la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
反フロイト式精神分析について
「もしも無念の死者たちに生者を呪ったり、生者にかれらのメッセージを伝える能力が存在するならば、ぼくらはこの地上のどんな片隅においても、もはや正気で日常生活を送ることなどできないだろう」

(『アドルノ 非同一性の哲学』細見和之)

さて、『アンチ・オイディプス』の話を、何故かアドルノ入門書の引用から始める。

というのも、私はこの「霊」というやつに近ごろ悩まされているのだ。まぁ、自分の部屋に霊が出て困っているとかいうわけでは全然ないのだけど。

で、ひとまずそれは置いておくとして。

『アンチ・オイディプス』だ。
哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医フェリックス・ガタリの共著。タイトルと「資本主義と分裂症」という副題が示す通り、これまで分裂症(統合失調症)をオイディプス(エディプス)の文脈でしか扱って来なかったフロイト派の精神分析を糾弾する、かなり激しい論文だ。

フロイト嫌いの私にとっては、長年の憧れの書物だった。なりがでかいので手に取れずにいたのだけど、何と2006年に文庫版が出ていたのだ(近所の本屋さんで偶然見つけて即買いした。河出文庫、上下巻)。

器官なき身体、欲望機械、接続・離接・連接…。
頻出する用語をイメージするだけで一苦労。なので、かれこれもう二ヶ月も取り組んでいるのにやっと上巻の半分を過ぎたところ。

そんなある日。
職場の人が、乖離性同一性障害(俗に言う多重人格)を「他人の霊が乗りうつっているのだと思う」と真顔で言うのを聞いた。

霊。
霊って。

こういう説に出会った時、いったいどういうリアクションが一般的なのだろう? もしかするとさほど驚くような話ではなくて、「私もそう思う!」という人が意外に多かったりするのだろうか?

私の考えでは、「自分の中の天使と悪魔が議論する」という凡庸な空想の「凄いバージョン」が多重人格、ということになる。

少なくとも本当に霊が乗り移るのなら、石器の作れる石器人とかフランス語ペラペラのフランス人とか「趣味は?」と訊いたら「棚卸」と答えるコンビニの店長とか、そういう人格だって顕れて良いはずだ。
何も自殺願望のある女子高生とかニューハーフとかの「型」のはっきりした人格ばかりでなくても。

まぁ、職場でのことなのでガチンコの議論をするわけにも行かず、何も反論しなかったのだけど。

分裂症を資本主義の病だとするドゥルーズ=ガタリのテキストに取り組みつつ、私は「霊が乗り移っている」という見方が意外に興味深いものだと気づいた。

つまり、「疎外された欲望の行方」ということ。ある人にとって「他人の霊」と捉えられるのが、欲望を転嫁された「私ではない誰か」なのだということ。
少し哲学の用語からは離れるけれど、私なりの理解はこういうことだ。

人がある欲望を自己のものとして認めない(例えば心の奥底で芽生えた自殺願望が我ながら信じられないと思う)場合、その欲望を疎外するためにはそれを転嫁する別の人格が不可欠になる(時には像そのものが欲望されたものであるかもしれない)。その人格は自己とは無関係に自発的に欲望を持つ「他者」でなければならない(そうでないと結局、欲望が自己に帰結してしまい、疎外は失敗する)。従って「もうひとつの人格」は緻密にならざるを得ないし、この緻密な人格は「主体である自己が想像した客体」ではなく「もうひとつの(自己とは対立する)主体」でなくてはならない、ということになる。こうして、分裂者は分裂するのだ。

この「複数の主体」の間を、分裂者は自在に行き来する(たぶんドゥルーズ=ガタリが「横断的」という言葉を用いているのはこういうことで良いんだろう)。あくまでも私の解釈は素人のものなので、乱暴ではあると思うけれど。

AでありBでもありまたCでもあるもの。なおかつ、どの「ある」を幾つ「ない」に変えても成り立つもの。

確かに物事の捉えかたはひとつではないし、フロイト派の精神分析にしてもドゥルーズ=ガタリによって「超克」されたわけではない。

けれど、こんな論文が日本語で(しかも文庫で)読める時代に「多重人格というのは霊が云々」と信じるのは、たとえば人類が初めて宇宙へ出てから50年も経つのに天動説を信じているのと大差ないように思える。

一度じっくり議論してみたいのだけど、別の機会にちょっと触れてみたら、私の言うことは「難しくてよく解らない」と言われた。
残念。
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さあ、楽しいデモの時間です!
「荒くれ猫は、決して自分からは立ち去らないのだ。」
(マルリィ・オスタ『ジョイ・トゥ・ザ・ワールド』)

脱原発ウォークin大津、行って来ました!
大津駅前~滋賀県庁~関西電力滋賀支店、というコース。関西電力のポストに代表者が要請文を投函して、現地解散した。

こんな感想でいいのかなぁとは思うけど、かなり楽しかった。

私は、デモ参加は初めて。帽子と日焼け止めとエヴィアンのミニボトルは完備して行ったのだけど、それ以外は手ぶらだった。最近のデモって、わりと「皆でのんびり歩く」だけかと思っていて。

そうしたら、皆いろいろプラカードとかカラフルな風車とか放射性物質のマークを描いたマスクとかの小道具を用意して来ていて、タンバリンとかピアニカとか、小振りなボンゴに似た打楽器とか持って来てる人もいて。

何だかね、楽しかったよ。

ハンドマイクを持った世話役の人が、道々「地震大国に原発はいらなーい!」とかシュプレヒコールの音頭を取るんだけど、後ろのほうから突然「美味しい野菜が食べたーい!」とか聞こえて来て、汚染のことを言ってるのだと解らなくて一瞬ぽかんとしたり。

信号で止まった車の中からドライバーさんが手を振ってくれたり、部活帰りの高校生の集団にこちらから手を振ったり。

「デモというのは車道を歩くものだ!」と、警備のお巡りさんに文句を言い始めたおじさんは、歩道を歩くという条件でデモの許可が下りたのだと聞くと唖然としていた。昔は、デモと言えば車や市電の進路を遮って車道を占拠しながら行ったものなのだとか。歩道をのんびり歩くのでは単なる散歩じゃないか、ということらしい。

実際、今日のデモは車優先、信号優先の、非常にお行儀の良いものだった。私としては、こういう緩やかな抗議の形態があるのは良いことだと思う。デモなんて自己満足だ、と言われても、こういうデモなら「人に迷惑掛けるわけじゃないからいいじゃん」って言える。

出発前に他の参加者からもらった「脱原発!びわ湖を守ろう!」と書かれたカードを、時々うちわ替わりにしながら掲げて歩いた。
暑かったけど、楽しかった。

もちろんデモをしたって、すぐに何かの結果が出るものではない。だけど、何もせずにいるよりは、ずっといい。

繰り返すけど、今日は楽しかったんだ。
春嵐に散らず咲きをり細き花

ベランダのカモミールが咲き始めた。
ずっと平たく放射状に育ってきてディルに似た細い葉をもさもささせていたのだけど、2週間くらい前だったか、急に茎が上へ向かってすっくり伸びてきた。
次に気がついたらもうずいぶん背が高くなって、蕾をたくさんつけていて。

そういえばお前はキクの仲間なんだっけ、と私は思い出した。子供の頃に土手なんかで摘んだ淡い藤色の野菊に、佇まいが少し似ている。

植物は、アイデンティティが揺らがないから良い。カリフラワーとブロッコリーを掛け合わせたなんていう薄気味悪い野菜でさえ、白と緑の身もフタもないマーブル模様で自分のルーツを物語っている。

動物になると、あいつは猫らしくない猫だとか、犬のくせに無愛想だとか、稀に個性が種の特性からはみ出すことがある(もちろんそれが悪いというのじゃなく)。さらに人間になると、個性が暴走していたり押し殺されていたり二重だったり多重だったり、そもそも個性とは何であるのかとかいう議論まで始まったりして始末に負えない。

この話はどこへ向かうのかって?

ああ、私は季節の移ろいのことを書きたかっただけなのだ。カモミールの花が可愛らしくて、咲いた花から微かに甘くほろ苦い香りがするのだとか、健気に咲いているので摘む気になれないのだとか、風が強いのでひと晩 部屋の中に入れてやったのだとか、そんなとりとめもないどうでも良いようなことを。

それなのに、「狼年」である私はそういう羊的幸福を語ることが今はできない。

もう少しまとまったら、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』のことを、乖離性同一性障害のことを、ちゃんと記事にしようと思う。予告をすると書けないというジンクスはあるのだけど、まぁ、それはそれとして。


でも今日はこの辺で。
明日は大津で反原発のデモに参加予定。一時半に大津駅前集合、皆で関西電力まで歩くのだとか。天気予報をチェックしたり帽子を探したりして、何故か少し、浮かれている。
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