la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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度重なる無題
「悲観的に考え、楽観的に行動すること。」
(うろ覚えの警句。出典忘れたのでまた調べます)

コメントの返事を記事にしちゃいます。

そう、何故ハーブを、「放っておいても育つ」奴らを、私はダメにすることができるのか。

ある種の才能かもしれません。

何かの呪いかもしれません。

或いは、単に水をやらないからかもしれません。

カモミール、乾燥に弱いと聞いていたのに3日くらい放置して、ものすごくシオシオになりました(幸い今は復活してます)。

サボテンだけはさすがに元気ですが、かなり増えて鉢にみっちりしてます。互いに刺を突き刺し合ってるのでは、と心配になりますが、植え替えようにもトゲトゲで触れません(ペヨーテじゃないけどスライスして干して齧ったらトリップできるかしらん)。

植え替えを怠ったために自滅させてしまったミントは、鉢から外したら根っこが鉢の形にカッチリしてて、糸瓜たわしみたいな触感になってました。

バジルは、初代はアブラムシにやられて、二代目は種が弱かったんだと思います(自分で採った種)。

こんなんで自家製カモミールティーを味わう日は来るのでしょうか。

多分、無事に花が咲いても天日干ししてる最中に強風が吹き荒れたり虫がたかったりするんでしょう。

何も起こらず無事にお茶がはいったとしても、摩訶不思議にすごく不味かったりするんでしょう。

セ・ラ・ヴィ。

でも、私はプラス思考よりマイナス思考の方が好きなんです。石橋を普通に渡る人を見ても別に面白くないけど、わざわざ叩いてみる人はちょっと笑えるし、叩きすぎて壊してしまう人はもっと笑える。

いちばん怖いのは、根拠のないプラス思考だと思うんです。「大丈夫、悪いことなんて何も起きない」。
そんなの、胡散臭いと思うんです。

だから私は、地震とか火事とか火山の噴火とか、戦争とかが、すごく怖い。
空襲の夢、普通に見るし。

戦争を知らない世代と言っても、体験していないだけで、知らないわけじゃないんです。知識というのは、過剰な共感力と出会ったとき、充分に心的外傷の原因になるのです。もちろん本当の体験と同じだとは、とても言えないけれど…。

ちょっとシリアスになりましたが。

問題なのは、非常食に買い置きしていた缶詰めとかを、平和な夜中に貪り食ってしまうことでしょう。

悲観的に考え、楽観的に行動する。
引用した言葉の意味が、微妙に、けれども決定的に、ズレてしまう今日この頃であります。

あ、もう11時。
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またしても無題。

さて、今年もボジョレー・ヌーヴォーの解禁日がやって来ました。

ってもう三日前だけど。

今年はスクリューキャップのハーフボトル。賛否は分かれるけど、私はスクリューキャップが好きだ(千円アンダーのワインが樹脂コルクだとかなり腹立たしい。お気に入りのSEKIのソムリエナイフで緑色のコルクなんか抜きたくない!)。

もとい。ヌーヴォーの話。
グラスに注ぐといつもながら見事なくらいのチューインガム香。過剰な媚びを含んだフルーティな飲み口に、あー、ヌーヴォーだ。と気の抜けた納得感。少し化粧品的なフローラルさを感じたのは今年が初めてで、気のせいなのか何なのか。

収穫感謝の気持ちが全然湧いて来なくて、パッとしない解禁日だった。

数年前まではフリーランだのノンフィルターだのといった謳い文句に気を引かれて色々な造り手のを試していたけれど、「その年のガメイを11月の第三木曜日までに何とか飲めるものに仕立てる」という条件下では、どうしたって方向性は同じになる(決して味が同じになるわけではないけど)。

だからヌーヴォーに対しては既に品質や価値を問うことはやめている(買うことはやめない)のだけど、でもこの方向性、これで合ってるのだろうか?


追記、画像は解禁日の買い物。勤務先の新店でチーズだオリーブだトマト缶だ豆缶だとあれこれ買い込み、ついでにドリアンチップスも三袋追加(大好き)。

しかし、輸入食品はレジで肝を冷やすことが多い(大抵、予想した金額の倍くらい払うことになる)。
この日も散財。
あーあ。
あの虹を越えて
どこか日本の団地を思わせる、古風な白いマンション。洗濯物が干してあったりデッキチェアが出ていたり鉢植えがあったりするベランダの、たぶん六階か七階くらいの手すりのところで、一人の少女が空に向かって歌っている。

穏やかな憧れを秘めた瞳は灰色がかった淡い茶色。目元にはそばかす。髪は瞳と同じ灰茶色で、ふわりとしたボブにしてある。

どうやら映画のオープニングシーンらしい。カメラは同じ高さで、正面からそこを映している。

余白は青空。

その歌と少女の伸びやかな佇まいとがあまりにも鮮明だったので、私はきっと目を覚ましてからもこの歌を覚えているだろう、と思った。

けれど、目を覚ますとその歌は口に入れたメレンゲ菓子みたいに溶けて消えてしまって、今はただ『虹の彼方に』の後味が残るばかり。

何だか、ヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』を思い出した。
見知らぬ街、始まったばかりの旅の中で「thank you god,」と呟いていた、あの夢見るような微笑を。

うん、なかなか良い夢だった。

致死量の読書、妥協と忍耐の境界で
「もしどんな生き生きとした我有化も不可能だとすれば、普遍的規則は、自由と個別性を犠牲にして無関心な外部から押しつけられた、致死的なもの、苦しみとして経験されうることになるだろう。」
(『自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判』ジュディス・バトラー)


忍従の日々のバックラッシュ。

熟読は服毒に似て。

難易度という意味では私には荷が重い本だけれど、ジュディス・バトラーは昔から読んでみたかったのだ。キルケゴールやフーコーら、比較的馴染みのある顔ぶれも登場する。主題として取り上げられているアドルノも、まったく見ず知らずというわけではない(あの頭の良すぎるひねくれ者!)。

自分の今いる場所をしっかり見据えながら、現実の制約を見失うことのないように、気をつけて読み進めよう。

緩慢な崩壊を待つよりはひと思いに破壊してしまった方がいい、と、持ち前の臆病さがこれまた持ち前の反骨精神によって思いがけない原動力となる兆しが、なくもない。

光の中を歩くということに、私は少し苦痛を感じ始めているのだ。影を、憂いを、痛みや苦しみや悲しみを、光に晒したままで歩くのは辛い。

けれど、短気を起こしてはいけない、とも思う。

なかなかに予断を許さない本だ。「要、経過観察」。そんなところだろうか。
アントニオ・タブッキの尾鰭あるもの
「笛のように長くひびく、喘ぐような、胸に突き刺さるような、たまらない音。」
(『島とクジラと女をめぐる断片』アントニオ・タブッキ)

銛とナイフによって仕留められた鯨の「死の咆哮」。
その叫び声がどんなだか、私は知っているような気がするのだ。多分、数年前メルヴィルの『白鯨』を読んだ時に聞いたのだろう。

タブッキってこんな作家だったっけ?
『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』、タイトルに惹かれて読んだことがあるはずなのだけど、今いち記憶に残っていない。

翻訳は須賀敦子。
『ピム港の女』というシンプル極まりないタイトルを『島とクジラと女をめぐる断片』(訳者曰く「私流の長たらしい表題」)としたのは、「『港と女』というありふれた組み合わせから逃げたかったのと、クジラや島の話が表題から落ちてしまうのが惜しかったから」だそうだ。

何と謙虚な。

この「長たらしい」表題がなければ、タブッキの物語がそれを好む人たちと出会うことは格段に難しくなるだろう。

須賀敦子という名前は、何となく記憶にある。『ユルスナールの靴』という小説か随筆を書いていたはずだ。

この世にはまだまだ、私の見逃している本がたくさんあるらしい。

サルマン・ラシュディを読みながら「インドのガルシア・マルケスだ」と感嘆していて、あとがきに「『百年の孤独』と並び称される」と書かれているのを見た時、がっかりしたような嬉しかったような。

それでも、タブッキはポルトガルの山尾悠子だ、と言うのはもう少し保留。もちろん、山尾悠子は日本のアントニオ・タブッキだ、と言うのも保留。

とても近い何かを感じるのだけど。
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