la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
秋の夜長のつれづれ
「虫干や 紙魚声あらば句や鳴かん」
(誰の句か不明、椎名誠編『楽しき活字中毒者』から孫引き)

紙の魚、と書いて、「しみ」と読む。「栞魚」とも書く。ちなみにこの句を読んで「いいなぁ」と思える人は、間違いなく真性の本好きだろう。

実はうちの部屋に、出るのだ。しみ。紙魚。銀色の甲冑を纏った詩的で優雅な害虫(本の頁を好んで喰う)。
言い訳じみるが、掃除は人並みにしている。なので自分の部屋でゴッキー(ゴキブリです、念のため)にお目に掛ったことはないが、先日、二年目にして二匹めの紙魚が、壁にひっそりと張りついているのを見つけた。
幸い、紙魚は敏捷な虫ではない。わりあい荘厳な見掛けをしているので退治するのも気が引けたのだが、ここは蔵書の保護を第一に考え、ティッシュでそっと葬り去った(合掌)。

それにしても、紙魚は稀有な害虫だ。私に嫌悪を感じさせないどころか、美しいとすら思わせる。「声あらば句や鳴かん」(声があったなら、きっと句を鳴いただろう)…まさしくそんな想像をさせる虫なのだ。

本に巣食う虫。世にある読書家の多くが、奇妙な共感と愛情とをこの虫に感じていることだろう。

それに、今は長らくの絶版本も唐突に復刊されてたり(注)する世の中なので、紙魚の害もさほど致命的ではない。

紙魚、或いは栞魚。君らに非常な親近感を覚える私は、おそらく根っからの「本の虫」だ。

(注)例えばオーウェルの『カタロニア讃歌』、翻訳の一人称が「私」ではなく「僕」のもの。ちくま文庫で復刊しているのを見つけた時は書店で「小躍り」どころか本気で躍りそうになったけど、苦労して手に入れた米川正夫訳の『白痴』があっさり平積みされてるのを見た時は何だかがっかりしたものだ)。

追記、「虫干し」というものを私はしたことがないのですが、やはり定期的にすべきなんでしょうか(そしてどんなふうに…?)
スポンサーサイト
燃え尽き中。
20080924214613
食べかけのおにぎりではなく、オーストラリアです(私の「勉強ノート」のメモの一部)。


一昨日、ワインアドバイザー資格の二次試験を受けて来た。結果が出るのはまだ少し先だけど、楽しかった、と思う。

とりあえず、もう夜中に「オッキオ・ディ・ペルニーチェって何だっけ」とか「アンプルダン・コスタ・ブラバって何処だっけ」なんて飛び起きなくて良いと思うと、ものすごい解放感。ああ今日から夕食後は自由時間だ、と思うと、何をして過ごすべきか解らなくて戸惑ったり。

二次試験の内容は、15問程度の口頭試問と4つのグラスのデギュスタシオン(テイスティング)。4つのうち3つはワインで、外観や香り、味わいの要素を選択肢から選び出し、それぞれの使用ブドウ品種・生産国・ヴィンテージを答える。最後のひとつはリキュールか日本酒かスピリッツかも解らない、何でもありのワイルドカード。この最後のグラスは、それが何なのかと、その原料と生産国を答える。
めちゃめちゃ緊張したし、結果はどっちに転ぶか全然わからないけど、でもやっぱり、楽しかったんだ。

合否の発表は十月七日。
ドキドキです。

ところで前の記事の「主の祈り」、間違ってました(笑)
前半「我らを試みに遭わせる者を」じゃなくって「我らに罪を犯す者を」でしたね、確か。ちゃんと確認してないんですが、別の一節「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し賜え」とごっちゃになってたみたいです(子供の頃、日曜日ごとに教会で唱えてたはずなんですが、ここは不信心者の本領発揮)。
招かれざる客(遊星からの茸X)
20080911204603
「我らを試みに遭わせる者を我らが赦す如く、我等の罪をも赦したまえ」
(「主の祈り」より)

先月、しばらく雨の続いた頃に実家に一泊して帰ってみたらイタリアンパセリの鉢に不意に生えていた、茸。翌朝見たらしなびていて、そのままフェイドアウトしました。

不気味に青みを帯びたグレイで、干して粉にして舐めたら愉しい悪夢が見られそうでした。しなびたやつに触るのも気持ち悪くて放っておいたらいつの間にか消えていたのですが、何となく土に染み込んでいったような気がして、以来、この鉢のイタリアンパセリは食べていません。

まあ、繁殖しなくて良かったけども。
指先からこぼれ落ちてゆく、たくさんの…
苦しい。
息苦しい。
この夏の終わり、夢が半歩ほど現実に近づいた今、不意に私はあらゆる現実を取りこぼしている自分に気づく。

あの娘たちは、決して現実が「辛い」わけじゃない。ただ現実が「気に入らない」のだ。だから仮面を被り、仮装する。断続的でしかも終わることのない、子供じみたハロウィン・パーティだ。

くだらない。

けれど、そう、健やかな心身を死と退廃で彩るそのメンタリティは、病んだ心身を健全に偽ろうとするこの私のそれよりも、ずっと明るく正常だ。

近頃、飲むと必ずバッドトリップを起こす。夢をじわじわ現実に引き寄せながらも、真性のペシミストたる私の精神はただ恐怖をしか感じない。

秋が来るのは毎年のことなのだから、いい加減に慣れなければ。書を捨て…ることはできないけれど書を携えて、町へ出なければ。

あと半月。
私はまだ、重いものを持ち上げている最中だ。
バッドトリップ!
「私の義務は、辛抱強く、偽善的で、かつ謙虚でいること、…」
(『パリの廃墟』ジャック・レダ)

唐突だけれど、あと十歳若かったら、ゴスロリをやってただろうと思う。

テクスチャの上質さに惹かれるのだ。ああいう服は、高価なだけあって非常に仕立てが良い。その生地の質感とか細部の丁寧さとか、そういうものが私を惹きつける。

でも、2007年に横浜美術館で行われたらしい企画展の図版『GOTH』を見ていて、ひどく心が痛んだ。

出品者のことではない。
その企画展のためにストリートで撮影された写真のことだ。それらの写真はどれも、「私ではない存在」を切り取っていた。

死を想う美術、と、図版の編者である木村絵理子は「ゴシック」のメンタリティをそう定義している。けれど巷に溢れているのはひたすらな自己否定のメンタリティ、或いは、現実の自己を封印した上に成り立つ束の間の、そして架空の自己肯定。

そんなにも、君らは「今ある自分」を覆い隠さずにはいられないのか? 理想の殻を纏ったところで、現実は変わりはしない。それでも黒いマニキュアやシャドウで塗り潰さねばならないほど、その現実は、君らにとって受け入れ難いのか?

未だに、ゴス服を着てみたいという欲望はある。けれど冷静に考えてみると、私はそういう服を「着たい」のではなくて、ただ手元に置いて眺めたいだけなのだ。例えばメアリ・マグダレンのクラシカルなワンピースは芸術品だと思う。でも、それは服そのものが芸術なのであって、誰かが着るためのものではないという気がする。

あの生地に触ってみたいとは思うけど、うーん、やっぱり買わないでおこう(実は半年に一度くらい、買ってしまおうかと悩むのだ)。

死を想う美術?

タナトスの女神の気配。けれど、死を想うことは生の証でもある。メメント・モリ、それは確かに、生きている者にしか語ることのできない言葉だ。
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。