la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
秋だ秋刀魚だ秋味だ。

秋刀魚ですよ、秋刀魚。

ビールはもちろん秋味です。

ベランダの網戸からいい風が入って、ほんと、ようやく、夏が終わった感じ。

毎年、秋の訪れを肌で感じられるようになるとこの「秋だ秋刀魚だ秋味だ」フェア(秋刀魚を焼いて秋味を飲むだけの一人祭)をやるのだけど、いつも「写真撮りたさ」が「早く食べたさ」に負けてしまっていた。
今年のお相手は、空心菜のおひたしと冷奴と、枝豆の塩茹。

秋刀魚、旨い。
今年は不漁とかで心配してたのだけど、近所のスーパーでちゃんと売ってる。

グリルは片付けが面倒なので、職場の人に教えて貰った「フライパンにクッキングシートを敷いて」焼きます。秋刀魚から脂が出て半ば「揚げ秋刀魚」状態になるけど、「秋だ秋刀魚だ秋味だ」フェアの趣旨としてはもう、秋刀魚なら何でも良いのです。


ワイン?
いやいや、秋刀魚には秋味でしょう。他のビールですらありません。もちろん味も好きだけど、あの紅葉と月と麒麟のパッケージがね、秋感を盛り上げて良いのです。

バゲットとチーズで赤ワインをちびちび飲みたくなるのは、もう少し先のこと。

はー、旨かった。
スポンサーサイト
深い水底で、揺らぐ物語たち
「人は暗いところでは天使に会わない。」
(『アンヌンツィアツィオーネ』山尾悠子/掌篇集『歪み真珠』所収)

やっぱり買ってしまった。
以前『琥珀捕り』のことを書いた時に「買ってしまおうか」と独白していた、山尾悠子の本。

それでも買ってからひと月ほど読めずにいたのは、その装丁のせいだ。
紙箱入り。表紙は布貼り。その表紙を包んでいるのは昆虫の翅を思わせる、薄くてぱりぱりした、半透明なパラフィン紙のカバー。

手を触れるのが怖かった。

そこに描かれている世界と同じほどに危うく美しい。

今の日本の作家で、これほど豊かで恐ろしくも美しい言葉を紡ぐ人が他にいるだろうか?

何となく思い浮かぶのは多和田葉子くらいだけれど…いや、違う。

山尾悠子は、特別なのだ。

『歪み真珠』の中でも、すべての暗示の色合いが最後の一文で一変する『アンヌンツィアツィオーネ』がとりわけ好きだ。
謎めいたエピソードの断片で綴られる『娼婦たち、人魚でいっぱいの海』、圧倒的な印象の『美神の通過』、何故かしら唇の端に笑みの浮かぶ『影盗みの話』…。

どれもこれも、凄い。

ずっと読んでいたいけど、パラフィン紙のカバーやページをいためるのも嫌で、またそっと本棚に戻す。

その本が私の本棚にあること。
小さな宇宙が、その中にあること。
それを意識しながら、私は眠る。

その本の中では、私が取り出して読んでいない間も、人々が眠り、目覚め、また眠るのだ。

ほとんど魔法。
もし魔女狩り最盛期の中世ヨーロッパなら、山尾悠子は間違いなく火刑だ。

それぐらい、特別なのだ。
once upon a time...
「ぼくたちは小さなことをするんだ、たとえあまり重要なことには見えなくても。」
(『ドラゴンランス』マーガレット・ワイス&トレイシー・ヒックマン)

ドラゴンランス。
初訳出時のタイトルは『ドラゴンランス戦記』。
わぁ懐かしい。
お馴染みブックオフで、古本の神様から思いがけない変化球が飛んできた(ハードカバーの新装版、一冊二百円也)。

中学生くらいの頃だったか、夢中になって読んだのだ。悪戯者のタッスルホッフが大好きで、彼の冒険にはほんとに一喜一憂した。

指輪物語もそうなのだけど、私は昔から「小さき者が世界に立ち向かう姿」にめっぽう弱いらしい。

今、新装版の2冊目。ザク・ツァロスからソレース、クォリノストを経て、一行はパックス・タルカスにいる(初めて読んだ時ほど夢中にはならないけど、こういう架空の地名には未だにわくわくする)。タッスルの次に好きだったキティアラはまだ出て来ない。

懐かしい面々は相変わらずアメリカンに我儘放題。性格のねじまがった魔術師に単細胞の大男、時代遅れの堅苦しい騎士、年寄りの偏屈ドワーフに余計な事ばかりやりたがる鬱陶しいお喋りケンダー(これがタッスルホッフ)。
こんな面々を率いる生真面目ハーフエルフには本当に、同情を禁じえない。

うーむ。
さすがに今読むと大味な印象だけど、まぁ面白い。ただ、挿画が昔ながらのアメコミ風なのが何とも残念だ。タッスルなんかヘンなカンフーの達人みたいだし。せっかくの新装版(と言っても最近出たというわけではないが)なのだから、もう少し垢抜けた彼らの姿を見たかった。

で、ここからがようやく本題。
「夢中になって読む」という感覚は子供の頃の方が強かった、と思うのだ。あの感じに浸りたくて時々、昔好きだったSFとかファンタジーを手に取ってみるのだけど、あの頃の夢中さと同じテンションでは読めなくなっている。

当然なのかも知れないけど、何だか腑に落ちない。

だって、私は今でも魔法使いになりたいし(「大審問」は勘弁して欲しいけど)、エルフやドワーフの造った都を見てみたいし、ドラゴンの背に乗って空を飛びたいのだ。

本を読むことって、子供の頃はそういう体験だったよなぁ。

まぁその代わり、大人になると読める本の幅は飛躍的に広がるし、ようやく面白さが理解できるようになった作家も少なくないから、これはこれで良し、なのかなぁ(ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』なんか、高校時代にあの分厚い上下巻を必死で読んで、「何だよぅそんなオチかい!」と浅薄にも怒り狂った覚えがある。今ならこの大作が持つ「あらすじ」意外の精緻な魅力が少しは解る。…と思いたい)。

うーん、大人になるってこういうことなのね(と、唐突で無理からな結論)。
私は踊りながらは食べない(仮題)
「神がわれわれを放浪から守り、不安を取り除き賜わんことを。」
(『美食の歓び』キュルノンスキー&ガストン・ドリース)

引用したのは、秋が近づくにつれ募る放浪への憧れについて、ではなく。

第一次大戦後のアメリカにおけるレストランの惨状(「ここでは踊りながらおいしい食事が食べられます」)を嘆く、フランスの美食家の言葉。

もちろん、著者の恐ろしい想像(「腕先きにポタージュをぶらさげ、大野兎の煮込みロワイヤル風を頭の上に載せ、鵞鳥の脂漬け(ワタシ注、コンフィのことだと思う)を脇の下に抱きかかえ、…」)は冗談として。

ここで美食家が嘆いているのは、ダンスフロア併設のレストラン、という発想そのものだ。曰く、食堂楽は一種の選り抜きのスポーツであって、他の種目と同時にやることはできない。飲み食いの楽しみに調和させ得るのは唯一、控えめな会話だけ。

美食家とまでは言わないけれど、私もまた、食事についてはキュルノンスキー(と彼の共著者)と同意見だ。ごはんを食べるときは、他のことはしない。ただ一人で食べることがほとんどなので、「飲み食いの楽しみに調和させ得るのは」控えめな音楽だけだと思う。

テレマンの「ターフェル・ムジーク(食卓の音楽)」?いや、これは出だしがちょいと厳かなので(貴族の晩餐の幕開けといった風情)、も少し明るい室内楽を。

食べることは、生きることだ。食べることは、自分を作ることだ。

大仰なご馳走は必要ない。ただ、身の丈に合った作りたての食事を楽しむことが美食なのだ。

たとえば第三章に出てくる「黄金色の揚げじゃがいも」。どんなに素晴らしい音楽をかけていても、たぶん、その一皿を前にした私は既に聴いてはいないだろう。

バッハもモーツァルトも、揚げじゃがいもには勝てない。

もし揚げじゃがいもから私の注意を逸らす音楽があったとしたら、私はそれを極めて腹立たしく聴くことだろう。

KUR.(キュルノンスキーの署名)
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。