la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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アンチ・マクドナルド!
「それじゃ、死ぬのが嫌なら徒刑場に送る、というようなものだ!」
(『さかしま』ジョリス=カルル・ユイスマンス)

世の中には「ベストセラー=優れた本」だと信じている人がたくさんいて、そういう人に限って本を読んでいない。年に百冊を越える読書量だったとしても、内訳を見ると赤川次郎と宮部みゆきで八割を占めていたりする。

それと同じように、シネコンで流行りものの映画しか観ない人たちが「映画好き」を自称するのを、私は何とも腹立たしく聞く(マクドナルドのハンバーガーを食べて美食家を名乗るようなものじゃないか)。

センスの良し悪しではない。ただ、じっとしていても与えられるものだけを受動的に見聞きする、その(情報に対する)怠惰さが腹立たしいのだ。

まして、アカデミー賞を取ったという理由でその映画を「一流」だと言われれば、うんざりせざるを得ない。

売れる=良いもの。
この等式は小売業の宿命だ。
解ってはいる。
でもつくづく、「グローバリゼーション」を否定的に捉える私には向かない職場だ、と思う。

文学を語るならプルーストくらい知っておこうよ、というのはまあ、ヒップホップ好きの人に「バッハを聴け」と言うようなものかもしれないけど、せめてヒップホップのルーツくらいはね、知っておいて欲しいと思うわけ。

あああ。
薄っぺら。
みんな薄っぺら。

「上っ面」だと他人をなじるその当人が、あまりにも物事の上っ面しか見てない。

ほんとに腹が立つんです。どれほど売れていようが、マクドナルドのハンバーガーは不味いよ!!!

…と、些か破綻気味の今日。
久々、ジェットラグで眠れずにいます。
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魂の領域を語ること
「自分はほかの人より劣っているという考えは、彼が知り得たなかで誇りの表し方としては最悪なものである。なぜなら人と違う人間になるために、これ以上破壊的な方法はないからだ。」
(『ブリーダ』パウロ・コエーリョ)

魔女になろうとしている21歳のブリーダと、物理を学んでいるその恋人ローレンス。ブリーダの師となった「月の伝説」の魔女ウィッカと、互いに宿命の恋人同士でないと知りながら彼女と恋仲にあった「太陽の伝説」の魔術師。

他には「その他」しか出て来ない(ブリーダと儀式を共有する二人の女性も、ほとんど描写されない)物語。それどころかブリーダの恋人ローレンスでさえ、存在が希薄だ。

コエーリョの書く物語は、いつも寓話的だ。いや、たぶん寓話そのものなのだろう。この『ブリーダ』に出てくる人物も、具体的な一個人、という感じが全然しない。どこか、影絵芝居か人形劇の人形のようなのだ。

その印象が馴染んでいるのはただ一人、名前を持たない魔術師だけで。

けれども、そのこと自体は、私とこの作家を隔てはしない。少なくともこの『ブリーダ』を読むまではそうだった。

いわく、魂は輪廻する、ただし世界の始まりから今の人間の数だけ魂があったわけではなく、生まれ変わる時に分裂する魂があるのだと。

魂は、分裂するときは必ず男と女に分かれる。それが「分身」であり、生涯かけて自分の分身を探すのが人間の責任なのだと。

ここで、私はコエーリョを「もう読まない」作家に分類してしまった。

魂を精神とは別の次元に置き、そのありかたの「正しさ」を語る文学を、私はどうしても受容できない。それは、己には知り得ないことを裁こうとする行為だからだ。

性別とその特性を固定化する思想にも共鳴できない。魂が分裂する時は必ず男女に分かれる? それが「分身」で「運命の恋人」?

たとえ私の魂なるものが生まれ変わるとしても、今の記憶がないのならそれは他人と同じだ。今の私がこんなふうであることの根拠や責任を、前世に求めようとも思わない。自分の魂の救済のために善行を積むのも嫌だ(それは単なるエゴだと思う。別の動機でなら私は喜んで善行を積む)。

私はただ、今この生の、より良い在りかたを模索するだけ。

もちろん『ブリーダ』にも、そのための指標となる言葉が見つからなかったわけではない。引用したのもそんな言葉のひとつ。だから、読んだことを後悔してはいない。

半年ほど前、スピリチュアル系の啓発書のようなものを人から借りた(貸された)ことがある。感想を訊かれて私はこう答えた。「思想書としては受け付けないけど、実用書としては参考になる」。それと同じだ(ちなみに私はテグジュペリの『人間の土地』を貸したけど、難しくて読めないと言われた)。

さよなら、パウロ・コエーリョ。


追記。物語の舞台が何故アイルランドなのかが腑に落ちない(ジョイスやイェイツを無理なく引用するため?)。ブリーダもウィッカも南米の女性として、或いはいっそ舞台を特定せずに描いた方が、よほど全体が違和感なく生き生きしただろうに…。
琥珀の欠片の降りしきる…
『琥珀捕り』。
幾つも並んだ部屋の扉を、ひとつずつ開けては中を見て回る。
そんな風にして読む本。

チェス盤とその駒、羽根ペンとインク壺、金色のタッセルでまとめた重い緞帳、石膏の天使像。萎れたバラと油絵の匂い。

それらの間に時折、きらめく琥珀の欠片。

窓の外にひたひたと海の水が満ちてくる。海豚の群れがそこを横切る。

ずいぶん美しい、詩的な言葉の連なり。
そう思って奥付けを見ると、著者のキアラン・カーソンはアイルランドの詩人なのだそうだ。

読み始めてすぐ、山尾悠子を思い出した。
記憶の底から浮かび上がってくるシーンは多分『ラピスラズリ』のもので、タイトルに鉱石の名を冠しているのも『琥珀捕り』とリンクする。

(キアランという名前は私には女性名のように思えるけれど、途中まで読んで、男性かもしれないと思い始めたところ)。

度外れに寡作な山尾悠子の新刊が少し前に出ていたことを、一昨日、私は知った。

買おうか。
買ってしまおうか。

国書刊行館の、装丁も美しい『ラピスラズリ』と『歪み真珠』。

そうして、迷宮的な物語の世界に、しばし遊んでみようか。

透明な水晶球につけられた瑕疵にも似た、その世界がもたらす微かで鋭利な傷を含めて、もう一度、楽しんでみようか。
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