過ぎないけれど、もし事故が中国や北朝鮮で起こったものだったら、日本のマスコミはもっとヒステリックに騒いだのじゃないだろうか…。

それから「最近の若者」について、数年前は「根拠のないプライドだけが先行していて扱いにくい」と感じていたのが「素直すぎて気持ちが悪い」と思うようになった。私としては素直すぎる若者よりは扱いにくいくらいの若者の方が相手をしていて楽しいのだけど、ただでさえ主体性がないと言われがちな日本人のこと、最近の不況や災害で叩きのめされて完全に主体性を失ってしまうのではないかと、不安になったりする。

ま、年寄り(?)の杞憂に過ぎないなら、それに越したことはないけど。

でも、「がんばろう日本」て…。
私としては、非・被災地の人間には「がんばらないで、辛いときは人に甘えることも委ねることも大事だし、泣きたいときは泣いて、弱音もいっぱい吐いて」と言えるくらいの力があればいいのにと、切実に思う(腑抜けの私には、人に向かって「がんばれ」なんてとても言えない。まして「がんばろう」なんて連帯を促すこともできない)。

何だかうまくまとまらなかったけど、本当は「美味しさ」について語りたかったのだ。
「予告すると書けなくなる」ジンクスを無視して、そちらは次の機会に譲ります…今日のところはこの辺で。

おやすみなさい。
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。