la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
タイタニック号のセオリー
「あるがままのことを言うこと、しかもそれを大声で言うこと。」
(『奇岩城』モーリス・ルブラン)

言葉と出典の間に些か違和感のあるこの引用。まあ、それについて語るのは後日に譲るとして、島田雅彦の『楽しいナショナリズム』にこんな小咄が載っていた。

今まさに沈まんとしているタイタニック号に男を引き止めておくには? …男がイギリス人なら「ジェントルマンなら残れ」と言えば良い。アメリカ人なら「ヒーローになれるぞ」、日本人なら「まだみんな残っている」。

何々人なら、という十把ヒトカラゲには一抹の抵抗を感じるのだけど、国民性というのはやはり厳然とそこにあって、「客観視し、分析し、認識し、自覚し、正しく笑う」べきものだと私は思う。

だから、以前このブログで書いた「無人島のセオリー」共々、こういう国民性を揶揄し自嘲する小咄を私は深く愛する。

同じ『楽しいナショナリズム』によるとエベレストの登山隊にもお国柄は顕著に現れていて、フランスの登山隊はワインやチーズを山頂まで持って行きたがるのだとか。それに比して、アメリカの登山隊が持って行くのは宇宙食かレーション(軍用食糧)みたいなフリーズドライ系のものらしい。

ここでフランス人を笑うかアメリカ人を笑うかは、各々の自由だ。もちろん私はアメリカ人を笑う、というよりはフランス人に敬服するけれど(余談だけれどアメリカ軍のレーションにはあのカラフルなチョコレート、M&M'sの小袋が付いているらしい)。

この話を実家の母親にすると、「戦争も同じこと」という返事。フランスの軍隊には兵士たちに食事を提供する煮炊き専門の部隊があり、移動式のかまどでパンまで焼いていたのだとか。

竹槍で戦闘機を落とせとか、木枠に紙を貼った飛行機で空母に突っ込めとかいう軍隊が戦争に負けるのは当然のことだ、と思ってしまう。まぁ、ひっそりしたローカルなブログでしか書けないことだけれど。


ともあれ最近の私が救いを見出しているのは、「常に幸福を犠牲にする者は負けるのだ」という感触。自己の幸福であれ他者の幸福であれ、幸福こそが望ましいものであり、不幸は嘆くべきものなのだ、ということ(こんな当たり前のことをいちいち再確認しなければならない状況に、今の私は、今の日本は、今の世界はある)。

自ら不幸を選ぶ人もいなくはないし、その選択も尊重すべきかとは思うけれど、それはあくまでも特例だ。

幸福を求めることは罪ではない。
我儘でも自己本位でもない。

何故なら、他人の幸福なしに自己の全き幸福などあり得ないからだ。

だから、私はあるがままのことを言う。しかもそれを大声で言う。
真実ではなく、事実を語ること。
それが、私の幸福の第一条件なのだ。
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チェス好きの、チェス好きによる、チェス好きのための小説
「『唯一の出口だよ』と彼は言った。『ぼくはゲームを放棄する』」
(『ディフェンス』ウラジーミル・ナボコフ)

キャサリン・ネヴィルのチェス小説『8(エイト)』を探しに行った図書館で、著者名の五十音をたどっていた時に見つけたナボコフ。

ロシア人の亡命作家というだけでも、私ならもっと早くに読み漁っていて良さそうなものだ…それが今まで読まずに来たのは、ただ単に、図書館で『ロリータ』を借りるのが少々気恥ずかしかったというそれだけの理由。

だから、私はナボコフがチェス好きであることも、詩作と同じ数のチェス・プロブレムを創作していたことも知らなかった。『8(エイト)』の著者がナボコフと同じ「な行」の名前を持っていなければ、『ディフェンス』の見紛うことなきチェッカー模様の背表紙にも気づくことはなかっただろう(この背表紙を見れば、ディフェンス、という平凡すぎるタイトルだけでも一瞬でチェスの小説だと解るのだけど)。

実に幸運な出会いだった。

さて、この『ディフェンス』は、架空のロシア人グランドマスターの生涯を描いた小説だ。

思いがけない初手に始まる周到な序盤から、またしても思いがけない(そして致命的な)一手が指される終盤まで、物語全体がチェスの名局を見ているかのような読み心地。そのうえ随所にチェス盤と駒のイメージが折り込まれていて(特に解りやすく印象的なのは、月光が床に描いた升目の上に主人公ルージンの影が落ちる場面)、美しいことこの上ない。

やがて不意に、チェスの棋譜で「妙手」を意味するエクスクラメーション・マークが、ページの上で閃く。

キャスリングによって盤の隅に匿われたキング(ルージン)、彼の傍に敵を近づけまいと懸命に努力する彼の妻(何という名前かは最後まで解らないまま)、盤上の目立たない場所で息を潜める狡猾なナイト等々。人物だけでなく、少年ルージンが木の根元に埋めたチェスセットは序盤での大きな捨て駒を思わせるし、大人になったルージンの着古した背広のポケットから出てくる煙草や金時計や桃の種なども、既に盤上から消えた駒のように思える。

翻訳者であるチェス愛好家の若島正氏が「その指し手の一手一手に解説というかコメントを付けてみたい誘惑にわたしは駆られる」と述べているが、まさしく私も同感だ。けれど、その作業にはきっと、ルージン並みの才能と狂気が必要になるだろう。

ナボコフが読み手を相手取って指したこのチェスは、完璧だったと言いたい。来るべき終わりのために慎重な布陣を敷き、読み手がその配置の意味に気づいた時にはもう手遅れになっている。

ラストの鮮やかな一手、その結末には批判や疑問の声も多いというが、私にはナボコフの「チェック・メイト」という抑えた囁きが聞こえるようだった。冷静で確信に満ちていながら、ほんの少し悲しげでもある、優しい声。

たぶん見事に負かされた悔しさから、「こんな結末はどうかと思う」と批判めいたことを言う人が出てくるのだろう。けれど、チェス盤を挟んで相対するとき、向こう側にいる相手に裏切られたからと言ってそれを批判できるものだろうか?


最後にもうひとつだけ。ナボコフはこの小説の序文でこう書いている。「私がロシア語で書いた全作品のうちで、『ディフェンス』は最も「温かさ」に満ちあふれた作品である」。不細工で不器用なルージンが「彼女」に注ぐ一途な愛、「彼女」がルージンを不幸と狂気から救い出そうとするひたむきな(けれど報われない)努力。

結末を批判する負けず嫌いの人々は、この「温かさ」の故にルージンの幸福を望んだのかもしれない(作中や後書きで言及されているのはトルストイとゴーゴリだけれど、私はルージンの中に、ドストエフスキーの『白痴』の主人公レフ・ムイシュキンを見る。そう、『白痴』の結末には私もハッピーエンドを痛烈に願ったものだ)。

実に美しい作品だった。
私のチェスはなかなか上達しないけれど、もっと一手ずつを大切に指そう、と決めた。
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