la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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意味の意味を問う意味

意味、というものにまつわる論争の話を聞いたことがある。

論争の当事者たる一人が言うには、世の中のすべての物事には意味がある。たとえばそこいらの木から葉っぱが一枚落ちるのにも、何か意味があるのだ。それに対してもう一人は、そんなことに意味なんてない。意味なんてどこにも何にもない。と反駁したそうで、私はその場に居合わせたわけではないので具体的な部分はつまびらかではないのだけれど、最終的に後者が前者の戦意を完全に挫いてしまったと聞いている。

私が思うに、木から葉の落ちることに意味があるかどうか、という問いに対する回答は、三通りある。イエス。ノー。その両方。

ひとつめの「イエス」はつまり「木から葉が落ちるのは、それが晩秋であればすなわち落葉樹の生命のサイクルが正常にはたらいているということを意味し、もしそれが初夏であれば、自然界に何らかの異常が起きているということを意味する。また、木から葉が落ちて積もり、腐葉土となって微生物を育んだり土壌を肥沃にしたりすることは、自然界において有意義な、意味のある現象であると言える」。

ふたつめの「ノー」はつまり「木から葉が落ちるのは単に植物の性質と重力のはたらきによるもので、あなたとは無関係な現象である。よって、あなたにとっては何の意味もない」。

そしてみっつめの「その両方」はつまり「木から葉が落ちるという現象は、あなたにとってはじめから何かの意味を内包しているものではない。だからあなたがそこに何も見出さないならば、それは意味のない出来事だと言える。ただ、あなたがそこに何か意味を見出そうとするならば、それはあなたにとって意味のある現象になりうる」。

ここで問題なのは、一見「いい話」のように見えるこのみっつめの解答が、場合によっては非常に危ういものになってしまうということだ。
たとえば宗教。手相見や占星術。血液型による性格判断。
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8×8の迷宮

「間違いをしても、詩的なんだよ」
(『ユニコーン・ヴァリエーション』ロジャー・ゼラズニイ/アンソロジー『モーフィー時計の午前零時』所収)

前の記事で触れたチェス小説アンソロジー。

ゼラズニイが、すごく良かった。

廃墟と化した酒場で、人類の滅びの気配を察してやって来たユニコーンと、ひとりの旅人が出会う。
そうして始まる、男とユニコーンとの奇妙な対局の物語。

ほんの数ページの世界が、私の心を満たす。

ゼラズニイは確か『伝道の書に捧げる薔薇』を昔読んだきりなので、これから少しずつ、読もうと思う。

ちなみに目次の最後にあったロード・ダンセイニの『プロブレム』、そういうタイトルの短編だと思って楽しみにしていたら、開いてみるとダンセイニが考案したチェスのプロブレム(将棋でいう詰め将棋の問題のこと)が載っていた。

私はチェスができる、と言っても駒の並べかたと動かしかたを知っているというだけのことなので、もちろん考える前に答えを見る。

すごいなぁ、と、感嘆することしかできない。

無性にチェスがしたくなって、思わず仕事帰りに100円ショップに寄って、携帯用チェスセットを買ってしまう。

画像は、この本に載っている歴史的名局の一場面。1922年、ボゴリュボフ対アリョーヒン。途中まで棋譜をたどって再現しても、盤上で何が起きているのか理解できない。

ひとつだけ理解できたのは、チェスが私の思っていたのとはまったく違うゲームだということ。

どうやら、取れる駒は取れば良いという話ではないらしい。

私は美しいものに弱い。
ワインも然り。
俳句も然り。
チェスもまた、私を眩惑するには充分すぎる美しさを持っている。

こんな感じですぐあれやこれやに夢中になるから、私はいつまで経っても「何者でもない」んだろうな。

でもまあ、趣味だし。
しばらくは8×8の迷宮で遊ぶことにします。
憂鬱の処方箋
「一日二回、十頁ずつ、最終頁まで服用のこと。」
(『13番目の物語』ダイアン・セッターフィールド)

そんな処方箋で医師が指定したのはサー・アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの事件簿』。

こんな医者がいたら絶対惚れる!と、本読みの醍醐味である「してやられた」感をかみしめる。

ブロンテ姉妹にオースティン、ヘンリー・ジェイムズ、ウィルキー・コリンズにホレス・ウォルポール。直接の言及はないけれど、ホーソーンやデュ・モーリアも多分。
そんなオマージュの数々を、随所に読み取るのが楽しい。

悲しみと痛みに満ちた物語ではあるけれど、終盤で描かれる鎮魂と再生のエピソードははまさにカタルシス(陳腐だと言われようと、これはやっぱり物語の醍醐味なのだ)。

いくぶん無茶な印象のある謎解きの部分も、それはそれで小説ならではの大胆な仕掛けだ。

少し前にフラナリー・オコナーを読んで、人間の醜さを暴くことにかけては天下一品の才能に舌を巻いた、と言うよりは舌が引きつったばかりだったので、こういう古典的な醍醐味を持つ「小説」を読めて良かった。

同時に図書館で借りた舞城王太郎の芥川候補作『ビッチマグネット』にオコナーの名が出てきたのは、これもまた本読みの醍醐味である「偶然リンク」。

それから『モーフィー時計の午前零時』というタイトルに惹かれて手に取ったのがチェス小説のアンソロジーで(私は麻雀はできないけどチェスはできる。ただ麻雀のできる知り合いはいるけどチェスのできる知り合いはいない)、収録作品の著者の中にF.ブラウンやR.ゼラズニイの名を見つけて興奮するのもまた、雑食系本読みの醍醐味。おまけにトリを飾るのはロード・ダンセイニ!

ま、ひたすら内向きな歓びではあるけれど、今のところ、こういう出会いが私の幸せ。

でも、虚構を足掛かりに現実を歩き続けることも、意外にできるものなんだなと思います。
悪魔が隣で眠る夜
「たどり着くだけのために、かなり頑張らなくてはならない」
(ダン・シモンズ/短編集『夜更けのエントロピー』所収「バンコクに死す」より)

何でだろう。
なんでだろうね。

人間なんて当たり前みたいにたくさん生まれて生きて死ぬものなのに、それだけのことなのに、何でこんなに自分が異質な出来損ないに思えるんだろう。

コエーリョが言う通り、それは破壊的な方法かもしれない。でも私にはどうしても、その考えを捨てることができない。

鬱期なんて、もう何度もやり過ごして来てる。大丈夫、またきっと落ち着きを取り戻して、すぐ笑えるようになる。

そう信じようとはするけれど、同時に、いずれまた同じ痛みが訪れるという諦めに似た確信が、私にはある。

それが、怖くて耐えられそうにない。

人って、大人になれば泣かなくなるものだと思ってた。(お菓子も食べなくなると思ってた。)
強く穏やかに、普通の日々を普通に送れるものだと思ってた。

でも、違うんだ。
普通の日々を普通に送れる大人は、子供の頃から、普通の日々を普通に送れていたんだ。

そろそろ誰かが「君は病気だ」って言ってくれれば安心できるのに。

それから、辛かったこの一日のことを、君に話せればいいのに。

でもきっと、「たどり着くだけのために、かなり頑張らなくてはならない」ことの辛さは、強く生きる君には理解できないのだろう。

君は、泣く私を笑う。
「そんなの泣くほどのことじゃない」と笑う。

少し、失恋に似た気持ち。
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